04 バーミリオン
夫はいつも冷静沈着で、正しいことしか言わないし、無駄なことを嫌う合理的な人だった。私とは年齢も知識の幅も違いすぎて、私は話し相手としてもとても満足とは言えない妻だったと思う。
そんな彼と、私が、唯一、会話らしい会話を交わすことができる話題が、教会への奉納刺繍作品についてだった。
夫は貴族の慣習通り、領地の本邸で暮らして領土経営に専念する一年間と、帝都屋敷を拠点に生活して、宮廷から割り当てられた帝国の当番役に従事する一年間を交代で繰り返していた。一月は、毎年、当番役の引継ぎ期間に当たるため、全ての貴族が帝都に滞在することが決められていた。なので私は、前年の刺繍を十二月の初めに仕上げて奉納するとすぐ、次の作品の下絵作りに取り掛かった。その下絵を素案にして、彼が帝都屋敷で過ごす一月のうちに、その年に制作する作品について話し合うのが例年のスケジュールとなっていった。
次第に、聖母子像などの人物画や、その背景としての風景を刺せるようになった私に、彼は、ファーンデイルの風景や名物を話して聞かせ、刺繍に取り入れさせようとした。
彼は常に落ち着いた人間ではあったが、領土への愛着は一方ならぬものがあった。伯父夫婦が存命だった頃、私は伯父のお気に入りで、しょっちゅう伯父の屋敷に入り浸っては本を読んだり、絵を描いたりしていたものだが、生まれながらに男爵家を継ぐ人間として教育されてきた伯父も、トマスほどの愛着をもって領土のことを語ることはなかったように思う。
めったに感情を見せない夫が、領土のことを語るときだけ、ほんの少し、柔らかな表情になる。あるいは、言葉に熱がこもる。そのことが嬉しくて、私は、夫と下絵を挟んで語り合う時間が、本当に好きだった。
『ファーンデイルは、羊歯の生い茂った豊かな谷が、その名前の由来だ。紋章にも使われている羊歯は、わが領土にとって、かけがえのない植物なのだよ』
ほんの片隅にでもいいから、毎年、羊歯をどこかに入れるようにと要求する夫は、目を細めてそんな風に言っていた。その視線の先には、きっと、私には見えない、風に柔らかく揺れるファーンデイルの淡い緑の羊歯の葉があったのだろう。
今私の目の前にある、旅館の壁に飾られたタペストリーのモチーフである赤い小鳥、バーミリオンも、そんな彼との会話の折に出てきたことがあった。
『帝都には見られない、赤い小鳥がいるのだ。常につがいで行動することから、家族円満の象徴として、よく取り入れられる。鳴く声も美しい』
『どんな声ですか』
『聞けばわかる』
これはなかなか、酷な返答だった。なにせ、トマスの正妻である私には、けして帝都を出てファーンデイル領を訪れるチャンスは廻ってこないということはわかっていたからだ。
『いつか、聞いてみとうございますね』
それでも私は、夫に向かってそう言ったのだった。おとぎ話の妖精に会ってみたい、というのと同じ調子で。
その願いは、数か月後、思いがけない形で叶うことになる。夫が領地からの貢物として皇帝陛下にバーミリオンのつがいを献上することになったからだ。羽を傷つけないよう、細心の注意を払って罠でとらえられた小鳥たちは、宮殿の放鳥庭園に連れていかれるまでの一晩を、レイモンド家の帝都屋敷の玄関ホールで過ごすことになった。
野外で聞けば美しいのであろうその鳥の声は、ファーンデイルの森に比べれば恐ろしく狭い石造りの玄関ホールの中で、高らかに響きわたった。窓ガラスがびりびりとふるえるほどの迫力に、私もサンディも完全に圧倒され、ぽかんとしてしまったのは、今思い出しても少し頬が緩んでしまう、愉快な思い出だ。
執事のコールリッジが慌てて黒い覆いを掛け、鳥たちに夜だと思わせることでようやく鳴き止んだのだが、私がスケッチをしようと覆いをめくるたび、また、大音声で鳴きたてる。見ながら絵に描きとめるなど到底できない相談で、私は覆いの隙間からじっと鳥を見つめて頭の中にその姿を焼きつけてから、後でスケッチブックにその姿を描き起こしたのだった。ちょうど、今日の橋のある風景のように。
私は、目の前にある、小鳥のつがいをあしらったタペストリーを見つめた。
バーミリオン。
ファーンデイル刺繍の定番のモチーフの一つだ。隅には小さくT・Cの縫い取りがしてあった。作者を表す印だろう。
これまで十年この刺繍を勉強してきたけれど、この作品に使われている技法は初めて見るものばかりだった。ぜひ勉強したい。宿の主人に、作者を尋ねてもよいものだろうか。刺繍の勉強を始めたばかりに感じたような、身の内が沸き立つような興奮を覚えるのは久しぶりだった。
細部にまで神経を費やし、無駄のない針運びと画面構成を心がけて制作されたのであろうことがよくわかった。一刺し一刺しが、柔らかい鳥の羽や、繊細なモミの葉、ごつごつと節くれだった枝ぶりの実際の形を意識して配置されている。鳥の細い足の関節や、首周りのつややかな羽毛の流れを表現する糸のわたり方も素晴らしい。
裏側の糸の処理がどうなっているのかめくって見たい、という衝動を押さえることができず、私は誰も室内にいないのをいいことに、思い切り背伸びをして、タペストリーを上下で支えている飾り棒に触れようとした。
その時だった。
鋭いノックの音に続き、返答も待たずにドアが開く音がした。私はいたずらを見つかりそうになった子どものようにばつの悪い気持ちに襲われ、慌てて姿勢を正そうとした。しかし、驚きと、馬車の長旅の疲れは私の想像以上だったらしい。足がもつれてしまい、身体を支えきれないまま、無様に尻もちをついてしまった。
どさん、と私の身体が床に投げ出される音は、確かに、侵入者の耳にも届いたものと思われた。
「何をしているんですか、アナベル」
呆れ気味に降ってきた冷ややかな声は、床に倒れ込む一瞬に私が予想した通りの人物のもの。
ジュリアンだった。