表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/14

03 ファーン刺繍

 伯爵夫人としての重要な務めは、実は、帝都屋敷と貴族社会での儀礼を取り仕切ることだけではない、ということを知ったのは、結婚してから一か月ほどたった頃のことだった。


『伯爵家からは、領地を治める教会に、クリスマスの前に毎年、奉納品を納めることになっている。教会との付き合いも、正妻の重要な仕事のひとつだから、よく覚えるように』


 結婚したと言っても、私には何の興味もなさそうだった夫が、ふいにそんなことを言い出した。早春のまだ冷え込みが強い日の、朝食の席だった。


『奉納品ですか』


 私は夫の言葉をおうむ返しにして問いかけた。夫は物知りで、幼すぎる私のこうした受け答えも、彼を満足させられるとはとても思えなかった。だが、ない袖は振れない。ありもしない知識を、あるかのように見せかけたら、後で恥をかくのは自分である。


 夫は、私のそうした態度には基本的に淡々と応じていた。知識がないのを責めるわけでもなく、といって、熱心にそれを補おうとするわけでも、私にわかる話ばかりしようと甘やかした態度を取るわけでもない。つねに、自分のペースを崩さない人だった。


『ああ。我が家では伝統的に、伯爵夫人が一年かけて手ずからほどこしたファーン刺繍のタペストリーを奉納することになっているのだ』

『刺繍の心得はございませんが、務まりますでしょうか』


 私の顔に、不安そうな色が浮かんだのかもしれない。夫は投げ出すように言った。


『ファーン刺繍は、我が伯爵領を発祥とする特殊な技法だ。かえって、他の刺繍を経験していない方が習得しやすいだろう。いずれは腕前の確かなものを家庭教師に手配するが、最初の基礎は、部屋付き侍女に習うとよい。あの娘はわが領に長く仕える家柄の出身だ。ファーン刺繍の素養はわが領地の女性、皆が身につけるものなのだ』

『どのような刺繍なのですか』


 問いかけた私に、夫はマントルピースの上に飾られた刺繍を指した。白百合と黄水仙、猫柳とヒヤシンスが活けられた花瓶をモチーフにした、写実的で緻密な図案で彩られたタぺストリーだった。数週間先のイースターを意識して選ばれたのだろう。冬の柄のものから季節に合わせて掛けかえるが、これでいいか、と先週執事に尋ねられて、よくわからないままうなずいたのを思い出した。


『この屋敷に飾られるタペストリーは全て、ファーン刺繍によるものだ。書斎に行けば、伝統の図案集や技法書も何冊か置いてある。そうした書物を見るのは構わないが、実際にやるのは、まずは小さなものから、クロウズの娘に習うとよい』


 嫁いだ当初から私の部屋付き侍女だったサンディは、代々伯爵家に仕えてきたクロウズ家の娘なのである。刺繍の腕前でも有名な家系であるというのは、後になって知った。


 ファーン刺繍は、習ってみると、私の性分によくあっていたらしい。


 サンディが最初に教えてくれたのは、羊歯(しだ)の二枝をクロスさせた図案だった。一刺し一刺しが細かく枝分かれする葉を表現する技法に私はのめりこんだ。楽しくて、針を持つ手を休めることができないほどだった。


 あっという間に仕上げて次の図案をねだる私に、サンディは少々驚いたようだったが、部屋付き侍女としての仕事をこなしながら、入門用の教科書にそって幾つもの図案の指導をしてくれた。

 だが、そんなサンディもほどなく、私の情熱に音を上げることになる。


『奥様の上達ぶりは素晴らしく早いので、これ以上わたくしがお教えすることは難しゅうございます』


 数週間後、彼女がお茶の席で夫にそう訴えたため、夫が手配していた師匠の帝都上がりは、三か月も早められることになった。そのときやってきて、住み込みの家庭教師として私に刺繍の手ほどきをしてくれた初老の女性、ミス・ローガンは、領地でも高い技術で知られる名手だった。


 ミス・ローガンはとても厳しい師匠だったが、教え方は的確で分かりやすく、私はますます刺繍に夢中になっていった。


 家の切り盛りも、他家とのお付き合いも、有能な帝都屋敷の執事や侍女長が統括してくれている。彼らは私に様々な報告をし、許可をとり、私が出向くべき儀礼の場での振る舞いを助言してくれた。報告、許可といっても形式上で、実際には、私は彼らから伯爵家という大貴族の家政を切り盛りするすべを一方的に学ぶ生徒のような立場だったと言ってよい。


 彼らの言う通りにしていれば、家は間違いなく切り盛りされていく。なぜそうするのか、疑問に思って尋ねれば、使用人たちは嫌な顔一つせずに丁寧に答えてくれたお陰で、考え方のコツも身に付いた。お付き合いでも、彼らの助言のお陰で大失敗やとんでもない非礼を働くことは回避できて、年端もいかない伯爵家の三番目のみそっかす正妻としては、まあまあ恥ずかしくない程度にふるまうことができたと思う。


 とはいえ、私はそうした貴族の家の運営に関する知識と実践は、トマスに拾われ、正妻という立場に置かれてしまった以上、責任があるから自らを律して参加していただけだった。本当は、時間さえあれば、それを全て、刺繍と、刺繍の図案のためのスケッチに使いたかった。


 そうして数か月が経ち、帝都のあちこちでクチナシが白い日傘のような愛らしい花を咲かせ、甘い香りでむせかえるようになった頃、私の刺繍の習作を見ていたトマスが言ったのだった。


『今年は、大きすぎない作品でよいだろう。奉納刺繍の図案を考えなさい』

『どんなものを作ればよいのですか』

『クリスマスに、教会に奉納するものだ。それにふさわしいものを。ミス・ローガンに相談しなさい。だが、実際の刺繍に取りかかる前に、私に下絵を見せに来るように』


 数日後、私が何枚か描いた下絵のなかで、その時点での刺繍の技能を考慮して、ミス・ローガンが選んでくれたものを見せると、夫はうなずいた。


『最初の一枚としては十分だ。ただし、このままではだめだ。どこかに、ファーンデイル領を示すモチーフを使うのが、伯爵家の伝統なのだ。例えば、この辺』


 夫は、私が描いた、パンとワインの乗った質素な食卓のスケッチの、ナフキンの隅を指差した。


『ここに、伯爵家のモノグラムを入れる。あるいは、伝統の魔よけ模様で縁取りをする。それか、羊歯の葉を、ナフキンの上にあしらうとよい』


 私はうなずいた。そのどれかなら、自分の技術でも対応できると思ったのだ。あとはミス・ローガンに尋ねれば、夫の提案を具体的にどうこの図案に落とし込めばよいか、助言もくれるだろう。


 夫が別の仕事の書類を引き寄せたのを合図に、私はその場を立ち去ろうと、立礼の作法で(こうべ)を垂れ、片足を引いて膝をわずかに折った。


 その時、夫が低い声で呟いたのだった。


『パンとワイン。全ての領民のクリスマスの食卓に、それが十分にあるよう計らうのが、伯爵家の人間の務めなのだ。お前はよいモチーフを選んだ』


 私は驚いて、その場で固まってしまった。


 床に敷かれていた絨毯の唐草模様をじっと目でたどり、まばたきを繰り返して、にじみかけた視界としゃくりあげるように不規則になった呼吸を必死で落ち着けなければならなかった。


 トマスが私について、何かほめたのはそれが初めてだった。

 そんな一言で動揺している自分に当惑した。


 ほんの気まぐれで野良猫を拾ってきたはものの、すっかり興味をなくして使用人に任せきりにしているような態度に、おそらく、私はひどく不安を感じていたのだ、と今ならわかる。


 その頃の私は、何をしていいのか、どこにいたらいいのか、それどころかどんな感情でいればいいのかさえ、何もわからなかった。


 伯爵邸ではただただ厄介を掛けるだけのお飾り妻。といって、トマスが私に一般的な夫婦関係を求めたことはない。父よりも年上の彼が私にそうした感情を持つことは想像もできなくて、求められないことに安堵はあったけれど、では、この関係で彼にどんなメリットがあるのかと考えれば何も思い付けなかった。


 正妻という立場であれば確かに、儀礼的な訪問や挨拶で彼の名代(みょうだい)を務められる場面がないわけではなかった。しかし、そうして節約できる労力に比べれば、私という何もできなくて、年齢も身分も決して彼とは釣り合わない人間をめとったことで生ずる、内外の煩わしい出来事は遥かに大きかったはずだ。


 私は自分を翻弄する運命にたいして怒りのやり場もなく、父が周囲に掛けた迷惑を思えば悲しむ権利もないようで、この家ではどんな役割を果たせばいいのかもよくわからなかった。なぜこの家にいるのかもわからないのだから、いつまた放り出されるのかもわからず、足元はいつもふわふわと頼りないような心地でいた。


 けれどそもそも、拾ってもらって何不自由ない生活や教育を与えてもらっているのに、そんな行き場のない怒りや曖昧な不安を持っていること自体も申し訳ないようで認めることができず、まったく、どこをどう向いて暮らしたらいいのかさえ、内心は途方に暮れていたのだった。


 そんなふうに日々膨れ上がる負の感情に背後から押しつぶされそうになっていた私に、夫の言葉は、雲の間からふいに差し込んだ日の光のように、私にできること、私がやるべきことを指し示してくれたように思われた。


 トマスは、その時の私がその言葉をどれほど重くかけがえのないものとして受け止めたか、わかっていただろうか。


 天から下ろされた細い糸にしがみつくように、必死で刺繍に打ち込む私に、彼はすこし当惑していたようだった。時折、気のない様子で、気分転換もしたほうがいいのだから、もっとパーティーや婦人同士のお茶の集まりなどに顔を出せばいいのに、そのためのドレスやアクセサリーが必要なら遠慮せず出入りの商人を呼ぶように、などと言うこともあったが、私が断り続けていると、そのうち言わなくなった。


 私はパンとワインの下絵をもとに、何度も練習と試作を繰り返した。糸を無駄にしないように失敗作は丁寧にほどいて、また使った。クリスマスの直前まで粘って、私はその時の自分にできる最高のタペストリーを完成させた。


 彼はそんな私をどう見ていたのだろうか。ただただ、内気で引っ込み思案で、絵画と手芸が好きな娘、気が弱くて精神的には少々幼いところのある妻だと思っていたのかもしれない。


 今となっては、わからない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。


色々なジャンルの作品を書いています。
よろしかったら、他の作品もお手に取ってみてください!
ヘッダ
新着順 総合評価順 レビュー順 ブクマ順 異世界 現実 長編 短編
フッタ

― 新着の感想 ―
[一言] 物語が動き出しました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ