08 冬空を渡る小舟
ジュリアンは、私とダニエルの会話や、私が黙り込んだことなど全く意に介さない様子で、淡々と魚を釣っていた。冬のウィローリーフ釣りは初めてだと言っていたが、釣り自体の経験はあるらしい。餌を針につけるのも、釣れた魚を外すのも、無駄がない手の動きだった。
小一時間もすると、ダニエルが用意してくれた小さなバケツはいっぱいになった。
「旦那様。これだけあれば、旦那様方の昼食どころか、お供の女中さんや馬丁さんの分まで十分にございますだ」
控えめに、老小屋番はジュリアンに声を掛けた。
「ああ、もうか」
言われて我に返ったように、ジュリアンはバケツの中を見やると、竿を置いて立ち上がった。
「昼食の準備には少し時間が掛かるだろう。せっかく温かい服を着こんでここまで来たのだから、準備の間だけでも、ボートで湖の景色を見ますか、アナベル」
言葉の後半は私に向けられたものだった。名前を呼ばれて、私ははっとして顔を上げた。
トマスとそっくりなブルーグレーの瞳は、まっすぐに私を見ていた。返答は早く、的確に。いつも、少し緊張して夫に接していた頃の自分を取り戻して、私は答えた。
「ありがとうございます。見てみたいですわ」
私の供についてきてくれたサンディは、番小屋のかまどを兼ねる薪ストーブが消えてしまうと困るので、火の守りのため番小屋に残っていた。これからダニエルが魚を料理してくれるにしても、屋敷の調理人がバスケットに詰めてくれた料理を広げるのには、サンディの手助けが必要なはずだ。私がその近辺をうろうろしていても、邪魔になるだけだろう。
ボートから見る湖の景色というのも、刺繍のためのスケッチには良い題材となるはずだ。私は、差し出されたジュリアンの手を取ると、番小屋の裏手がわにあるもう一つの桟橋に係留されているというボートに向かった。
◇
湖面は鏡のように凪いで、柔らかい日差しの当たる二人乗りのボートの上は、思ったほどには寒くなかった。
馬車の中で向かい合っていたときと同じように、ジュリアンは何も言わなかった。櫂を動かすきしみと水音、遠くの森から聞こえる鳥の声だけが辺りを満たしていた。その中には、あの特徴的なバーミリオンの高らかなさえずりも混ざっている。
冬の初めの晴れ間には、夏には見られないほど深い空の青がみられる、といっていたトマスの言葉を思い出した。そして、それが湖面に映ると、まるで小舟で空を漕ぎ渡っているような気分になるのだ、と。
ジュリアンは湖の中央付近で手を止めた。櫂が乱していた水面が静かになって、美しい空が、船べりにまで押し寄せてくるかのようだった。
「アナベル」
低い声で呼ばれて、私は景色から同乗者に視線を移した。
「もう一度だけ、確認させてください。離縁はあなたから申し出たことではないのですね」
「違います」
私は唇をかみしめた。
「責めているのではありません。もしあなたに、伯爵家を離れて、誰か添い遂げたい人ができたとしても、人道的な見地から言えば、私にはそれを非難する権利はないでしょう。父とあなたは世間並みの夫婦とはかなり違いましたし、あなたはこれまで、そういう話があったとしても隠し通して、父の埋葬が済むまで、伯爵家の家名に泥を塗るような真似はしないでいてくれた。そもそも、何と言っても、父が許しているのですから」
「隠し通したって、何ですか。初めから違うと言っているでしょう!」
思わず声を荒らげた私に、彼は黙礼を返した。
「もしそうだとしたら、の話です。司祭からこの話を聞いたときは、てっきり、そういう話だと思いこんでしまったんです。ですが、あなたの昨日からの様子を見ていて、これは私の早とちりだったのかもしれない、と思い直しました。それで、まず、あなたの口からはっきり聞きたかったのです。嘘偽りなく、あなたには寝耳に水の話だったのですね。失礼なことを言って申し訳ありませんでした」
いつも私に対して冷淡と言っていいほどの態度を取る彼が、こうして真正面から謝罪の言葉を告げるとは思ってもみなかった。私は面食らいつつうなずいた。
「なぜ、ここに来ることを選んだのですか」
咎めるわけでもなく、ただ、理由を聞きたい、という声の調子に、私はできるだけ正直な言葉を探した。
「大旦那様は、いつも冷静で、何を考えているのかどう思っているのか、伝わりにくい人でした」
私の言葉に、ジュリアンは小さくうなずいた。
「そんなあの人が、私にファーンデイルのことを話すときは少し熱っぽくて、少し楽しそうで、彼があの冷たく見える表面とは裏腹に、この土地を深く愛していることがよくわかりました。だから、いつも私にとってファーンデイルは憧れの土地でした」
私が言葉を切っても、ジュリアンは何も言わなかった。底が見通せないほど深い湖水と同じ色の、青灰色の瞳がじっと私を見つめていた。
「あの人が見た景色を見てみたいと思ったけれど、それは、領地に足を踏み入れられない正妻という身分では叶うべくもない夢でした。だから私は刺繍に打ち込んだのです。どの作品も、麻布の上に糸で描いた景色を通じて、少しでもいいから、あの人の心に描かれていた景色を見たいと思いながら刺していたんです。出来上がった刺繍に、彼が深く一度うなずいてくれる瞬間が好きでした」
私は手袋をとって、船べりに寄せては返す澄んだ冬空に指を浸した。刺すように冷たい湖水が鋭く指先にかみつく。
「離縁されたのなら、ファーンデイルを再び訪れることはできないかもしれません。ですから、一度でいいからここに来てみたかったのです。冬は真っ白く氷に覆われ、夏は空の青と岸辺の緑を映して優しい色に変わるというこの湖面や、ここで聞こえる鳥の声。湖畔の林を歩けば足元から広がる朽葉の優しい匂い。そんな景色の中で釣りをするのが、あの人は本当に好きなようでした。他にもたくさん、見たいものはありましたけれど、限られた時間でどこか一ヶ所だけ、となればここでした」
「そうですか」
ジュリアンは静かにうなずいた。離縁されたというのに、こんなところに来たがった私の子どもっぽいわがままに、彼はもっと呆れるだろうと思っていたので、非難めいたところのないその相づちは意外だった。
「私では、大旦那様をお見送りするのに力不足だったのでしょうか。もちろん、理想的な正妻にはなれないとわかってはいたんですが、それでも」
私は自嘲気味に呟いていた。ふと口をついてこぼれ出てしまったのは、昨夜からぐるぐると頭の中をめぐっていた問い。ジュリアンにぶつけるつもりなどなかった疑問だった。
「どうしてそう思うのですか」
「そうではないなら、なぜ離縁などされたんでしょう。私にはそもそも、なぜ大旦那様が私を拾ったのかさえわからないのです。唯一、私に思い付けた回答は、彼が永遠の眠りにつくとき、安らかに休めるように、私がこちらで彼を見送る役割を果たすため、ということでした」
「それは、なぜ?」
「なぜ、とは?」
「私にも、父があなたとの結婚を決断した理由は謎でした。例えそれが仮説でも、あなたがひとつの考えにたどり着いた、きっかけや手がかりはあったのですか、アナベル?」
私は少し考えた。その考えはいつの間にかするりと、私の心の片隅に滑り込んでいた。あれはいつだったのだろう。
「今にして思えばひとつ、ございました」
私は感覚の鈍った指でまた水面を撫でた。こうなってしまうとむしろ、水の中の方が温かいような気がする。引き上げると、指の先がかじかんで薔薇色に染まっていた。
「私が嫁いできて一年近くがたった、初冬の頃でした。初雪になりそこねた、みぞれまじりの雨が降った日のことです。帝都屋敷にいらっしゃる時の大旦那様は、宮廷のお番役の御用向きや、議会のご用、陳情にこられた色々なギルドの方々との面談でいつもお忙しくしていらっしゃいました。でも、その日は外向きのお仕事をお休みになって、書斎にいらっしゃったんです。私はそのことを知らず、刺繍の本を取りに書斎を訪れたのですが――」














