09 雨の日の思い出
私は、遠い記憶に思いを馳せた。あれは、朝からの冷たい雨がみぞれまじりになった夕刻のことだった。
◇
来客中でないときはいつも書き物机に向かって難しい顔をしている夫が、その時は窓辺に立ってじっと外を見ていた。
重たそうな雨粒がしとしとと石畳を濡らすのが街灯に照らされているだけのわびしい風景だ。いつもより小さく見える背中が気になって、私は思わず近寄って声をかけた。
『何かございましたか』
『ああ、アナベル』
打ち沈んでいた物思いから半分浮かび上がったような顔で、トマスは振り返った。どれくらい長い間、そうしていたのだろうか。暖炉の火は燃え付きかかって弱まり、カーテンを開け放した窓のガラスからしんしんと冷気が室内に染み込んできていた。
『もう少し暖かい方がよくありませんか。コールリッジに言って、火を運ばせましょうか』
暖炉を指して私が言うと、彼は緩く首を横に振った。
『もういいんだ。どのみちもう少しで夕食に降りていかなくてはならない時間だし』
『何を見ていらっしゃったんですか』
そんな詮索がましいことを聞いたのは、我ながら珍しい出来事だった。書斎にいるときの彼は、たいてい御用向きのことや領地の仕事をしていて、私は邪魔にならないよう、ただ礼をしてその場を離れるのが常だった。
『いや。こんな天気の日には、帝都の通りでも人が絶えることがあるのだな、と』
私は夫のとなりに並んで、窓の外を見た。確かに、冷たい雨に濡れた街路には、人どころか犬猫の一匹すら、動くものは見当たらなかった。
『こんな日だった。ハロルドとヴィオラの訃報を受け取ったのは』
伯父夫婦の名前だった。爵位や苗字でなく、親しく名前を呼ぶ言葉選びにも、その声音にも、懐かしい者を失った悲しみが滲んでいるようで、私ははっとして夫に視線を向けた。
『二人をご存知だったのですか』
『ああ。ハロルドは幼年学校と軍学校の級友だった。馬があって、よくつるんで悪さをしたもんだ。卒業した後も、彼がある夜会でヴィオラと出会ったとき、一目惚れしたと大騒ぎするあいつを落ち着かせて、まっとうに求婚させるのにはずいぶん手を焼いた。ヴィオラは絵が上手くて美しい娘で、私以外のあの頃の若者はみんな彼女にぞっこんだった。お前の才能は伯母譲りだな』
『よく手解きしていただきました』
うなずいた私に彼は一瞬視線をよこした。その瞳に、わずかに光るものが見えた気がして、私はとっさに目を伏せた。見てはいけないものを見てしまったようで決まりが悪かった。
『マリエットとヴィオラも仲がよくて、よく四人で遠乗りをしたものだった。いい人たちばかり、神様は早くお側に召してしまう』
マリエット、という名前は初めて聞くものだった。だが、また物思いに沈んだように窓の外に目をやる夫の横顔に、それが誰なのかはとても聞けなかった。大切な人であることだけが痛いほど伝わってきて、私は掛ける声すら失った。
外向きの仕事を入れなかったのは、一人静かに、別れた人たちを悼みたい日だったからなのか、それとも、たまたまぽっかりと予定が空いてしまった日の夫の心に、わびしい物思いが滑り込んできたのか。
せめて、もう少しの間だけでも部屋を暖める火が消えぬように、私は暖炉に近寄って、火掻き棒で残った燠火を中央に掻きよせた。そうして黙礼して、退出しようとしたとき、書き物机の上に古い写真が立ててあるのが見えたのだった。
モノクロームの画面の中から微笑みかける、伯父夫妻の優しい笑顔。それは私にとっても、もう取り返せない、何の悩みもなく幸せだった日々そのものだった。胸をつかれて、私は立ち尽くした。その写真立ての隣には、見たことのない美しい女性の写真が、精緻なマーガレットの花が彫りこまれた銀の写真立てに納まって、やはり、こちらを見ていた。その唇のカーブに、見覚えがある気がした。
ジュリアン。
その名前と顔が脈絡なく脳裏に浮かんで、私ははっとした。
もう一度写真を見る。トマスとよく似た顔立ち、骨格のジュリアンではあったが、こうして見ると、この女性とも彼はよく似ていた。
マリエットは隣国の言葉でマーガレットを表す。この国でも名付けによく使われる言葉だ。つまり、このマーガレットの写真立てに飾られた写真の女性がトマスの最初の妻で、ジュリアンの母親であり、たった今、トマスが偲んでいた女性ということなのだろう。だが、この屋敷にはその写真も肖像画も一枚も飾られていないし、使用人たちもその名前を口にすることは決してなかった。
彼は親友も、最愛の妻も、見送ることしかできなかったのだ。屋敷の目につくところから写真や肖像画を片付けさせ、使用人たちもその名前に言及しないようにしたのは、愛情が深すぎたからなのだろうか。
◇
「ですから、私が持っている一番の価値は、まずまず健康で、およそ彼より先に死ぬことがなさそうだ、ということなのではないかと思ったのです。濃い色の髪と瞳、堂々とした華やかなお顔立ちをしていらっしゃったマリエット様と、全く似ても似つかない風貌なのも、大切な方を思い出さなくてよいと思われたかもしれませんが」
私はいささか長い思い出話をそう締めくくった。
トマスにとっては、興味もわかない愛せない後妻だったとしても、亡くなった最愛の妻との思い出につながる親友の姪が、路頭に迷うのを見捨てる罪悪感よりはましだったのだろう。そして、誰かを己の正妻の座におくなら、その女性は愛せない妻であること、マリエットの思い出を汚さない存在であることが、彼の深い悲しみに浸された心を守るためには必要だったのではないか。
小生意気と思われそうで、誰にも言ったことはないし、今ジュリアンにも言うつもりはないが、私はそう考えていた。
そしてそうなら、命を救ってもらった恩返しに、私は彼の望むような妻であろうと、固く心に誓ったのだった。
「離縁されたと聞いて、私に思い付ける理由は、そうして拾ってはみたものの、彼の望んだ水準に私が達しなかったのでは、ということだけでした。その基準が何だったのかはさっぱりわかりませんけれど、本当にギリギリまで待ってくださって、それでもやはりだめだったな、と思われたのかと」
涙が頬を伝う感触が煩わしくて、私はハンカチを取り出すと、手と顔をぐいとぬぐった。
こんなことで泣くつもりはなかった。トマスが私を離縁して、失望のうちに永い眠りについたとするなら、安心して後を任せることのできる妻を育てるという、十年もの時間を費やした計画がうまくいかなくて、落胆しているのはきっと彼の方だ。
亡くなる数日前だなんて、それどころではないだろうタイミングで、私には何も告げないまま離縁を申し立てる。彼が死んだ後、未亡人として私が教会の席に着くことすら厭わしいと思うほどに、私は不足な妻だったのか、と考えると身を切られるような思いだった。
けれど、ジュリアンにこうして話しているうちに、どこかで、それは私の身勝手な怒りや傷つきなのだと諦めるような心持ちも湧いてきていた。結局、彼の心はずっと、マリエットのものだったのだから。
ジュリアンは再び櫂を手に取った。ゆっくりと、だが、力強く彼は漕いだ。向こう岸の深い杉の林が滑るように後ろへ飛び去ってゆく。
彼はわずかにかすれた声でぽつりと言った。
「母の写真を父が持っていたなんて、そして、母の名前をそんな風に語っていたなんて、初めて知りました。話してくれたことに感謝します、アナベル」
森の奥の方で、鳥が鳴きかわす声がまた遠く聞こえた。














