06 行きたいところ
翌朝、私はまったく気が進まなかったが、しぶしぶ身だしなみを整えると朝食室へ降りていった。
明け方に少しだけうとうとと眠ったが、疲れが取れたとは到底言えない。化粧上手のサンディも匙を投げるほどの目の下のクマ、冴えない顔色。
扉の前で、念のため、自分の服装をチェックした。濃いグレーのドレスは喪の色だ。当然ながら、荷物にはその色合いの衣類しか詰めてきていない。スカートの生地に一つついていた小さなほこりをつまみ上げると、後で捨てるよう、ハンカチの折り目に畳み込んだ。ひどい顔色は仕方がないにしても、ジュリアンに必要以上に動揺したような隙を見せるのは嫌だった。
私の様子を見計らっていた使用人が絶妙なタイミングで引き開けた扉をくぐると、案の定、ジュリアンはもう朝食をとっている最中だった。
「おはようございます」
礼をする。ジュリアンは無表情に小さくうなずいた。挨拶のつもりらしかった。
私が朝食テーブルからトーストとベーコン一枚、卵を少しだけ皿にとって、用意されたジュリアンの向かいの席につくと、すかさずカップに紅茶が注がれた。本邸の侍女たちも完璧なマナーを身に付けている。何事にも妥協を許さないレイモンド家の家風は、こんなところにも徹底されているというわけだ。
「もう少しゆっくり休まれるかと思っていました。昨日お話しした通り、今日の午前中はあなたの気が向くように過ごしていただいて構わないのですから」
ジュリアンはテーブルの向こうから無感情な声で言った。
つまり、お客様扱いで、屋敷を切り盛りする女主人としての役割は求められていないということだ。
昨日の朝までは、ジュリアンが結婚するまで屋敷の女主人の役割を降りるわけにはいかないと思っていた。そうであれば、朝一番に執事や侍女長と打合せして、来客の予定や食事のメニューを把握しておかなくてはならないはずなのに、今朝、本邸の使用人は誰も私のもとを訪れなかった。おそらく、そうしないようにジュリアンが指示したのだろう。
つまり、昨日の話、トマスが私を離縁したという衝撃発言は、奇妙な悪夢でも、たちの悪い冗談でもなく、厳然とした事実だということだ。
私は意識して背筋を伸ばしたまま、鷹揚にうなずいてみせた。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、羽を伸ばさせていただきますわ」
「行きたいところ、したいこと。希望があれば聞きますが」
私は一晩ずっと、考えていた。あの一言で、何もかもが変わってしまった世界を前にして、今日私が何をしたいのか。これから、私はどうしていくのか。
ファーンデイルの人間ではなくなるし、頼るべき実家もない。
となれば、私はこれから、自分の力で自分の面倒を見ていかなければならない。
トマスの正妻として過ごした十年間は、しかし、幼く何も出来なかった少女を、それでもなんとか生きていける見込みのある人間に変えてくれていた。それが、年の離れすぎた妻をほんの気まぐれにでも娶った、せめてもの彼なりの誠意だったのかもしれない。
今の私には、貴族の子女に教えられる程度には上達した刺繍の腕前がある。伯爵家の切り盛りについての知識や作法も身についた。刺繍か礼儀作法の家庭教師の口を探すとか、あるいは、ドレスショップから刺繍の内職を請け負えば、一人で生きていくことくらい、なんとかできるのではないか。養うべき家族がいるわけでもないのだから、住み込みの仕事だって探せるだろう。
トマスが私にくれたのは、何も持たない一人ぼっちの子どもが、世の中の荒波に立ち向かうために体勢を整える、奇跡のような時間だったのかもしれない。それが彼のささいな思い付きの結果として思いがけなく生じたものだとしても、私がいくら彼に感謝しても足りることはないくらい、貴重な時間と経験だった、ということは、客観的に自分の立場を考えればよくわかった。
父が亡くなったあの時、あの場で放り出されていたら、私は最悪の場合、娼館送りになって、今頃はとっくに伝染病で死んでいたのかもしれないのだから。
だとすれば、ここで、わざわざ元夫の遺言のもとに私に与えられたわずかな自由時間は、彼が私に許してくれた最後の贅沢、いわば餞別ということになるのだろう。
元夫、と、心の中で言葉にしてみるだけで、私の胸はまた、ちくりと痛んだ。
帝都屋敷を出発するときには、ファーンデイルに着いたら、何をさておいても、彼の墓にお参りして、花を捧げたいと思っていた。だが、状況は変わった。
「午後は、教会に行くのですよね」
私が確認すると、ジュリアンはきびきびとうなずいた。
「三時のお茶の時間に招待されています」
「でしたら、それに間に合うのであれば、行ってみたいところがございます」
「どこですか」
「シルバークレセント湖に。冬になると、氷に穴を開けて、ウィローリーフという小魚を釣るのでございましょう? 初心者でも簡単に釣れるのだと聞いたことがあります。魚釣りというのを、一度やってみたかったのです」
ジュリアンは一瞬凍り付いたように、淡いブルーグレーの瞳を見開いて私を見返した。
普段は父譲りの冷静沈着な態度を崩さない義理の息子の、驚愕し呆気にとられた表情など、めったに拝めるものではない。
私は、十年越しで再燃した、自分の置かれたあまりに曖昧で宙ぶらりんの立場への不安や、右へ左へとあっさり動かされてしまう自分の理不尽な運命への八つ当たりにも似た怒りを抱えていたにも関わらず、彼のあまりに当惑した顔に、思わず笑い出しそうになってしまった。
今まで、控えめで大人しく、引きこもりがちで影の薄かった元義母が、よもや墓参りも後回しにして魚釣りをしたいと言うなんて、彼は予想もしていなかったのだろう。
だが、敵もさるもの。
「分かりました。準備はすぐにさせます。昼食は、湖の番小屋で食べられるようにバスケットに詰めてもらいましょう。あなたは食事がすんだら、できるだけ温かい服装に着替えて、ホールに降りてきてください」
ジュリアンは一瞬の驚きから見事に体勢を立て直し、何でもないことのようにそう言うと、優雅にティーカップを口に運んだ。