20.この世界に生きる一人として
私は暗殺組織ヴェノマリスの、頭領の娘。毒をほとんど無効化する体質と豊富な毒の知識から、『毒姫』なんて呼ぶ者もいる。表向きの名前は、リンディ・ルーン。ルーン伯爵家の娘。
そうして私はこれまでに、何人もの人間を葬ってきた。刃物などの武器で直接手を下すことよりも、あれこれと調合した毒を使うことが多かった。
それが私の、このゲーム中の『リンディ』の経歴。なぜか私は、その記憶を丸ごと持っている。まるでリンディとして生まれ育ったかのように。
どうしてそんなことになっているのかは分からない。そもそもこの世界が何なのかも分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。
私はこの世界が作り物だとは、到底思えない。ここにいる人たちが作り物だというのも、納得いかない。
何かの拍子に、私はこの世界に生まれ変わってしまったのかもしれない。そう思うくらいに、全ては生き生きと色鮮やかだった。何度見直しても、作り物だとは思えなかった。
だからもう、誰も殺したくない。この世界に生きる一人の人間として、他の人たちの命も大切にしたい。これが、私の覚悟だ。
暗殺者失格のそんな言葉を、カティルは目を丸くして聞いていた。鏡のような銀色の目が、驚きと戸惑いに激しく揺れている。
「ナージェットも言っていたように、祝福の乙女はおそらく継承の儀式で殺される」
おそらく、ではなく間違いなく、だけれど。
「だからその儀式に臨むのは、エルメアではなく私のほうがいい。私のほうが彼女よりずっと強いから。私なら、生き延びられる可能性もある」
ただ本音のところ、ちょっぴり自信がない。本気で殺しにきている罠が待ち構えているというのなら、こちらも私一人では厳しいかもしれない。それでも、エルメアを送り込むよりはましだ。
「そうして私が継承の儀式を生き延びたら、継承の儀式は失敗に終わる。そのまま、『祝福の乙女』である私は姿を消す。これなら、ヴェノマリスの依頼もぎりぎり……ぎりぎり達成できたといえる、と思うの」
話を聞いているうちに、カティルの表情が苦しげにゆがむ。そんな彼に、次の言葉を聞かせるのは酷かもしれない。でも、ここまできたら言ってしまわないと。
「……それが済んだら、私は……ヴェノマリスを抜けようと思ってる。誰も殺さない、そんな新しい生き方を探したいの」
あちこちにひそんでいるデッドエンドを切り抜けて、ゲームの終わりを見届ける。でも、そこでこの世界は終わらないような、そんな気がしていた。
そうして、その先の生き方を考えてみた。誰も殺したくない。その覚悟を貫くには、ヴェノマリスを出なくてはならない。改めて、リンディという一人の人間で生きる道を探さなくてはならない。
でも私は、そちらの道を選びたかった。
カティルは何も答えない。立ち止まったまま、何かを考えているようだった。
一歩彼に近づいて、そのまま彼の顔を見上げる。普段はクロヒョウのように鋭い雰囲気の彼は、途方に暮れたような顔で私を見返していた。
やっぱり、困らせちゃったかな。彼とはもう、距離を置いたほうがいいかな。これからの、私の生き延びるための戦いに巻き込んだら、もっと混乱させそうだから。
「……分かった、姫。いや、リンディ。……この短期間に、君はずいぶんと変わった。こう、何というか……とても、強くなったように思える」
そう言って、彼は私の頭をなでた。子供の頃と、全く同じ優しい手つきで。
「ならば私も、ヴェノマリスを抜けよう」
「ええっ!?」
「私は昔からずっと、君を守るために努力を続けていたんだ。暗殺者としてより腕を上げれば、ヴェノマリスの中での地位を上げることができれば、その分君の力になれる。ずっとそう考えていた」
さらりとそう続けるカティルは、いつになくすっきりした顔をしていた。悩みも戸惑いも、完璧に吹き飛んでいる。
「……だから君のいないヴェノマリスになんて、戻っても意味がないんだ」
「で、でもそうすると、ヴェノマリスが追っ手を差し向けてくるかも……」
「その時は追い払おう。誰も殺したくないという君の思いを尊重して。私たちなら可能だ」
それはまあ、私たちはこう見えて、ヴェノマリスでもトップクラスの暗殺者ですし? 二人で協力すればどうにかなるような気もする。
……一瞬、ヴェノマリスの追っ手たちによって始末されるデッドエンドがちらりと脳裏をかすめたけれど、今は気にしないでおくことにする。
「……うん。ありがとう。頼りにしてる、お兄ちゃん」
そう呼びかけたら、カティルがまた目を丸くした。浅黒い頬に、ほんのりと血の色を上らせて。
何かを犠牲にして生き延びても、きっと後悔する。だから誰も死なない道を探す。そう心を決め、そしてカティルに宣言した。
そのせいなのか、これまでのもやもや感が嘘のように消し飛んでいた。妙に前向きな気分に突き動かされるようにして、軽やかに歩く。
と、カティルが遠くに目をやった。
「……ああ、迎えがきたな。私は隠れていよう。それではリンディ、ゆっくり休むんだぞ」
言うが早いか、彼の気配が消えた。今歩いている通りはさほど人も多くないし隠れる場所もないのに、彼はあっという間にいなくなってしまっていた。
本当に、隠密術についてはヴェノマリスでも右に出るものがいないと言われるだけのことはある。そうやって感心していたら、王宮のほうから誰かが駆け寄ってきた。
「ああ、リンディ殿、こちらにいたのか……」
それはテーミスだった。私を見つけてよほどほっとしたのか、胸に手を当てて深々とため息をついている。
「どうしたの、そんなにあわてて? ちょっと出かけてくるって、置き手紙をしていたのに……」
私の返事が聞こえていないのか、彼は険しい顔で様子で周囲を見渡している。そんな彼を見て、通りがかった人がけげんな顔をしていた。
「見たところ、他に誰もいないようだが……まさか、一人で外出を?」
一人で出かけるつもりではあった。けど王宮を出てすぐにカティルが勝手に合流してきて、それからずっと彼と一緒だったけれど……そのことについては黙っておくことにする。
いつか私とカティルはヴェノマリスを抜けることになるのだろうけど、それまでは一応暗殺者らしく、うかつに存在をばらさないでおこう。私との関係について尋ねられたら、さらにややこしくなるし。
……とはいえ、エルメアとナージェットはカティルの顔どころか正体まで知ってるけど。二人とも、意味もなく秘密をばらすような人間じゃない……と思いたい……だから、たぶん、きっと大丈夫。
などと考えつつ、テーミスにこくんとうなずく。それから、小声で付け加えた。
「……エルメアと話してたの。まっすぐ彼女のところに向かって、まっすぐ戻ってきたから、大丈夫」
するとテーミスは、苦しげに顔をゆがめた。子供に言い聞かせるような優しい声音で、そっと語り掛けてくる。
「あなたはか弱い女性だ。一人でふらふらしていたら、何があるか分からない。頼むから、一人で出歩かないでくれ」
私は強い。不意をつくことができれば、テーミスにも勝てる。でもテーミスはそのことを知らない。だから彼は、私を心配している。
そのことを申し訳ないと思うけれど、同時にちょっと嬉しいとも思ってしまう。って、困らせて喜ぶとか、何考えてるの。
自分で自分を叱り飛ばしていたら、彼は私に近づき手を取ってきた。いつもは凛としている表情が、妙に切なげに曇っている。
「……あなたまでいなくなってしまったら、俺は……耐えられない」
ん? ちょっと雲行きが?
「あなたが一人で出かけて、そして帰ってこなかったら……俺は一生、自分の無力を呪って生きることになる。役立たずの、愚か者だと」
あ、よかった。そういう意味ね。このまま甘い雰囲気になっちゃったらどうしようって、ちょっと焦った。まだ心の準備ができてないし、しかもたぶんその辺からカティルが見てるはずだし。
ともかく、テーミスを励ましてあげよう。心配かけちゃったしね。
「大丈夫。私は必ず、生きて戻るから……」
少々大げさかな。でも他にいい言葉が浮かばない。
「あなたが嘆かずに済むように、努力するわ。だからあと少し……一緒に頑張りましょう」
にっこり笑って、テーミスの手を握り返す。彼との付き合いも継承の儀式までだ。だったらそれまで、迷惑をかけないように頑張ろう。
そう決意しながら、テーミスを見つめ続けた。やがて彼も、おずおずと笑みを返してくれた。




