14 メリークリスマス
どれほどの間そうしていたのだろうか。ふと気づくと、聖堂には、私とジュリアンだけになっていた。
「大丈夫ですか」
静かにジュリアンに問われて、私はうなずいた。
「お見苦しいところをお見せしました」
そう言って私が立ち上がろうとすると、ジュリアンはさっと私に手を差し伸べた。
「聖堂で祈るのが見苦しいなら、一体、ここでは何をするんです?」
それはそうだ。私は、頬が少し緩むのを感じた。
「神父様は?」
「他の準備のことで呼ばれて、先ほど退出されました。あなたの邪魔をしたくないので、よろしく伝えてほしいと」
少し外の空気を吸いましょうか、と言われるがままに、私はジュリアンに手を引かれて、聖堂を出た。薄曇りになってきていたが、聖堂内部の明るさに慣れていた目に、外の陽光はまぶしかった。
「この裏手に、墓地があるんです。墓守小屋に花を準備させていますから、あなたさえよければ、父に手向けてやってください」
ジュリアンに頼まれなくてももちろん、墓参りはするつもりでいた。
葉をすっかり落とした木で囲まれた墓地は、雪の帽子をこんもり乗せた十字架や記念碑が並ぶ、静かな場所だった。一番奥の一隅がレイモンド家のための場所だという。マリエットの少し古い墓碑の横に、トマスの真新しい墓碑が並んでいた。
真っ白な雪に、赤いシクラメンとピンクのクリスマスローズの小さな花束を置いた。レイモンド家の庭師が、冬越しの植物室で大切に育てたものだ。
黙とうを捧げてから、手の中でくしゃくしゃになっていたハンカチをしまおうとしたとき、ハンドバッグの中の白い封筒に目が止まった。
先ほど、ヨハネス神父に渡されたものだった。
トマスは何と書いたのだろう。
私はそれを取り出すと、入っていたカードをそっと開いた。
『アナベル
君は私にほとんど何もねだらなかった。
毎年、クリスマスプレゼントに何を選んだらいいかわからず、結局、執事や侍女長に任せきりになっていたのが、今となってはもったいなかったような気がする。
君がたった一つ、私に望んだものが、今年の、そして、残念だが、最後のクリスマスプレゼントだ。
パインウッドを継ぐか継がないかは、君が決めたらよい。
どのようにしても、決して生活に困ることのないよう、弁護士に託してあるから、安心するように。
良いクリスマスを。
トマス』
その、不可解な文面に私は首をかしげた。封筒の中に、何か他に入っていないかと確かめたが、やはり、空っぽだった。
「これ、どういうことかわかりますか?」
ジュリアンも、首をひねりながら、その短い文章を読んだ。それから、はっとしたように私の顔を見た。
「アナベル。あなたは、父とよくファーンデイル領の話をしたと言っていましたね」
「はい」
「行ってみたいと言いませんでしたか?」
私は記憶を辿った。確かに、トマスの前でも何度か言った覚えがある。
「ええ。ほら、遠い異国の写真や絵を見たり、おとぎ話の挿絵を見たりしたとき、言いますでしょう。こんなところに行ってみることができたら素敵でしょうにねって。そんなつもりで。月の大地に立ったら、どんなに楽しいでしょうか、と言うのと同じつもりで」
「それです」
ジュリアンは、泣き笑いのような顔になって言った。
「あなたをファーンデイルに連れてくることは、本来、できなかったんです。私が正妻を迎えて、帝都屋敷の女主人が代替わりしない限りは、あなたは帝国の法律で帝都を離れることができなかった。でも、こうして、旅行の許可が降りたのは、父によってあなたが離縁された旨を宮廷に届け出たからなんですよ」
私は呆気にとられた。貴婦人らしくなく、口がぽかんと開いてしまっていたかもしれない。だが、そんなことに構っている場合ではなかった。
「そうだったのですか? てっきり、墓参りと、臨終を看取った神父様にお目にかかるというので、特例の許可が下りたのかと」
「それは、めったに下りないんです。伯爵家クラスではまずそんな特例の恩恵にはあずかれない」
「ならば、大旦那様は、私にファーンデイルを見せるために、私を離縁したということなんですか?」
ジュリアンは苦笑したまま、首を横に振った。
「いえ、もちろん、あなたが望めばパインウッド領と男爵位を継げるように、というのが、最大の目的だったことには間違いないと思います。だからこれは、父なりのジョークというか、ロマンチシズムというか」
こんな機会にはなってしまったけれど、憧れの土地だったファーンデイルに来られるように手配したから、よく見るように、という意味なのだろう。私が、どうせ実現不可能なのだからと何気なく言った、些細で淡い願いごとをしっかり覚えていたなんて。
帝都屋敷を旅発つときから、ファーンデイルの風景や、ここでしか見られないであろう刺繍を見られるだろうか、とどこか浮き立つ心は抑えきれなかった。でも、トマスの死がなければ訪れなかったであろうその機会を喜んでいる自分に、罪悪感も同じくらい強かった。
ぶっきらぼうな短い言葉の向こうに、そんな私の気持ちを見透かしたかのように、気にせず楽しめ、とわずかに微笑むトマスの横顔がやっと見えた気がした。
「分かりにくいわ」
私は唇をとがらせた。
「あんな、冗談の一つも普段言わなかったような人が、急にこんな言葉を言うなんて。ずるい」
「仕事人間の朴念仁でしたからね」
「私、見向きもされていないと思っていました。妻としては見られていない、というのは間違っていなかったわけですけれど。神父様も、あなたも、世間一般の夫婦とは違う、と」
「それでも、見向きもしていなかった、というのは違うと思いますよ。この土地の人達は皆、あなたのことを見たこともないのに、まるで聖女様のように尊敬していました。見事な刺繍でタペストリーにファーンデイルを表現している前伯爵夫人は、遠い帝都の地でも領土のことを愛してくださっている、想ってくださっている、と言って。それもこれも、父があちこちであなたのことを自慢していたからのようなんです」
「自慢って」
謹厳実直で自分にも身内にも厳しかったトマスとはあまりに結びつかない言葉に、私は眉根を寄せた。
「ヨハネス神父も言っていましたね。あなたは教会にとっての重要な人物だと。あなたの刺繍は実際、大変な人気なんですよ。あなたの刺繍が見事だからですが、口下手ながらにそれを宣伝して回っていたのはどうやら父です。父は尊敬される領主だったようですし、その父が晩年に見出した刺繍妃は、ファーンデイルに幸福をもたらした、というのが、この土地でのもっぱらの評判です。ほんの一例ですが、湖の小屋番のダニエルの一家なんか、大変な心酔ぶりですよ」
私は、聖堂に向かう廊下でヨハネス神父に聞いた話を思い出していた。
本当に、私に黙ったまま、外では私の刺繍にそんなに色々おっしゃっていたなんて、何て人かしら。
呆然を通り越して、苦笑するしかなかった。
ジュリアンは墓石をじっと見つめた。
「父には実際、腹も立ちますし、言ってやりたいことも幾つもありますが、見る目だけは確かだったようです」
「私も、大旦那様に腹を立てていることも、言ってやりたいことも幾つもありますわ」
私が言うと、彼はこちらを振り向いて、面白そうに目をきらめかせた。
「あなたがこんなにはっきりものを言う人だというのも、今回の件まで知りませんでしたね。言ってやったらどうですか。そこで聞いているでしょう」
「離縁なんて大事なことを、一人で決めないでほしかったわ。もっとお話ししたかった。私の話なんて、つまらないと思っているんじゃないかっていつも思っていたんです」
「本当に、口下手な人でしたね」
ジュリアンは肩をすくめた。
本当に言いたかったことは、いつも言えないままだった。
口下手なのは、私だって同じだった。
堰を切ったように、私の口から、言葉があふれていた。
「私、……私、夫として、大旦那様をお慕いしていました。伝わっていたかどうか、分かりませんけれど。あの人が見た景色を見たかったし、感じたことを分かち合ってくれた時は、本当に嬉しかった。あの人の妻であることは、私の誇りでした。直接、あの人にそう言えなかったことが、今どうしても心残りなんです」
一気に言ってしまった自分に驚いた。こんなのは、およそ貴婦人らしくない振る舞いだと思う。
ジュリアンは一瞬、痛みをこらえるように眉をひそめたけれど、次の瞬間、ふわりと透明な笑顔を浮かべた。
「分かっていたと思います。神父様の言う通り、人の心がわからない人ではなかったようですから」
「だといいんですけれど」
ふいに、目の前を、上から降りてきた白いものがふわりと横切った。
目を上げると、空はいつの間にか、雪雲で覆われ始めていた。
男爵領をどうするか、私がどうやって、民を支えていくのか。
考えなければならないことは山のようにあるはずだけれど、私の心は思いがけず澄んでいた。
必要なことは、尋ねるべき人に尋ねればいい。そうして、落ち着いて考えて、私なりの決断をしていこう。私にできることを、神様がトマスを通じて私に課した務めを、精一杯やろう。
それが何なのかはこれから考えるけれど、でもせめて、この雪が降りやむまでは、ただ彼を悼んでいたい。
私はもう一度、雪の上の花束に視線をやった。空に飛び立とうとする小鳥がぐんと力を込めて反らせた翼のような、真っ赤なシクラメンの花弁に、ひとひら、ふたひらと雪が降りかかり始めていた。
心の中で、静かに呟いた。
良いクリスマスを、トマス。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
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皆様に、良いクリスマス、良い新年を。