07 シルバークレセント湖
シルバークレセント湖は、鏡のような湖面に、周囲の雪化粧した木立と抜けるような青空を映していた。上空は風が強いのか、小さな雲が転がるように流れて行く。
私は冬用の乗馬服に毛皮のロングケープを重ね、裏毛の羊革のブーツを履いていたが、馬車を止めて馬を繋いだ木陰はしんしんと冷たい空気がわだかまっていて、小さく足踏みをしないと足先からかじかんでしまいそうだった。
「帝都育ちの奥方様には寒すぎるところでさあ。申し訳ないです」
番小屋を預かっているという老木こり、ダニエルは、まるでここの低い気温が彼の責任であるかのように身を縮ませた。
彼自身は、編み込みのセーターに厚手のジャケットを羽織り、マフラーをくるりと襟元に巻いただけの軽装である。その事を私が指摘すると、彼はいささか恥ずかしそうに笑った。
「年が明けたら、ここらはもっと寒くなるです。この程度で震えていたら仕事にならんのですよ」
「湖面が凍るのは、本番の寒さが来てからだったのね」
帝都では積もるほど雪が降るのは稀である。草地や木立にこんもりと雪の綿帽子が乗っているのを見て、私はすっかり冬本番と勘違いしてしまったのだが、この辺の冬の寒さから言えば、クリスマス前のこの時期は、まだまだ序の口なのだと彼は言う。
私の隣で、ウールのロングコートを羽織ったジュリアンもうなずいた。
「このあたりの静水が完全に凍るのは一月の半ばです。上に乗って大丈夫なのは二月の間くらいですかね。もう少し北に行けば、クリスマス前から氷穴釣りをする地域もありますが」
「帝都育ちなのはあなたも同じでしょう」
すっかり先輩風をふかせるジュリアンに少々腹が立って、私は言い返した。
「騎士団で、冬の行軍演習があったんです。どの地形でどういう行動がとれるか把握しておくのは指揮官の務めですから」
彼は、飄々と肩をすくめた。伯爵家の当主であり、家中では目下唯一の成人男子である彼は、有事には一隊を率いて帝国軍に参加することになる。軍学校から騎士団への流れでは、彼が爵位を継ぐにあたって除隊するまでに、将来指揮官として行動するのに役立つ経験をなるべく多く積むことを重視したキャリアがデザインされていたらしい。
軍隊の話は女性向きではないと、トマスが直接私に騎士団や帝国軍の話をすることはなかったが、ジュリアンが帝都屋敷で過ごす折には、言葉少なな親子のぎこちない会話で、そんなことをうかがい知る機会もあった。
「では、氷穴釣りの経験もおありですか? 有事ともなれば、食料を現地調達しなければならない時もあるでしょう。冬場の隠密行動で銃を使った猟が出来なければ、こうして魚でお腹を満たすこともあるのでしょうね」
ジュリアンがよくわかっているようですから、ダニエルには温かい番小屋に帰ってもらいましょうか、とつけ加えてからかい半分に微笑むと、元・義理の息子は、彼にしては珍しく焦った様子で私の言葉尻をさえぎった。
「やめてください。ここでの釣りは、ダニエルに聞かないとどうにもなりません。そもそも、氷穴どころか、凍ってもいないんですから」
桟橋から糸を垂れて釣るか、ボートを出すことになるのだという。よく釣れるポイントは、この湖を、上から見ただけでは分からない湖底の地形や、時期に応じた水温の分布まで知り尽くしたダニエルでなければ見極められない。
「一本取られましたね」
ジュリアンは片頬をゆがめた。
私はとぼけて、何のことだかわからない、という笑顔を浮かべ、小首をかしげて見せた。
ジュリアンには一つ二つ、ささやかな意趣返しをしたって許されるはずだ。
彼は、隠し立てしていたわけではないと言っていたけれど、私の離縁などという重大な、そして、今さら急いでも仕方のない話題を、教会が領地に向かう旅の最中に敢えて早馬で知らせてきたとは考えにくかった。トマスの臨終を看取った司祭に彼の遺言を聞きに行くので、ファーンデイル領まで同行してほしい、と、領地にいたはずのジュリアンが帝都屋敷に私を迎えに来たのは、四日ほど前のことだった。その時には、彼はそのことをもう知っていたはずだ。
おそらく、領地の本邸に教会からの使いがやってきて、遺言を聞きに来るよう伝えたとき、ジュリアンも離縁のことを知らされたのではないか。あの馬車の長旅の間中、そんな重大な知らせを自分だけの胸にとどめておくなんて。
私は釣りの道具を用意しているダニエルに近づいて、餌のつけ方などを尋ねた。餌は、これが一番よく釣れる、とダニエルが捕まえておいてくれたミミズや水生昆虫だった。
「奥方様が、こんな虫を触ることはありません。ワシがしますから」
「あら。私、実家では庭のお世話をしていたのよ。ミミズもダンゴムシも、小さい頃はお友だちだったわ」
もう、はるか遠い昔のことのように思えた。男爵邸に入る前、父と母と三人で暮らしていた、帝都の片隅にある小さな家には、猫の額ほどの花壇があったのだ。母はそこに、初夏になると真っ白い花を毬のように咲かせるアナベルを植えて、大事に育てていた。私の名前は、母が大好きだった花からつけられたというわけだ。
あの頃、二十五歳の自分はどんな風に過ごしているか、なんて、漠然としか想像したことはなかった。優しい殿方と素敵な結婚をして、子どもが一人か二人、いるかしら。そんな風に思っていたかもしれない。
義理の息子だった二歳年上の青年伯爵と、冬空の下、亡くなった元夫の領地で魚釣りをしているなんて、夢にも思わなかった。
餌を針につけて、桟橋から釣糸を垂れると、あっという間にぴくぴくと竿の先が振動して、糸の先がぐうっと水中に引き込まれる。ダニエルの合図で竿を上げると、小さなナイフのように陽の光をはじいて踊る、小さな魚が二匹、糸の先で暴れていた。
ダニエルが、魚を素早く針から外して、澄んだ水を汲んでおいたバケツに放した。小さな魚は、驚いたようにバケツの中を二、三周ぐるぐると回ったが、やがて、観念したように底のほうに沈んで、じっと静かになった。真上から観察すると、エラブタのところをぱくぱくと動かして、息をしているのがわかった。
「生きているのねえ」
あまりに当たり前のことが、ぽろっと口をついて出た。ダニエルは慌てたように言った。
「奥方様が哀れに思われるのでしたら、最後に放してやれば、また元気に湖に帰ります」
「いいえ。おいしいんでしょう? ここは水が綺麗だから、採れたてが一番だと聞いたわ。番小屋で料理してもらえると言うので、楽しみにしていたの」
「都会のちゃんとした料理に慣れていらっしゃる奥方様のお口に合うかどうか、わからんですが」
「どうしてそんな風に、私を箱入りの都会のお姫様扱いするの?」
私はダニエルの恐縮した様子がおかしくて、くすくす笑った。
「実家ではなんでも自分でしたわ。釣りはしたことがなかったけれど、家の近くにできる場所があったら、家族の食事を助けるためにきっとやっていたと思う。自分の口に入るものが、全て、もともとは生きていたもので、それを育てたり、捕まえたりするのに、沢山の人の手を煩わせているのだって、もちろん知っているわ。小麦は額に汗をし手に豆をこしらえながら作られ、家畜は家族同然に大切に育てられ、狩り場や漁場の森や湖は領地の宝として皆が守ってきたのでしょう」
ダニエルは一瞬押し黙り、それから、静かに帽子をとって私に礼をした。
「ありがたいことです。それでこそトマス様の奥方様ですだ。ワシどもは、お話にしか聞いたことがなかったですが、都の奥方様は賢くてお優しい方だと、みんな言っとったです」
今度は、私が言葉に詰まって、会釈を返す番だった。
ファーンデイルで、私はどう思われていたのだろう。そんなことは、気にしたこともなかった。そのことに気がついて、恥ずかしくなった。
貴族社会では、色々言われていた。老伯爵の気の迷いで、見た目と若さだけを望まれて借金のカタに拾われた、分不相応な正妻。その割に、大した容姿でもないのね、と嘲るような陰口を何度も聞いた。きっとわがまま放題に、年上の夫に甘やかされているだろう毒婦。社交のために必要だからと用意してもらった新しいドレスや宝飾品を身につける度に、無遠慮に値踏みされたあげく、あんな娘のように若い妻にねだられれば、老いた夫は何でもしてしまうだろうさ、と聞こえよがしにトマスが悪く言われるのは、とても悲しかった。
そんなひどい悪口雑言が付きまとうものだから、外に出ることすら億劫で、ずっと、家に引きこもっていた。最低限の儀礼的な訪問にとどめ、社会との関わりをさけるうちに、今度は、気が弱く、頭の回転も遅い、残念な幼妻、とみられるようになっていた。引っ込み思案で威厳も意見も持たないような、軽んじられるだけの人間。
それでも、初めの頃よりはよほどましだし、自分がすこし我慢していれば済むのであれば、波風を立てる必要もない。人がどう思うかなんてどうにもできないのだから、そんなことを気にしていても仕方がない。そう思って、ほったらかしにしていた。
けれど、ファーンデイルの領民にとって、伯爵が父のように守ってくれる存在として尊敬の対象であるならば、その夫人は、母のように領民をいたわる存在として、敬愛を受けるに足るような人間でなければならなかったはずだ。
そして、ダニエルは真っすぐに、敬愛すべき前伯爵夫人として、初めて出会う私を扱ってくれている。何も知らない都会育ちの貴族の女が、領地の暮らしのわずかばかりを知っていたことだけでも感激してくれている。
彼は離縁のことはまだ知らないわけだが、離縁されていなかったとしても、私はその尊敬にふさわしい行動を、これまで帝都屋敷でとれていたのだろうか。彼らが誇りに思える伯爵夫人としてふるまえていたのだろうか。
思ってもみなかった、激しい後悔がこみあげた。
もっと、できることがあったのではないだろうか。私をバカにする人達に、毅然と対応できる道があったのではないだろうか。
ダニエルの真っすぐな尊敬を受けるべきなのは、そんな伯爵夫人ではなかっただろうか。
私は物思いにふけりつつ、繰り返し、釣れた魚を外してバケツに入れては、また、餌をつけて糸を垂れた。
無口になった私を、ダニエルは、大旦那様が亡くなったばかりなのだから、奥方様が折々にふさぎ込まれるのも無理ないことです、と勝手に合点して、そっとしておいてくれた。
黙ってしまえば、私に心を寄せてくれる人は、私に都合がいいようにその沈黙を解釈してくれる。そうでない人とは、私はただ距離を置いて暮らしてきた。そうやって波風を立てないことが世を渡る術だと思ってきたけれど、それは本当は、卑怯なその場しのぎの解決でしかなかったのかもしれない。
トマスは、そんな私の弱さを、許せなかったのだろうか。だから、離縁したのだろうか。
 














