八話-005日目 星捌きの無限負世界 ~Errors_Lock_Handler_World
@悟視点@
「う。ううっ。……んん?」
ぼんやりとした意識の中、俺は目を閉じたまま違和感を感じていた。床が硬い。寮や神社で目を覚ますときは感じたことのない違和感だ。急速に意識がはっきりしていく。目に力を入れて、俺は重い瞼を少しずつ持ち上げようとする。
「あ、起きましたか!?雷之 悟!」
「んー。その声。パンレーかぁ」
「私もよ!おはようね、悟!」
「……ん?」
パンレーに続いて聞き覚えのある声が聞こえる。誰の声かを思い出すよりも先に、うっすらと明けた目のピントが声の主を捉えてしまう。俺の目に映ったのは、目の前でウインクをしている印納さんのアップ顔であった!
「うおああああぁーーーっ!?い、印納さんっ!!!」
思わず叫びながら、俺は転がって距離をとる。そのまま起き上がり体勢を立て直すと、俺は懐の銃に手を掛けた!
「ふっ。美女の顔を見て歓喜の声を上げるとは。いいご身分ね!そのまま水鉄砲で私をびしょびしょにする気でしょー?」
「心臓に悪い!一体何の用だよ!?忙しいんですよ俺は!」
「落ち着きなさい、雷之 悟。私たちは彼女の領域に上がり込んでいるのですよ」
「なんだって?」
胸ポケットから顔を出したパンレーの言葉で、俺は冷静さを取り戻す。……思い出した。俺はパンレーとの瞑宰京散策で恐怖の大王一族のアジトに辿り着いたんだ。で、仲間を洗脳から救おうとアジトに乗り込んだまではよかったが。最後の最後で、城赤のレアカードの効果でカードに引きずり込まれてしまった。俺の記憶はそこで途切れている。
「ちっ。城赤に一杯喰わされたのか。じゃあここは……?」
俺は周囲を見渡す。まず最初に目に映ったのは狂気の沙汰であった。見える範囲の至るところで、あの印納さんが大量発生していたのだ!……いや数自体は多くはない。50人程度の印納さんが、学校のグラウンド規模の区画にバラけているだけだ。だがそれでも、1人でも厄介な印納さんがこの人数居るんだ!大量発生の供給過多で間違いねーよ!
「嘘だろ……!狂ってるのかこの世界!?なんてもの増やしてやがる!」
「ちょっと!無礼ですよお前!」
「ふふふ。パンレーの言う通りね。わからないかしら、悟?この世界は、私の体内ともリンクしているのよ。体の一部に無断侵入しておいて、その言い草はないわー」
「げっ!印納さんの体内ぃ……!?」
再び周囲をよく見てみるが、とても体内には見えない。下は素材不明の無機質な床。上は星がちらばる夜空。床から生えるように建ち並ぶ箱型の建物は、あれで一軒家のつもりなのか?光源は弱々しく光る星のみで、どこを見ても薄暗い。気が滅入りそうな環境だ。一方で、周囲にちらばる印納さんたちは、楽しそうというかエネルギッシュに見える。
……うん。体内を見渡した感想とは思えないな!
「ここは負世界。極限のマイナスエネルギーから辿り着ける宇宙の極地よ!亡き父、ロックハンドラの遺志を継ぐ秘密拠点!最強の圧縮理論を継承しているわ!」
「今の電子界は、0に近いエネルギーだけが入れる狭き門ですが……。負世界はその比ではありません!物理システム上に存在するもの全てに加え、存在しないもの全ての出入りが禁じられています!」
「負世界は、存在するものしないもの全てを通さない。でもあなたたちは負世界にやってきた。そう、鍵があるのよ!条件から外れたエラー状態のみが!負世界に渡るための唯一の鍵!あなたたちは今、物理現象を超越した状態下にある!城赤という男のカードには、物理の枠組みを超える力が秘められていたのよ!」
俺たちがエラー扱いだということか!?エラーと言えば、ゲームや電子機器類でよく聞く言葉!異常を知らせるときによく見る表記だ!存在するかしないかが条件なら、2つ同時に両立はしないからぁ……、条件を片方満たすのが正常で……、条件を両方満たすか両方満たさないのが多分エラーで………………、今は俺たちがエラー状態ぃ?お、俺たちは本当に無事なんだろうな!?
「さて説明は終わりよ。全員起きたし役目は果たしたわ。帰りは好きな私に声を掛けてね。何か得るものがあればいいのだけど。ふふふっ」
「あ、特星には帰れるのか」
「まだわからないわー。1つ忠告しておくけど。この浮島の外に出ちゃダメだからね」
「浮島?」
床を目で追うと、先端部が途切れていることがわかる。印納さんの言うように、ここは浮島で間違いなさそうだ。島の外は穏やかな星空に見えるが……。見た目とは裏腹にヤバいのかな。
「負世界の周囲にある膨大なマイナスエネルギーは危険なの。エネルギーのない空間すらも豪勢なエサのようなもの。0すらも余すことなく喰らい尽くすわ。あなた達はエラー状態だけれど、マイナス無限に太刀打ちする力はない。素直に正規ルートを使うことね」
忠告を終えると、目の前の印納さんはぱっと姿を消す。……俺の知る印納さんとは思えない程まともな対応だったな。あれじゃあただの美人な先輩じゃないか。
残された俺はパンレーに視線を移す。
「…………んー」
パンレーは胸ポケットの縁に短い腕を乗せて、他の印納さんがうろつくだけの前方を見つめている。何かを考えこんでいるようだ。しばらく眺めていると、こっちを向いたパンレーと目が合った。
「あっ。お前は今起きたんですよね。お前が寝ている間に大方の説明は聞いています。わからないことがあれば、私がレクチャーしてあげますよ!」
「そりゃありがたい。じゃあ、他の連中の行方を教えてくれ。ウィルやレッドカード団3人もここに来てるのか?俺の記憶では、奴らもカード効果に巻き込まれてたんだが」
「レッドカード団の3人組なら帰りましたよ。負世界にかなり困惑してる様子でしたからね。逆にウィルは順応していて、向こうで修行中です。今は、マイナスエネルギーを学んでいますね」
パンレーが顔を向けた方を見る。そこは、いくつもある箱型の建物の一つであった。扉の類がない、出入り口が開きっぱなしの建物。解放的と言えばその通りだが……。人が普段使いするには少し、パーツと飾り気が足りてない気もする。
にしても負世界だっけか。こんな世界に来てまで修行できるウィルは凄いぜ。ウィルの流派も今日初めて知ったが。レッガーブレードのような必殺剣が扱えるとは思わなかった。あいつの戦闘のポテンシャルは俺よりも上かもしれないな。
[ごおおおおおおぉ……!]
「きゃっ!?何ですこの気配は!?」
「こ、これは!?ウィルのレッガーブレードが発動してるんだ!」
「れっがーぶれーど……?」
あ、そうか。パンレーはクレー戦以降は気絶してたのか。ウィルのレッガーブレードを見たことなかったな。この際だからパンレーにも見せておくか。信仰の力も含んでいる必殺剣だ。信仰専門家のパンレーなら興味あるだろ。
「ウィルの祈りの必殺剣さ!若干信仰の力も使ってる!見に行こうぜ!」
「確かに信仰の力を感じますね。いいでしょう。急ぎましょう、雷之 悟!」
「ああ!……ん?」
胸ポケットのパンレーと共に建物に向かおうとする俺。しかし視界の端にある違和感を感じ、足を止めた。大量発生している印納さんの中に、見知らぬ人物が紛れていたからだ。
視線を向けた先には子供がいた。上下緑の衣服を着たそいつは腕組みをしながら立っていた。子供とは思えない不敵な笑みを浮かべながら、鋭い視線をこちらに向けている。一見すると、小学生低学年の男子くらいに見える。……見知らぬ顔だが、あの悪党面はどこかで見覚えがあるような?
「雷之 悟?一体どうしたんですか、ぼーっと立ち止まって」
「ああいや。今はいいや!急ぐか!」
今は、ウィルのレッガーブレードを優先する。建物までは距離があるが、必殺剣の貯め時間を考えれば丁度いい。到着する頃にはレッガーブレードを見せれるだろう。
走りながら横目で子供の方を見る。子供は軽くこちらに手を振りながら、走り去る俺を見送っている。……不気味な野郎だ。睨みの強い顔と子供らしい動作がまるでかみ合ってない。罠にハマる人間を待ち伏せる悪童。そんな第一印象だ。奴の身振りが、俺の関わりたくない気を掻き立てている。
ま、まあ奴に逃げ隠れする気配はない。必要なら、後で話を聞きゃいいさ!
「祈りがマイナスを制します!祈りの必殺剣!秘剣、レッガーブレードぉっ!」
[ごごおおおおおぉん!]
俺とパンレーが建物に辿り着いた瞬間。レッガーブレードの構えをするウィルの後ろ姿が目に入った。俺が声を掛ける間もなく、ウィルは前方に切りかかった!ウィルの攻撃先である部屋の奥には、ひとりの人物が攻撃を待ち構えている。印納さんだ!コートを羽織った印納さんは、片手を前に出し、振り下ろされた剣を掴んだ!レッガーブレードを……受け止めた!?
「くうっ」
しかし剣の刃に触れた瞬間、印納さんの姿勢が崩れた。そして近くに白い炎が1つ現れると、印納さんは床に倒れてしまった!まさかウィルが印納さんを倒したのか……?あの人、倒せるタイプの人なのか。
「レッガーブレード第1の効果、強制気絶!これで試合終了です!」
「あれがレッガーブレード……!彼女の必殺剣。祈りの剣ですか」
パンレーもレッガーブレードを見た驚きを隠せないようだ。そりゃそうか。何度か見てる俺だって驚いてるんだ。まさか印納さんを気絶させるとは思わなかったからな。パンレーに至っては、印納さんの出自や父親の大怪獣と縁があったんだ。きっと俺以上の驚きがあるのだろう。
「ど、どうだパンレー。あれこそが特星の元勇者の必殺剣だ……!ましてやあの印納さんが気絶しちまった。お前にとっても希少な体験なんじゃねーか」
「確かにそうですね。気絶する印納は初めて見ます。……でも雷之 悟。まだ信仰が使われていませんよ。レッガーブレードに信仰を使う効果が含まれているのなら。油断はできません。印納がコートを着ているのは、レッガーブレードの弱点を示すヒントなのかも」
「なんだって?……ん?うぐ!?」
「ら、雷之 悟?ぐっ!?」
「うう……っ!?」
[どさどさぁ!]
突如、足腰に力が入らなくなり俺の体は床に倒れ伏す。しかも俺だけではない。顔を上げると、ウィルも苦しそうな声を上げて床に倒れている!パンレーに至っては、倒れた拍子に胸ポケットごと押し潰してしまったかもしれない!な、何が起こっているんだ……!?
「ふふふふ。やるわねウィル。レッガーブレードが私に通じたことは褒めてあげる。だけれど読みの力は脳筋レベルだわ。後ろの専門家を見習うべきね!」
「そんな……!レッガーブレードが効いていない?」
「通じてはいるってばー。ひとまず返してもらうわよ!マイナス無限の一部をね!」
[ぱちん]
印納さんが指を鳴らすと力の流出が止まる。今さっきまでは力が奪われている感じだったが、今は体に力が蓄えられていく感覚を感じる。……まだ回復しきってはいない。だけどウィルが立ち上がる姿が見えたので、俺も負けじと体を起こした。
「ふうー。コートの胸ポケットの中で潰されかけました。危ない危ない」
「パンレー!よかった無事だったか!」
「悟さんにパンレーさん!す、すみませんお二人共。特訓に巻き込んでしまって」
「些細なことですね。それよりもウィル。倒れる直前に信仰の力を感じました。最後の現象、あれは信仰の力が原因かもしれませんよ」
「「え?」」
「半分正解ねパンレー。レッガーブレードには、攻撃対象を無力化して打ち勝つという性質があるのだけど。無力化したエネルギーは、消えてしまうわけではないわ。攻撃後、回復エネルギーになってウィルの仲間に分配されるのよ。祈りの力によってね」
「うっ。印納さんには全部バレていましたか。そうなんですよ。だから本来、レッガーブレードでエネルギーを分配しても倒れる筈ないんです。一体なぜ……?」
ウィルは不安げに手の内にある剣を見つめる。他者を勝手に回復するだけならまだしも、ダメージが分配されたかもしれないんだ。生真面目なウィルには気が重いのだろう。しかも城赤戦での回復量の比じゃない疲労感だった。技の不具合の可能性もあるし、結構プレッシャーかもな。
「レッガーブレードは機能してたわ。第一の効果で私は気絶したからね。私から奪った意識は、正常に回復エネルギーに変換されていた。レッガーブレードの挙動の原因はエネルギーの種類じゃない!回復量にあるのよ!」
「「「回復量……?」」」
「私のマイナスエネルギーを得れば最期よ。マイナスが尽きるまで持ち主のエネルギーを奪い続けるわ。そして、私はマイナス無限のエネルギーを待つ!」
「……なるほど。レッガーブレードの分配効果ですか。印納のマイナス無限を分配してしまったと」
「お。パンレーは今の説明でわかるのか?」
「ええ。無限はいくつに分けても無限です。レッガーブレードで回復効果を分配しても回復量がマイナス無限のまま。回復効果を付与された人は、エネルギーを奪われ続けるんです」
「毒かよ!?ヤバすぎる!」
「ううっ。マイナスエネルギーの性質を全く見抜けませんでした。そればかりか知人の皆を危険な目に。……すみません。少し頭を冷やしてきます」
ウィルはレッガーブレードを逆手に取られてショックだったのか、建物の外へ出ていく。善戦してたとは思うけどな。……今の様子じゃ、ウィルはしばらく休んだ方がよさそうだな。恐怖の大王一族の話はもう少し後にするか。
建物には俺とパンレーと印納さんの3人が残った。ウィルはマイナス無限を見切るために1人になりたいと、建物の外へ行ってしまった。コツを掴んだ後は、地球の数学にも手を出すつもりらしい。……学校休みなのに自主勉強か。見上げた奴だぜ。
「で、悟もマイナスの力に興味あるのよね?この私、知の印納がコツを教えてあげてもいいわよ。あなたなら手早く強くなれるわよ」
「知の印納?」
「私、説明能力が若干高いのよ。それに、いつもの私なら授業料に一戦するけど。私は不要な戦いはしないわ。知識の共有の方が好みでね。さあどうする悟?」
肩に掛けたコートを整え、こちらに問いかける印納さん。……俺は今、恐怖の大王一族との戦いに巻き込まれている。そして城赤に敗れた。今、一番欲しいのは奴らに関する情報だが、パワーアップの機会は逃したくない。
「印納さん。俺が知りたいのは2つだ。まず恐怖の大王一族に関する情報。もう一つは、あんたの言うマイナスの力ついてだ!役に立つんだろ?」
「悟の理解力次第ね。後、圧縮の技量も要るけど」
「なら両方問題ねーな!聞くぜ、マイナスの力とやらの扱い方をな!パンレーも難しい話が出てきたら説明頼むぜ!」
「私の専門は信仰ですよ?ま、いいですけどね。数学に疎いお前がコツを掴めるか、見届けてあげましょう」
俺とパンレーは頷き合い、マイナスの力を身に着ける意思を示す。俺たちの言葉を聞き、印納さんは話を始める。
「聞きたいことは2つね。では先にマイナスの力を話しましょう。まずマイナスを扱う考え方は、いくつかの物理現象と深く関係しているの。……悟!あなたの魔法弾には"圧縮"の要素が含まれているわね!実は"圧縮"は、マイナスの力とはシナジー抜群なのよ!」
「圧縮がマイナスの力と?」
「付け加えると、圧縮の代表格である重力。即ち、ブラックホールや星の重力の類は、マイナスの力で引き起こされるのよ」
「地球ではあまり聞かない説ですね。マイナスの力で重力発生だなんて」
「曖昧でよくわかんねーな。まずマイナスの力は物質なのか?」
「物質ではないわね。マイナスの力は力の大きさだから。あ、私の一部定義は地球のものと異なるから、注意してね」
ん?印納さんの定義は地球と違うのか。地球での定義がどんなものかはわからないが、物質といわれてイメージするのは鉄とかの素材かな。水のような液体も……物質ではあるか。
「印納の定義では、物質はどのようなものが該当するんですか?」
「そうねぇ。"形状を持つもの"を物質とするわ。例えば、力の大きさは物質ではない。質量やエネルギーも物質としては扱わない。形状を観測不能なものは肌感で決めればいいわ」
「肌感……。随分雑ですね」
「複雑だけど、俺の物質のイメージには近いかな」
むしろ、形状のないものが物質扱いってのはどういうことだろう?存在するのか?地球だと、物質とそれ以外の分別だけでも相当苦労しそうだ。
「形状を持つものは全て物質よ。これに対して、物質の力に関するものを"挙動"と呼ばせてもらうわ。エネルギーや質量は挙動。名称や式は挙動ではないけどね」
「名称は式は、人が理解や区別のために言語化したもの。物質自体には、名称や式自体は備わってはいません。わかりますか雷之 悟?」
「まー名前や式が挙動でないことはわかるぜ。物質の計算には使うけど、物質が計算するわけじゃねーからな」
「二人とも問題なさそうね。地球だと、形状や挙動はまとめて性質と呼ばれたりするけど。形状と挙動を区別することは物質の理解に役立つと思うわ。……例えば光。地球では、光は波動と粒子の性質を持つと言われているわね」
「波動と粒子ねぇ。……ダメだ意味わからん。波動使いの校長でも理解できるかどうか……」
「印納の区分で説明します。光には、個体での形状と挙動、集団での形状と挙動があるんです。で、個体を光子、集団を波動と呼ぶのです」
「んー。わかりやすい気もするな。性質云々よりは」
「悟がマイナスの力を扱うには理解が必要よ。形状と挙動。この区分は、あんたの理解と必殺技獲得を大いに助けるわ」
「でもさあ印納さん。圧縮の話が物質の話になってるぜ。圧縮する物質まで理解するとなると、途方もない長話になっちまう。俺の学習能力じゃそろそろ厳しいぜ」
「心配無用よ。物質の基本を説明したのは、圧縮という現象を理解する為。今から解説するわ。お待ちかねの、マイナスの力による圧縮の原理をね!」
印納さんが指パッチンをすると、周囲の景色が一瞬で切り替わった!部屋の床を除いた周辺全てが、宇宙空間となったのだ!本物なのか幻覚なのか、俺の目をもってしても判断がつかない!
「景色を変えましたね。今からが本番のようですよ、雷之 悟」
「今から俺が、マイナスの力を身に着けるのか」
「そうね。でも今すぐではない。5分の間、休憩時間を取るわ。5分間ブラックホールを見て、圧縮の概念に別れを告げておくのよ。マイナスの力による圧縮は、星の重力と同じ原理。既存の科学分野では未知の原理なの。単なる圧縮は通用しないわ」
印納さんの指差す先では、ブラックホールが細かい物質を引き寄せている。ありゃ確かに、外から押さえつける俺の圧縮砲とは異なる力のようだ。今から俺の必殺技は、あのブラックホールを目指すことになる訳か。
……上等だ!たかが自然現象如き、理解も再現もさくっと終わらせてやる!こっちは水やら空気やらをいくつも圧縮してんだぜ!宇宙の自然現象に後れを取ってたまるかよ!宇宙に生じるマイナスのt圧縮、必ず俺が使いこなすっ!
5分の休憩時間が終わる。ブラックホールを眺めるだけの、無言の休憩だ。休憩中に床に座った名残で、座ったままの座学形式で圧縮の授業は始まった。解説は引き続き、コートを羽織った知の印納さんが担当のようだ。
「ブラックホールは見慣れたかしら?じゃ、今から原理を考えましょう」
「私はさっぱりです。科学は勿論ですが、星や圧力や重力等はより専門外ですし。重力、圧縮、ブラックホール。一体どこに手を付ければいいのやら」
俺の胸ポケットの上に顎と手を乗せたまま、パンレーはため息を吐く。……今回、パンレーは5分休憩中に雑談を持ち掛けてこなかった。終始無言か唸っているだけだった。かなり真剣に考えていたのだろうが、結局答えは見つからなかったようだ。
「パンレーでもお手上げか。なら俺じゃ手も足も出ないな」
「圧縮の基本を考えるのよ、悟。圧縮とは本来、どのように行うのかを思い出してみて」
「力で押すんだろ?ぎゅーって感じでさ」
「その認識でいいわ。悟の言うように、圧縮は外からの圧力で行われるものよ。日頃行われる圧縮にも重力は影響しているけど、圧力の方が注目されがちね」
「技術転用がし易いからでしょう。一方、重力の正体に関しては、地球では未だに解明に至っていません。重力の強さや概要はある程度分かっているでしょうが。原理までは答えが出ていません」
「重力の概要も教えておくわ。重力は星が他の物質を引き込む力よ。引き込む力自体は引力と言われるけど、各種の力の総称みたいなものね。……覚えるべきは星の重力の仕組みだから、ごちゃ混ぜにしないように気を付けてね」
「星の仕組みを使った必殺技か。期待できそうだぜ!」
「まだわかりませんよ、雷之 悟。印納の考えが正しければの話です」
「ふっ。前置きが長くなったわね。じゃあ教えてあげるわ。重力の正体、星が持つマイナスの力の原理って奴をね……!」
「「おおっ」」
ようやくの本題に俺とパンレーは声を漏らす。何とかここまでの話は理解できているが、内容が増えるほど覚えるのが辛いからな。やっと本題が拝めそうで安心したぜ。
「星の重力を発生させているマイナスの力。それは真空よ!真空こそが重力の発生源なの!」
「真空!?し、真空って空気が全くない状態かなにかだろ?マイナス……っていうか。0とか無とかじゃないのか?」
「本気ですか印納?真空のマイナス要素って、一般的に用いる温度においてマイナスなくらいでは。熱のない状態を0とする絶対温度でさえ真空は0度ですし。雷之 悟の言うようにマイナスの力というには、その、期待外れというか」
「俺はそこまで言ってねーぞ」
「大丈夫よ。相対的にはマイナスだから」
「ええ~っ?」
印納さんの回答にパンレーは不満げな声を漏らす。俺もどっちかといえばパンレー寄りのノリだ。大体、重力は星全体に影響を与える超広範囲のよくわかんないものだ。その原理を、真空ひとつで説明できるもんなのか?
「あんたたちが落胆する気持ちもわかるわ。私の待つエネルギーはマイナス無限。それに近いとんでもパワーを期待していたのね。でも仕方ないのよ。宇宙は宇宙。私じゃない。相対的なマイナスが精々なのよ」
「なんか偉そうですね。宇宙相手に」
「ま、必殺技習得ではむしろ都合がいいぜ。重力技の習得は予定より楽そうだ。でも印納さん。真空が重力を発するのはいいとして、空気とか流れ込んだら真空じゃなくなるよな?星はどうやって真空を維持しているんだ?」
「いえ、重力発生のメカニズムが先です。何もない真空が重力を発するという発想の根拠。それを知った方が理解し易いでしょう」
「ええ。悟の疑問には、重力発生に至るまでの話を終えたら答えるわ。まずは……そうねー。なぜ真空なのかって理由からいきましょう。これはさっきも言ったけど、相対的にマイナスだからよ」
「確かに言ってたな。でも一体、何と比べて何がマイナスなんだ?」
「真空と観測可能な宇宙空間を比べた場合、圧力や熱エネルギーは真空の方が低いの。真空空間内だと圧力も熱エネルギーも共に0だからね」
「え?待ってくれ印納さん。宇宙空間は真空じゃないのか?」
宇宙に空気がないことは地球時代でも特星移住後でも共通認識の筈。だからこそロケットで星を移動しなきゃならないんじゃないのか?
「宇宙空間は完全な真空ではありませんよ、雷之 悟。人は窒息しますが、宇宙空間に分子などはわずかに存在します。だからこの周辺の宇宙空間は、完全な真空ではないので圧力も熱も0ではないんです」
「マジか。初めて知ったぜそんな話。だが宇宙空間に圧力や熱があるからなんだってんだ?」
「自分のセリフを思い出すのよ悟。あんた自分で言ってたじゃないの。真空に空気が流れたらって」
「く、空気が流れたら?えーっと、宇宙空間には分子があるって話だから……」
「ははーん。私には見当が付きましたよ印納!分子がある宇宙空間に真空空間があれば、分子が流れる!印納!お前はそれを重力だと言いたいわけですね!」
「あーそういうことか!原理は知らんが物質は真空に流れそうだな」
「中々わかってるわね。そう、重力発生を引き起こすのは圧力差よ……!物質は高圧から低圧に移動することで、バランスのいい状態になろうとする働きがあるの。しかも圧力差が大きい程、移動の力は大きくなるわ。圧力0の真空空間に、宇宙空間の分子が引き寄せられるって訳!」
「な、何となくイメージはできたよ。でもよ印納さん。物質は、圧力差を埋めてバランスを取ろうとするんだろ?じゃあ結局、さっきの俺の疑問にぶち当たるぜ!真空が重力を発生させるまではいい!だが分子が真空に流れ込めば、やはり真空はなくなっちまう筈だ!」
「そうです。真空空間が分子で満たされればもはや真空ではありません。それとも印納。お前は分子が流れ込んでも完全な真空は成立するとでも言う気ですか」
「よくわかってるじゃないパンレー。大正解よ!分子が流れ込んでも完全な真空はなくなりはしない!いえむしろ、難攻不落の真空ギミックが構築されてしまうわ……!」
「えっ?嘘でしょう!?」
「完全な真空が、難攻不落になっちまうのか!?」
印納さんの言葉はまるで、いつものように冗談でも言っているかのように聞こえる。しかしこの人は知の印納さんだ。ノリはこんなだが、ここまでの説明は割とあり得そうな内容だった。だから真空が難攻不落に進化するというのも、案外あり得るような気がしてくるぜ。
「極小サイズの真空空間で考えればわかりやすいわ。分子がギリギリ入るサイズの真空空間をイメージしてみて。それが宇宙空間にあったらどうなる?」
俺の頭の中には何となくのイメージが浮かぶ。宇宙空間の分子が一つ、宇宙空間から真空空間に移動するイメージだ。こうして俺のイメージ上の真空空間は、あっさりと分子に侵入されてしまった。……やはり難攻不落のイメージとは程遠い気がする。
「……真空空間に分子が流れ込むんじゃないか?」
「私も同じくそう思います」
「本当にそうかしら?真空空間の周りは全て宇宙空間よ。分子サイズの真空空間に対して、分子が全方向から押し寄せるわ。ちゃんと流れ込めると思う?」
「あっそうか!」
今回の真空空間は分子サイズ。分子の姿形はよくわからないが、全方向から同時に流れ込もうとすれば、分子同士が邪魔し合って真空空間に侵入できない!各分子の一部が侵入できるかもしれないが、その場合は分子より小さい真空空間が出現してしまう。
「た、確かに。真空の周囲で物質詰まりが起これば、真空は維持されますね……。いやしかし。真空周りで分子がぶつかり合うまではいいですけど。その後、互いに跳ね返って飛んでいくんじゃ」
「そのパターンもあるわ。でも真空空間に引き寄せられるのは隣接する分子だけではないからね。隣接する分子Aが動けば、移動前の位置には隙間ができる。その隙間に周囲の分子Bや他の物質が流れ込んでいくの。そして分子Bの移動によってまた隙間ができる。……これは波動と呼ばれる連鎖現象なんだけど。この現象を1つずつ処理してみればいいわ」
「次は波動の話か?難しそうだな。校長とか波動使うけど、絶対断念すると思うぜ」
とはいえパンレーの言うように、分子同士がぶつかり合って跳ね返るって考えもわかる。詰まるパターンと跳ね返るパターン。印納さんは両方ともあるとは言っているが。追加の説明があるってことは、詰まるまでの具体的な手順を説明できるってことだろう。
ってか湧いて出た疑問をいちいち説明していくのか?学ぶ範囲ヤバいことになりそうだけど、本当に大丈夫なんだろうか?
「大丈夫よー。長くはないし、悟でも難なくわかるように時系列順で話すわ。悟、真空空間に分子が詰まるまでの話は理解できてるわよね」
「ああうん。まず真空周りの分子Aが移動するんだよな。そして詰まるんだかぶつかり合う。……この移動する分子、1つじゃないけど全部Aでいいのか?」
「そうね。ただし最初の行動、1ターン目ではまだ移動するだけよ。ぶつかり合うのは次以降になるわ」
「時系列がなぜかターン制に……」
「俺はこれでいいぜ。わかりやすいからな。じゃあ2ターン目で分子はぶつかり合う訳だ。で、分子Aは詰まるか跳ね返る」
「今回は跳ね返る展開ね。……しかし分子Aはまだぶつかり合った段階。跳ね返るエネルギーを得ただけで位置は変わらないわ。分子Aはこのターン、真空空間に進もうとして失敗しているからね。跳ね返りでの移動は次のターンからよ。更に、このターンで分子Bが移動するわ」
「物質B?」
「さっき印納が言っていたでしょう。分子Aが移動したことで、Aが元居た位置に空きができたんです。その位置に移動する物質を、印納は分子Bと呼んでいるのですよ」
「分子Bが完全に空き空間に収まるかはわからない。空き空間は、完全な真空であるとも限らない。でも空き空間は、分子が移動してできた空間。少なくとも、分子のある隣接空間よりは圧力は低い筈よ。圧力が低いのであれば、圧力差により隣接の分子を引き寄せるわ。これが波動」
「マジかよ?俺の思ってる波動と全然違うんだけど」
「波動とは物質移動の連鎖のことなのよ。話を戻すけど、分子Aが跳ね返る準備をしている間に、分子BがAの位置に詰め寄った形ね。するとBの元居た位置には空きができるわ」
「あっ。空き空間ができたってことは次のターン……」
「ご名答よ悟。次のターン。
1.分子Aは跳ね返ろうとするけど、周囲の分子Bのどれかとぶつかり合う。他のAにも阻まれているからこのターンは移動不能。
2.前ターンに圧力差で移動した分子Bは真空方向へのエネルギーで進み続けるけど、跳ね返った分子Aに阻まれて失敗。このターンの移動は終了。
3.ぶつかり合った分子同士でエネルギーの移動が発生。軌道が変化するわ。
4.分子Bの元居た空間に分子Cがやってくる。
5.分子Cの元居た位置が空く。
……後は同じような処理を繰り返していくわ」
「波動の正体はすげー連鎖って訳か。元は圧力差による移動だけど、バグの温床だな」
「話を戻しますよ。印納の言いたかったのは、真空に引き寄せられた分子が跳ね返ろうしても、真空が維持されるパターンがあるということ。しかも真空を維持したまま圧力は高まっていく」
「分子が跳ね返るタイミングでは、既に分子の移動先がなくなっているからね。真空空間には物質が集まる。そこだけ押さえてくれればいいわ」
「なあ。外側に移動が連鎖していくってので思いついたんだけどさ。多分だが、外側で物質詰まりが起こったりもするよな」
「ですよね。それに今回は分子サイズの真空空間での話でしたが、もっと広い真空空間でも同様の現象は起こると思いますよ。真空空間の外側、真空空間より広い範囲から分子が移動するだけで、物質詰まりは発生する可能性があります」
「成功率は落ちるけど可能ね。ただまあ、Aの物質詰まりが成功しても、B以降がAに向かって突っ込んでくるから押し込まれるでしょうけど。……ま、宇宙は時間のごり押しが得意分野。広大な広さでのマルチタスクと、膨大な回数のトライ&エラー。その試行回数をもってすれば決して無茶な現象ではないわ」
「というか完全な真空である必要もありませんよね。周囲より圧力が低ければいいんですから」
「そこはほら、わかりやすさが大事だから」
「圧力差による移動って奴、かなり発生頻度は高そうだよな。重力発生以外にも何かやらかしてるんじゃないか?」
「まあ、宇宙の膨張辺りはこれで説明がつくわね。完全な真空空間では電磁波は発生しないけど、圧力差で物質が流出すれば電磁波発生の条件が整うわ。……つまり、観測可能な宇宙の外側は完全真空。圧力差による物質の流出で観測範囲が広がっている。だから宇宙が膨張しているように見える。とまあ、こう考えることができちゃう訳ね」
「それだと宇宙の物質全部出て行かないか?」
「印納の話が本当でも、当分大丈夫です。要らぬ心配ですよ」
「結構大変だったが、何とか理解できそうだぜ。圧力差による物質の移動!そして波動!それが重力の正体なんだな!」
「……でもそれだと重力の範囲が」
「あら。気づいちゃったわねパンレー。あのね悟、残念なお知らせがあるの」
「えっ?」
「圧力差による物質の移動だけど。これは重力ではないわ。重力を引き起こすための土台作りに他ならない。だからまだ、必殺技はどうやったって習得できないの」
「嘘だろ!?じゃあ重力ってのは一体……」
「原子核内における陽子と中性子の結びつき。そこで発する"強い力"よ!」
「強い力!?」
「強い力か……!必殺技に相応しい響きだぜ」
「強い力の話はそこまで難しくはないわ。圧力差の話に出てくるような、複雑なコンボやギミックの必要がないからね」
「にしても印納。強い力が重力だなんて、思い切った主張をしますね。……重力は質量のある物質相手であれば、遠かろうが比較的安定した力を発揮できますが。強い力はそうではありません。パワーこそ重力以上ですが、原子核内でしか相互作用できない筈」
「パンレーの話を聞いてると、全く別の力に聞こえるぜ。遠距離と近距離で距離適性が全然かみ合ってないし。重力の範囲って問題を解決できそうにない。どうするんだ印納さん?」
そもそも圧力差が重力で成り立たないって流れになったのは、パンレーが重力の範囲のことを指摘したからだ。だが、引力の正体として持ち出された強い力。相互作用とかはよくわからないが、重力の距離をカバーできないんじゃ問題は何も解決してないぜ。
「シンプルな解決法があるじゃない。距離減衰で飛距離が足りない……。じゃあパワーアップして届かせるのよっ!」
「い、印納……?原子核内でなら機能する距離ですよ?正気ですかお前?」
「原子核なら知ってるぜ。原子の中にあるんだろ?……って、印納さん。原子より短い射程距離を重力並みに伸ばすって、無理ゲーじゃないか?」
「届かせたとしてもですよ。力の落ち方が重力と全く別物なんです。強い力が重力というなら、どちらか一方の減少量に統一するしかないでしょうね」
「あら外れよパンレー。その二つの減衰距離、両立してしまうのよ」
「何でですかっ!?減衰距離の違う2つが同じ重力だという主張なのに、両立する訳ないでしょう!」
「落ち着けよパンレー。聞いてやろうじゃないか。射程距離の違う2つの力が、どうして同じ力だと考えたのかを……!そして射程距離をどうやって伸ばすのかをな!」
「本命の悟がやる気で嬉しいわ。着いてこれるかしら、ドラゴンすらたじろぐの重力の真相へ!」
「か、軽めに頼む」
「私はもう諦めムードです……。今のところ理解できる気がしません」
かなり長引いている必殺技の必修講座。次は、圧力に比べて難易度が高そうだが本命だ!強い力とやらの謎、必ず理解して必殺技を手に入れてみせるぜ!