惚れた方の負け②
「渉の勝ちだな」
春人さんの落ち着いた声が、カフェ・ダリアを占領し静まり返る。
空調と掛け時計の音が時を進めている。
「……」
錆びついて動きの悪いロボットのように首がギチギチと横を向く。
そこにいるのは彼女。
右手の人差し指が彼女の下唇の左右を往復している。
小さく艶のあるぷっくりとした唇。
思考を加速させている夏菜の癖。
指先が止まり、口を開いた。
「そうですか」
そんな彼女から出てきた言葉はあっさりとした物で。
「僕、勝ったんだよね?」
「みたいですよ。念願の勝利の割には先輩は冷静ですね?」
「実感がないだけ」
なんか、こう。
込み上げてくるものがあるのかと思ったが特になく、勝利という実感もなかった。ただ冷静に春人さんの言葉を反芻していた。
初の黒星。
「先輩?」
と、夏菜が僕を呼ぶ。
ただ声色が少しいつもと違って首を傾げた。
「どうした?」
「私のこと好きですか?」
言葉が尻すぼみ。
最後のほうは聞き取りづらかった。
「うん。勿論、大好きだよ」
「……そうですか。ならいいです」
「?」
「いえ、少しだけ不安だったんですよね。もし私がたった一度でも先輩に負けたら、興味を失うんじゃないかって」
「そんなこと……」
「ある訳ないですよね。でも、思ってしまったらそうなんじゃないかってたまに不安になることもあるんですよ。負けてホッとしてしまうなんてことあるんですね」
彼女の父親が近くにいるということを忘れ、夏菜の頬に優しく触れる。
言葉でなんと伝えようかと考えて、出てきた答えがこれだ。
不安、悲痛。
そんな感情を言葉で拭おうとしても、そう簡単に消え去ることではないと僕は知っていて、でも心の底から好きだということを少しでも感じ取ってくれたらという思いから出た行動。
僕と彼女の始まりを考えれば、そういったプレッシャーのようなものを感じてしまったのかもしれない。勝ち続けなければならないなんていう脅迫概念とまではいかないものの、彼女に重荷を背負わせてしまった。
長いこと一緒にいたけれど、そんなことも気づけないなんて彼氏としてまだまだだと自分を思い直す。
「おほんっ。やるなら家でやれっ」
「すんません」
怒られて謝罪するも、夏菜は隣で笑っているだけ。
笑ってくれるなら怒られた価値があるというものだ。
「お前らのために時間を空けたつーのに……」
「はい、ありがとうございます」
「私が頼んだわけではないので、私は謝りませんよ」
それはそう。
これは僕のエゴだった。
「ちなみに渉は自分が勝てたワケはわかっているな?」
「えぇ、まぁ。そうじゃないかなってのは一つ思い浮かぶというか、思い知らされたばかりなので」
そうじゃなかったら僕は当然のように負けていただろう。
同じ調理で、ちょっと違う土俵。
でもそれですら彼女には勝てる訳もない。
僕の数ヶ月では、彼女の数年を覆せるだけの才能はない。
知っていたけれど、やはり悔しいものがある。
「自分のエゴを出すだけじゃ駄目ってことっすね」
「そうだ」
「飲食店なんかは特に。職人が作って客に買ってもらい認めてもらってようやく意味がある」
「わかってるじゃないか。飲食店を立ち上げることは言ってしまえば簡単だ。けれど、続けるのは難しい」
答え合わせをする僕らに夏菜の質問が間に入る。
「でしたら私の料理だって認められるはずですが」
「そうだな。味だけのことを言えば認められるだろう。だが、お前のはいくらで売るつもりだったんだ? 和牛を筆頭にスパイスも良いものを選んでいる。かなり素材も良いものを使っていたな。その上、今回は時間の都合上仕方ない部分もあっただろうが、もっと手の込んだ物を作る予定だっただろ」
「……」
夏菜が黙り込む。
さすが父親というべきか、そこまで読んでいたということだろうか。
自身の娘を見ながら春人さんは何故かにんまりとした笑顔を浮かべる。
「それになんだ、このメニュー……。渉の好きな物ばかりじゃないか。というよりは、渉の好きな物で店で出せそうな物をチョイスしたといった感じかぁ~?」
「うっ」
彼女の耳が真っ赤に染まり、表情だけは見せまいと顔は下へと俯く。
「なんですか、つまり私が先輩の事が好きすぎて負けたってことですか」
「わかってるじゃないか。味という一点で勝負していたのであれば間違いなくお前が勝ってただろうな。採算度外視で渉が作ったとしても、まぁ夏菜に利があった」
「結局私って先輩に対して恋愛では勝てないってことをわからされて、ちょっとばかり恥ずかしいです」
床を見つめたまま夏菜が僕の正面まで歩いてくると、倒れるようにして僕に背を預けてきた。余った手を自身に巻きつけるように誘導される。
「そりゃそうですよね。私の根幹にあるのは先輩への想いですから。貴方が美味しいと思える料理を喜んでくれる食事をと願い努力してきましたから」
それが今回の勝負では裏目に出た。
「それに私の好みも先輩に染められて同じ物ですからね。余計に凝ってしまったのかもしれません」
「渉はもう理解しているな」
「僕も夏菜とまったく同じ間違いしたばかりだからね」
今泉さんの提案してくれたコンペ。
最高のものを作ろうと素材からこだわった洋菓子。
予算の中で決められた中で素材を考えて、いつも店頭に並べるのだから値段以外の物。掛ける時間も大事になってくる。
腕が上がればその条件はある程度クリアされるものの、その一品にこだわりすぎる訳にもいかない。カレー屋やラーメン屋とは違う。
店の目玉になるような料理ならありかもしれないが、それにしては他との値段の差が出来てしまう。
だからこそ、あの夏の花は今泉さんの店では出せるものではなかった。
そして今回。
春人さんのお店では千円以内に抑えられている。
前日からの仕込みなど調理工程は工夫出来るが、勿論素材のグレードを落として提供出来る。色々と試行錯誤すればあのメニューを出せない訳ではない。
けれど、勝負はそうもいかない。
今出された物で評価する。
だから僕が勝てた。
「少し薄味で何度でも同じ注文をしたくなるような物。そして、濃い味付けで一発で美味いとわからせる物」
と春さんが一言を添える。
「私のはまだ家庭料理の範疇」
「そうだ。本当に渉のこと好きすぎだろ」
「うっるさい」
「いやぁー……、まさか自分の娘がこんなにも色ボケになるなんてな。冬乃の血濃過ぎだろ」
こっそりと嫁自慢してないかな。
この人。
僕が今回買った理由。
大人の現場で怒られたこそ生きた教訓。
夏菜も僕以上の手腕はあるが、春人さんのお店で春人さんの下で働いている。
技術は磨かれるが、経営の面でダメ出しも今回受けた形になる。
そして夏菜が僕のことを。
僕の想像をかなり越える程好きだったということ。
「後はお前らで話し合え」
春人さんはそう言って僕らを店から追い出した。
日はまだ高く照りつける。
汗を間に挟みつつ手を繋いで家路を歩いて行く。
僕らが店に居た間に雨が降っていたのか所々水たまりが出来ていた。
空を反射し、青空も落ちている。
下ばかり向いていても意味はないかと見上げると。
「……虹」
ぽつりと雨の変わりに夏菜のつぶやきが溢れる。
視線を追うと見事な虹が掛かっていた。
葉が雨粒に濡れ輝く。
「先輩」
思わず僕らは立ち止まり、彼女のほうから呼びかけられた。
「なに?」
「約束」
「あぁ、勿論忘れてないよ」
「んふっ。明日には家族ですね」
「うん」
「そう言えば先輩」
「どうした? 改まって」
繋がれた手が離れて、虹を背景に彼女が佇む。
ひとつひとつが絵になる。
惚れたほうの負けならば、ある意味僕も負けている。
そんな彼女を見るだけでドキドキするからだ。
でもたった一勝でも彼女に勝った。
夏菜の隣に並び立つ権利は得た。
このドキドキを彼女にも感じて欲しい。
彼女には恋愛でしか勝てていない。
「家族と言えば」
なんだろう。
うちの親のことだろうか。
結婚を知らせない訳にはいかないとか。
夏菜が僕の手を握り直し、ある場所へと誘導する。
それは彼女のお腹。
「私、ピル飲むのやめたんですよね」
別の意味でドキドキし始めた。
春人さんが通り、きっと親友の司も通った道。
「え、いつ? というか何ヶ月? 色々準備することで出来たね」
喜びのあまり、戸惑いながら彼女のお腹を撫でてしまった。
が、今度は彼女は困惑したような表情をちらつかせた。
「……あ、そういう反応なんですか」
「いやだって、めでたいことだし。幸い僕らには貯蓄もあって」
頼りになる彼女の両親がいる。
親としての先輩になる親友すらいるわけだ。
「その反応、妻になる側としては嬉しくはあるんですが、まだ身ごもったとは言ってないですよ。早とちりしてどうしたんですか?」
「確かに」
じゃ、なんで? 聞こうとするが、彼女は先回りして答える。
「以前、父さんと母さんの結婚した時の話を覚えていますか?」
「……あぁ、そういう」
踏み切れない春人さんに対して冬乃さんが仕掛けた罠。
親子揃ってそれをやろうとしたわけか。
「保険の意味もあって準備していたんですが」
「薬飲み始めたのはそれが理由?」
「まぁ半分は」
もう半分は本来の用途。
「子供は授かりもので、簡単には妊娠しませんでしたけれどね」
「僕が逃げないようにってよく考えるとすごいな……」
当時の春人さんもこんな気持だったのだろうか。
「いえ。単純な話。先輩に血の繋がった家族を作ってあげたかったんですよ」
「それは……」
言葉が詰まる。
「いくらうちの両親が先輩のことを本当の家族として接しても、先輩も両親だと思ってくれたとしても、先輩はどこか一歩引いてしまうじゃないですか」
本当にいい人達だと思う。
だからこそ心苦しく申し訳ないと思うこともあった。
「なので先輩に家族を作ってあげたかったんですよ」
そんなことを考えているとは思わなかった。
方法は予想の斜め上以上の事だったが、僕のことを第一に考えてくれて、出来ることをしてくれようとしたことがたまらなく嬉しい。
「人生思った通りにはいかないものですね」
当然のことを当然のようにして、夏菜はくすりと笑う。
何が面白いのかはわからないが、なんでも出来てしまう彼女のことだ。
困難があればあるほど楽しいのかもしれない。
「夏菜」
その彼女の名前を慈しみを持って呼ぶ。
夏に咲いた花よりも綺麗な彼女の名を。
「はい」
「改めて、これから宜しくね」
「……はい」
微笑む彼女の手のひらを取って再び歩き出す。
明日僕らは家族になる。
実は最終回間際です。
二人のことを書くのが楽しすぎて、色んなエピソードを書きたくなって好きなように書いたわけですが、おかげで纏まりのない感じなってしまったのが悔やまれるところでしょうか。
本当に短編だけで終わらすつもりだった作品だけに、長編にするのは難しかったです。
楽しかったので結果オーライですが。
もっと腕を磨きたいですね。
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