05 最悪の知らせ
精一杯何でもない風に、差し出された手を取り、私は立ち上がった。促されるままに、先ほどまで座っていた長椅子にかけると、ジュリアンは、私から斜め九十度の角度に置かれたアームチェアに腰を下ろした。
「今、お茶を運ばせています」
「私の分はもう頂いています」
「とっくに冷めているでしょう」
見透かしたようなジュリアンの言い方に、うつむいてしまう。
「まあ、いらないなら飲まなくても構いませんが、本邸に入る前に、話がある」
「何でしょうか」
今や、ファーンデイル領の主はジュリアンである。彼の言葉は絶対だ。
「お茶がくるまで待ってください」
その一言で、彼の用件が内密の性質を含むものであることが察せられた。ティーワゴンを運んでくる宿の人間には聞かれたくないということだ。
案の定、ワゴンを運んできたメイドに、後はこちらでやるからいい、と言葉を掛けて、彼はすぐに人払いをした。私は立ち上がって、ポットに用意された熱い紅茶を二人分の茶器に注ぎ分けながら、改めて彼に尋ねた。
「ご用向きは何ですか、ジュリアン」
年上であり、男爵家よりも高位である伯爵家の嫡男の彼を、親しい家族として呼び捨てにするのは、結婚当初、最も身につけるのに抵抗があった慣習の一つだ。だが、トマスも、執事のコールリッジも、そしてジュリアン自身も、そこは頑として譲らなかった。いくら私が年下で男爵家の出身であろうと、トマスの正妻、ジュリアンの義母となったからには、私の儀礼上の立場は彼よりも上ということになるらしかった。それは、家長としての決定権がジュリアンにうつったからといって、変化するものではない。
「ここを出発すると、一時間ほどでファーンデイル邸に着きます。今日の夕食は、正餐にはしないで、それぞれの部屋に運ばせる段取りになっています」
私は怪訝に思いつつうなずいた。そんな話は何も当主であるジュリアンがわざわざ私に言いに来ることではない。
「それから、明日の午後は、教会に行って父の臨終を看取った司祭と面談することになっているので、そのつもりで。午前中は、あなたは初めてここを訪れたのですから、行きたいところがあればどこでも行ってみるといい、というのが、父の遺言でした。私が供をするよう言われています」
「そんな。忙しいのではないですか」
彼は首を横に振った。
「父の最後の言いつけです。破ってしまえば、詫びる機会すらないのですから、父との約束は守らせていただきたい」
四角四面な彼らしい発言だった。だが彼自身は、その言いつけをどう思っているのだろう。年寄りのわがままだと鬱陶しく思っているのか、新米領主の激務から一時離れて、無口な義母の相手を適当にするだけでよい、気分転換の機会だととらえているのか、その冬の湖のように静まった青灰色の瞳から伺い知ることはできなかった。
けれど、それだけなら、何も人払いまでする必要はない。サンディが横にいたとしても、馬車の中で言えばいいことだ。
私は背筋を伸ばして、ティーカップを口許に運ぶ青年伯爵の横顔を見つめた。まだ本題があるはずだ。よほど言いにくいことなのか。
悪いニュースでも驚かないようにしよう、と、心のベルトをぎゅっと締めた。だがその直後、彼がこちらを見ないままで放り出すように告げた言葉は、私の予想をはるかに越えていた。
「それから、つい先日まで私も知らされていなかったことなので、隠していたと受け取らないでいただきたいのだが。父は死ぬ三日前にあなたを離縁したそうです。つまり、あなたの身分は、正確には、前伯爵の未亡人ではないということになります。まだ、周囲に言う必要はありませんが」
私は息を飲んだ。ひゅうという神経にさわる音が、まるで他人のもののように耳を打った。
トマスが私を離縁した?
それは、思ってもみなかった、そして矛盾するようだが、心のどこかでずっと恐れていた可能性だった。
驚きすぎて声もでない私に苛立ったように、ジュリアンは言葉を重ねた。
「司祭様は、これはあなたの望みを叶えるためだと聞いていたそうですが。あなたが父に頼んでいたことではないのですか」
「とんでもありません!」
思ったよりも厳しく大きな声になってしまって、とっさに私は手で自分の口を押さえた。
周囲からはさんざん、息子より年下の若い娘に入れあげるなどみっともない、息子はもう立派に成人間近なのだから、馬鹿げた三度目の結婚など継嗣争いの無用な火種となるだけだ、早いうちに若い嫁には手切れ金でも渡して離縁、解消すればよいと言われていたのは私も知っていた。嫁いできたばかりの頃は、いつか本当にそうなるのではないかと恐れてもいた。
だが実際のところは、トマスは、そんなことは周囲に言いふらしてはいなかったと思うが、私には指一本触れていなかった。なので、継嗣をめぐる騒動が起こる心配などは無用だと本人がいちばんよくわかっていたはずだ。そうしたおせっかいな助言はすべて受け流して一切取り合っていない様子だった。
そんなトマスの揺るがない態度に、私の、いつ放り出されてしまうのかという不安はいつしか少しずつ薄らいでいた。だからといって、ではなぜ、そもそもの最初からそんな周囲の反対を押しきってまで、彼が私を拾ったのかは、結局わからずじまいだったわけだが。
それが、ここに来て、現実のものとなるなんて。
やはり、最初からただの気まぐれだったのか。
死がすぐ向こうに見えたとき、十年前にふと起こした気の迷いと、それをいさめる周囲に対して突っ張りとおした意地が、風向きが突然変わって燭台の明かりが消えてしまうように、不意に無益でどうでもよいことのように思われたのか。
今の私が、最後に彼を見送る妻ということになるのだと考えたら、どうにも不釣り合いに感じてしまったのか。
目の前が暗くなるような心地だった。
ジュリアンに何と答えたのかも、その後の馬車の中のことも、私は覚えていない。
ただ、表面上は人形のように大人しい貴族の後家を演じながら、心のうちで荒れ狂う暴風のような問いが、出口を失ってめったやたらにぶつかり、渦巻き、ちっぽけな木の葉のように私自身を翻弄するのをなすすべもなく眺めていた。
なぜ、なぜ、なぜ。
そんな、他にいくらでも心配しなければならないことがあるだろう今際の際に、病の苦しみをおしてトマスがしておきたかったことが、私をファーンデイル領とレイモンド家から切り離すことだったというのか。
そこまで嫌悪され、失望されていたのだろうか。
そして私はこれからどうしたらよいのだろう。
もう、レイモンド家は私の家ではないのだ。夫に離縁されたのなら、ジュリアンの言う通り、私は前伯爵の未亡人ではない。ただの、アナベル・アップルトンだった。私を取り巻く世界は全ての秩序が崩れ落ちて、また一から新しく積み上げないといけないのだ。
なぜ。どうしたら。
ぐるぐると心の中を問いが回る。
いつどうやってたどり着いたのかもわからないファーンデイル本邸の豪奢な一室で、私は、何も知らないサンディが手際よく着替えさせてくれた夜着に身を包み、夕食を断って床についた。
ひどくくたびれていたのに、いっこうに寝付けなかった。
読んでくださってありがとうございます!
この回より、一日一回更新とさせていただきます。
続きもお付き合いいただければ幸いです。