13 どうか、神様
「クリスマスミサでは、奉納されている刺繍作品を壁に掛けるのがこの教会の伝統なんです。代々受け継いできた作品は数も多く、見事なものですから、最近では遠くの街からも礼拝に来られる信徒さんが多いんですよ」
神父は石造りの廊下を歩く道すがら、嬉しそうに語った。クリスマスの時期に飾られる刺繍は、冬のファーンデイルに賑わいをもたらす重要なイベントとなっているのだそうだ。
「歴代の領主夫人の作品も飾られます。といっても、神の前では、貴族も平民もみな同じ子どもたちですから、ひとしく同じように飾られるのですがね。今年の新しいものと、これまでの古いものという区別の方が重要なのです」
「なぜですか」
「新しいものは、その技術を見込んで仕事を依頼するきっかけになる場合があるからですよ」
教会で飾られる作品は、サンプラーとして、刺繍の刺し手の技量を示す重要な役割を果たす。ここで見出された刺し手が、ほかの地域の教会から儀式用のタペストリーを依頼されたり、貴族や富豪から特注の作品を依頼される事も増えてきたのだそうだ。
新しいもののなかでも、より美しく、技巧が凝らされた作品が、より参拝客の目に留まる位置に飾られる。そうすることで、ファーン刺繍の美しさを参拝客に示すと同時に、刺し手には、自分の作品をより高い水準に引き上げる意欲を高めてもらう仕掛けになっているのだ、と神父は説明してくれた。
「こうして、刺し手の方々が仕事として刺繍をできるようになってきたのは、まさに、あなたとトマスのお陰なんです」
「どういうことですか?」
「あなたの刺繍が評判になったことをきっかけに、見物の参拝客が増えてきたのを見て、トマスが、刺繍を注文したい顧客と、領地の刺し手を、教会が仲介して結びあわせる仕組みを思い付いたんです。大商人や貴族と、一介の平民の女性では、力の差がありすぎて、一方的に不利な契約になりやすい。教会が間に入ることで、女性たちは正当な労働の対価を得ることができるようになります。伯爵夫人も有名な刺し手であるファーン刺繍は、ただの手工芸ではなく一級の芸術品なのだから、作品にはそれに見合った対価を支払うべきだ、という流れをトマスが作ったのですよ」
私の全く知らない夫の一面だった。
「トマスは、女性たちがただ家長である男性の庇護のもとでしか生きられない状況を変えたいと思っていました。中には経済的に自立できない夫も、妻に暴力を振るう夫もいますからね。そんな状況でいつも苦しむのは女性たちだという状況を変えなければならない、ファーンデイルの女性が自らの力で稼ぎ、物を言える状況を作らなければならない、と、彼はいつも言っていました。あなたの刺繍はトマスの改革の象徴だったのです」
胸の奥に灼けるような塊ができた気がした。まさにそのトマスの庇護で、私は今まで何の生活の苦労もせずにただのうのうと十年、暮らしてきてしまったというのに。トマスが私に負わせたものの大きさは、今の私こそが負わねばならない、神様からの借りもののように感じられた。
何てこと。
「では、神父様は刺し手のことをよくご存じなのでしょうか」
私はふと思い付いて尋ねた。
「ええ、皆さん、熱心な信徒の方々ばかりですから」
「私は、昨日立ちよった宿で美しいタペストリーを見ました。少し古いものでしたが、生地の加減からみて、制作後二十年は経っていないと思います。つがいのバーミリオンがもみの木の枝に止まっている図案の、私が知らない複雑な技巧が多く用いられたものです。とても写実的な作品でした。あれはどなたの手によるものか、神父様はお分かりですか?」
ふむ、と神父は顎をなでた。
「写実的な。あなたがご存じないというと、かなり高度で古い技法ですね。近代ファーン刺繍については知り尽くしているミス・ローガンが、アナベル様にはもう教えられる技法がない、あっという間に自分が教えられるすべてを吸収してしまった、と青息吐息でしたから」
「まあ。ローガン先生はいつも大げさにおっしゃるのですわ。例の刺繍は、隅に小さく、T・Cの縫い取りがしてありましたが」
「ああ、それならクロウズ家の大刀自のものです。今しがた、お供をしてこられていたサンディ・クロウズの祖母、タバサですよ。彼女はファーン刺繍の生き字引です。少し指先に震えが出るので、最近はクリスマスの奉納からは引退しましたが、口と目はまだまだ現役です」
それにしても、本邸に入る前からタバサの作品を見つけていらっしゃるなんて、本当に刺繍がお好きなんですね、と神父は目を細めた。
「私には刺繍しかありませんもの。離縁されたと聞いて真っ先に考えたのは、これからどうやって生きていこうかということでしたが、その時も、なんとか頼れそうなものは刺繍の腕くらいしかありませんでしたわ。まだまだ未熟で、勉強しなければならないことはたくさんあるにせよ、貴族のお嬢さんの花嫁修行に教えるくらいならどうにかなるかしらと」
ため息をついた私に、神父は静かに言った。
「あなたには、もっとたくさんの才能があると、トマスは信じていましたよ。何か事が起こった時、誰かに責任を押し付けず、まず自分で何ができるかを考えるところも、他者の話を真剣に聞くところも、あなたの得難い長所です」
それから神父は、ゆったりした僧服の隠しから真っ白な封筒を取り出した。
「これは、私がトマスに託された最後の仕事です。あなたに、クリスマスカードを渡してほしいと」
クリスマスカード。
そののどかな言葉は、大嵐に吹き払われた後のような今の私の耳には、妙に場違いに響いた。
私はそれを受け取って、ハンドバッグにしまった。心静かに読めるときまで、取っておきたかった。
「さあ、わが教会が誇る、ファーンデイルの冬の風物詩です。ご覧下さい」
すこし大げさに言って微笑むと、神父は大聖堂の扉を開いて、私を中へと促した。
◇
色とりどりのガラスがはめ込まれたバラ窓から差し込む光と、それを補うように配置された燭台の明かりが、聖堂の中を柔らかく照らしていた。
私の目に飛び込んできたのは、数えきれないほどたくさんの刺繍だった。
「見事な」
私たちの背後から共に歩いてきていたジュリアンが、息を飲んで呟くのが聞こえた。帝都育ちで、軍学校から騎士団に進んでいたジュリアンにとっても、ファーンデイルでのクリスマスは初めてのはずだ。
祭壇に向かって信徒席の木のベンチが整然と並んでいる。その背に掛けられた垂れ布には、初級の教科書で習ったようなシンプルな図案が、たどたどしい手つきで愛らしく刺してあった。きっと、初学者の少女たちの作品だろう。
回廊の柱や壁には、もっと技巧的な大小さまざまのタペストリー。図案は、冬景色やクリスマスにちなんだものばかりで、私が十年間の結婚生活で、トマスと話し合いながら幾つも描いた下絵のことを思い起こさせた。
「新作は、あちらの回廊にまとめてあるんです。礼拝の後、少し落ち着いて見ていただいたり、商談に必要な情報を得ていただいたりするのに、こちらの本堂では人の出入りがせわしないですから」
そんな神父の説明も、私の耳から入っていたが、頭にまではしっかり届かなかった。私の目が、ある一隅をとらえたからだ。
祭壇の正面、一番の上座にあたる信徒席が、領主レイモンド家の定位置だ。そのすぐそばにまとめて飾られた作品群に、私は吸い寄せられるように歩み寄った。
「この一角は毎年、トマスの意向でタペストリーの位置を決めていました」
神父の穏やかな声に、こみあげてくるもので視界がくもった。
「アナベル、それは」
不思議そうなジュリアンの問いに、私はかすれた声で応じた。
「私の作品です」
どの刺繍にも、トマスの居間で語り合って図案を決めたとき、刺している最中、そして、仕上げてトマスに見せたとき、それぞれの時間が凝縮して、縫い留められているような気がした。
ファーンデイルの話をするとき、いつも、懐かしく憧れる目をしていた彼の姿が、パチパチと燃える居間の暖炉の熱が、思うように刺せずに悪戦苦闘した指の痛みが、「これでいい、上等だ」とうなずく彼の声が。
氷が一気に溶け出すように、記憶の奔流が私を押し流して包み込んだ。
司祭たちが祭壇に上るための短い階段の横、領主がここでミサに参列するとき、最もよく目につくであろう位置に飾られた作品が目に留まった。
あの、パンとワインの刺繍だった。
今となっては少し幼い手つきの、小さな作品。
彼はこれをずっと大事にしてくれていた。一番の特等席に掲げさせてくれたのだ。
それ以上、何も語れず、私はあふれてくる涙をそのままに、ひざをついて祈った。
どうか、神様。
トマスの魂をお救いください。
マリエットとともに、神様のおそばに置いてください。
彼に安らかな眠りを。
私からの、愛を。
トマスが決して、私を普通の妻だと思わないことは分かっていた。
それでも、彼は彼なりに私のことを思っていてくれた。
そして、私は、彼を愛していた。