12 重い荷物
ヨハネス神父は、静かに語り続けた。
◇
トマスはマーカスの死にひどく責任を感じたようでした。助言しようとして、却ってマーカスを追い込んでしまった格好になりましたからね。
それで、アナベルを引き取ろうと決めたのだ、と彼は言っていました。
引き取ると言ったって、血縁も何もありません。莫大な借金しかついてこない爵位を、遠縁の者たちもみな敬遠して、関わりたがらなかったようです。そのままではアップルトン家は断絶し、パインウッド領は皇帝直轄地として召し上げられるほかありませんでした。
そこで、トマスはアップルトン家の遠縁の者に同意を取り付けて、アナベルを書類上、自分の妻にすることにしたのです。
結婚すれば、アナベルは成人と見なされますから、結婚で他家の人間となったとは言え、男爵領を暫定で次の継承者まで預かることができます。とはいえ、財政面で危機的な状況にある領地を、年若く経験のない彼女に任せることはできない、という申し立てをして、トマスは、後見人という立場でパインウッド領の立て直しに取り組みました。
彼は、全ての贖罪の意識を、パインウッド領の立て直し事業と、ファーンデイル領の発展に傾けたのですよ。
マリエットに対して、ローラに対して、ハロルドとヴィオラに対して、それから、ジュリアンとアナベルに対して、償いたいのだと言っていました。
私は何度も言ったんですけどね。永遠に去った者と、また別の幸せをつかんだ者はともかく、君の目の前にいる子どもたちには、行動だけでなく、言葉で君の心を示せ、と。でも、彼にはそれはとても難しいことのようでした。
アナベル、あなたは、マリエットや、ハロルドとヴィオラとは全く違う意味で、彼の理解者であり、彼の心の支えだったんです。
あなたの生活を整え、あなたが成長していくのを見るのを、彼は本当に楽しみにしていました。彼はマリエットを失ってからずっと歩いていた先の見えない暗闇の、その先から差してくる光のようにあなたを見ていた。マリエットとの間に、彼女が健康だったら望めたかもしれない娘のように思っていたのでしょうね。
そして、彼は、あなたがファーンデイルの話を喜んで聞いてくれて、刺繍にするのを、ここに来ては毎年のように自慢していました。神の家で、自慢は罪だよ、と、私は何度もからかったものです。ですが、彼は、妻を夫が賛美して何が悪い、と平然としていました。彼自身、夫婦としての愛情というより、娘のようにあなたを思っていることは自覚していましたが、そういう軽口を言いたかったのでしょう。年頃の娘を持つ父親というのは、とかく、娘を独占したがるものですから。
娘のように思うのなら妻にすべきではなかったし、もっと早く、あなたの人生を歩ませてやるべきだ、と、彼自身、理解はしていたと思います。けれど、緊急避難としてあなたの籍を結婚という形でレイモンド家に預かったトマスは、今度は、それを手放すのが寂しくて仕方なかったのでしょう。
それもまた、彼の、愛すべき弱さです。友人として、諫められなかったことを詫びます。
彼は、最初から、時が来ればあなたを離縁するつもりでした。
一度結婚し、それから婚家の籍を離れた女性は、ある意味、とても自由です。本人の意志で財産を管理できますし、帝都を離れることも、男性並みに自由にできるようになります。未婚の女性に対する様々な社会的制約からも逃れられます。未婚の女性は、付き添い無しに男性と同席できなかったり、何をするにも家長の許可が必要だったりと、とにかく行動が制限されていますからね。離縁がめったにないことだからこそ、離縁された女性の、婚家の管理からも実家の管理からも少し外れているせいで意外にあれこれの制限がゆるやかな立場というのは、世間にはあまり知られていません。
その状態で、男爵家を継いで女男爵となれば、アナベルは結婚相手すら自分の意志で自由に決められるのだ、痛快じゃないか、と、トマスは言っていました。
なにせ、従うべき家長が自分なのですからね。
アナベルは内気そうに見えるが、芯の強い子だ、飢える苦しみと、他者の痛みが分かる人間だ。困難な事業でも、全体の図面を頭に描きながら、一つ一つ、周囲に必要な手助けを借りて、完成に向けてたゆまず歩を進められる人間だ。領民の面倒を見なければならない貴族にとって、それこそが、最も必要な資質なのだ、と、彼はよく言っていました。
彼が亡くなる直前に急いだのは、彼が亡くなってしまえば、離縁は不可能になるからです。手続きには、少なくとも夫の同意が必要だからです。
離縁しないまま、トマスが亡くなってしまえば、アナベルは前伯爵夫人となって、新しく当主になるジュリアンに、その身柄、生活を庇護する義務が課せられる。それと同時に、アナベルは、婚家から離れる機会、パインウッド領を正式に継ぐ機会を永久に失ってしまうのです。
気ままに後家暮らしを送るのであればもちろん、それで何の問題もありません。ほとんどの貴族令夫人はそうしていらっしゃいますし、未婚の時や結婚中よりも多くの自由を手に入れられますから、そこから自分の事業や慈善活動を本格的に立ち上げるご婦人もたくさんいらっしゃいますね。
それでも、トマスが離縁にこだわったのは、パインウッド領をアナベルに継いでほしいという願いがあったからです。今でこそ例が絶えていますが、帝国貴族法に、女性が領主の地位につくのを妨げる規定はありません。歴史を遡れば、古い時代に女性領主は珍しくなかったのですよ。
血縁のものを探し回って養子にするより、アナベルこそが領主に向いている、と、トマスは信じていました。 実務的なことは、トマスが雇った忠義ものの秘書が今もよく管理しています。ですがそこに魂を入れて、行くべき先を決めるのは、領主の役割なのです。
◇
長い長い話を終えて、ヨハネス神父は、自分のカップを口に運んだ。ようやく肩の荷を下ろしたというような、ほっとした表情だった。
「父がそんなことを」
呆然としたように、ジュリアンが呟いた。
「あなたが一番、トマスの行動で辛い思いをしましたね」
神父はジュリアンを見つめた。
「私は、あなたの父上の友人として、全力であなたを助けたい。この教会はいつでもファーンデイル領とレイモンド家と共にあります。この老いぼれを、あなたの友人だと思ってくれたら幸いです」
ジュリアンは首を横に振った。
「もったいないことをおっしゃらないでください。あなたは、父の困難な日々に、いつも父と共にあってくれた。父がこうして、最後の願いを託せる真の友人を得られたことを、神様に感謝します。どうか、未熟な私をお導きください」
ヨハネス神父は、ジュリアンを見つめる目をなごませた。
「あなたはお父上より強い。周囲の話をよく聞いて、良い領主となられますよう」
それから、神父はいたずらっぽい顔で笑った。
「お菓子も、ちゃんと食べてくださいね。レイモンド家のお客様がくるので、厨房にとっておきのガレットを焼かせたのですよ。ステンドグラスのバラ窓のデザインを刻印にして押した甘いビスケットで、森でとれるベリーを煮詰めたジャムを挟んでいるんです。食べていってくださらないと、料理長は大変な侮辱だと受け取るでしょう。こんなことで、教会とレイモンド家の関係を悪くしないで頂きたい」
その芝居がかった言い方に、私もつられて微笑んで、皿の上の焼き菓子をつまんだ。
長く重い話の果てに、自分の肩には、夫から、とんでもない重荷が乗せられたような気がする。
感覚はすっかり麻痺していた。ベリーのジャムは大好物なのに、美味しいはずの焼き菓子の味がまるでおが屑を噛んでいるみたいに全く感じられない。
どうしてそんな大切なことを、トマス自身の口から話してくれなかったのだろうか。そう思うけれど、それがいかにもトマスらしいという気もして、私は泣き出してしまいたかった。
押し潰されそうな気分だった。ついさっきまで、私は自分一人の行く末を案じていればよかった。それだって、不安でいっぱいで、必死に自分を奮い立たせて前向きになろうとしていた。なのに、トマスは私のこの頼りない腕に、パインウッドの土地とそこに暮らす民をまるごと乗せようというのだ。父が支えきれなかった重圧をどうして私が担えると言うのだろうか。
結局、胸がつかえたようになって、焼き菓子の二つ目を食べることはできなかった。私は、半分紅茶の残ったカップをソーサーに戻した。これ以上は何も喉を通る気がしない。ジュリアンがガレットを幾つか食べてくれたようだから、料理長のプライドには傷がつかないと信じたい。
「今、聖堂では、クリスマスミサの準備をしているんです。よかったら、見ていってください」
ヨハネス神父は自分の茶を飲み干すと、そう言って立ち上がり、私にエスコートの手を差し伸べた。
彼は、混乱の真っ只中にある私の様子に気づいているのかどうか。全く気にも留めていないようにも、全てをわかって受け流しているようにも見えて、私は戸惑った。ただ、歩いて聖堂をめぐり、身体を動かして違った景色を見ることで、少しでも頭の中が整理されることを期待して、私は神父の手を取って立ち上がった。














