11 ヨハネス神父
「レイモンド卿。遠路はるばる、よくぞお越しくださいました」
教会の入り口で待ち受けていたのは、トマスよりやや年上と思われる、聖職者に特有の詰襟の衣を身にまとった、明るいブラウンの髪の男性だった。
「ヨハネス神父」
ジュリアンは最大限の礼を取って挨拶し、それから、神父に私を紹介してくれた。
「お待ちしていましたよ」
私の手を取って型通りの挨拶をした神父が、気さくでくだけた口調になったのは、私の緊張した様子への配慮であったのかもしれない。彼の、髪と同じ色の瞳は、率直な好意と好奇心を示すようによく動いて、わたしを観察しているようだった。
神父はみずから私たちを案内し、聖堂とは少し離れた場所にある小部屋へと案内した。
「トマスは私の良き友人でした。我々は、神と皇帝、異なる相手に仕えるという立場の違いを超えて、色々な胸の内を語り合った仲でしたから。ですから、これは、私たちより一足先に眠りについた友人のたっての願いで設けた、私的で非公式な席だと認識してください」
ヨハネス神父は茶目っ気たっぷりに両手を広げて、私とジュリアンに椅子をすすめた。サイドボードに用意されていたティートレイで紅茶を注ぎ、私たちの前に置く。この規模の教会であれば、普通は出迎えもお茶を出すのも、その役の人間を置いているはずだが、そうした姿は見えなかった。
恐縮する私に、神父はからからと笑った。
「東洋では、僧侶が来客に手ずから茶を出すことが、来客への敬意を表す一つの手段なのだそうですよ。下働きの者には任せず、室内に、湯を沸かして茶を淹れられるしつらえがあるのだそうです。ここは東洋ではないので、もちろん普段は別の人間に任せるのですが、今はクリスマス前でみな準備に忙しくて、私用を頼むのは気が引けまして」
外は寒かったでしょうから、冷めないうちに、と勧めてくれた。
少し濃い目に淹れられた熱いお茶を一口飲み、私がカップを置いたところで、神父は少し背筋を伸ばして、改まった顔つきになった。
「さて、私の友人トマスは、亡くなる数日前、風変わりな依頼をしてきました。レイモンド卿からお聞きになったかと思いますが」
私の様子を推し量るような視線に、私はぐっとお腹に力を入れて、自分から切り込んだ。
「大旦那様は、私を離縁されたと聞いています」
「左様」
ヨハネス神父は大きくうなずいた。
「尋常ではない依頼です。私とて、理由を知らねばそんな依頼を引き受けるわけには参りませんでした。当事者の双方が揃わない中で、大きな決断でしたからね」
「理由。私も、それを知りたいのです」
「そうでしょうとも」
神父の瞳が、私を真っすぐに見つめた。
「アナベル。私たちは初めて会いますが、この教会にとっても、あなたはとても重要な人物でした。決して、あなたのことを粗略に扱おうというつもりはなかったのだということを、これからの話でご理解いただけたら幸いです。友人トマスの真意をあなたにお伝えすることが、友人の最後の願いであり、私が責任をもって引き受けた務めでもありました」
そして、神父は、静かに語り始めた。
◇
トマスは、理解されにくい男です。そんな彼の心の底まで理解し、認め、信頼し、愛していたのは、彼を本当に若いころから知っていたマリエットと、前のアップルトン卿夫妻だけだったかもしれません。ハロルドとヴィオラ。アナベルの伯父夫婦ですね。
けれど、なかなか子どものできなかったトマスとマリエットに待望の第一子が産まれる喜びと引き換えるように、マリエットはジュリアンを産んですぐ亡くなってしまいました。
トマスがマリエットを生涯愛していたことは、疑いようもない事実です。しかし、彼が悲しみのあまり、彼女の絵姿や写真を全てしまわせ、その名を邸内で口にしないよう使用人たちに求めたことは、彼の弱さであり、一つの不幸の元であったと言えるでしょう。
ジュリアン、あなたは、トマスが心からマリエットを思い、忘れられずにいることを信じられなかったのではありませんか。あなたの知っているトマスは、常に無口で陰鬱な父親だった。すっかりマリエットの面影を追い出されてしまった家で育ち、勧められるままに新しい妻を迎えた父親を見ることで、あなたは、彼がマリエットのことをもう何とも思っていない、冷たい人間なのだと思ったのではありませんでしたか。そのころから、あなたとトマスの間には深い溝ができてしまった。
ローラもまた、不幸な女性でした。彼女は結婚に夢を持っていたし、夫に愛される生活を望んでいた。けれど、トマスには、ローラの願いに思いを馳せるだけの心の余裕がありませんでした。彼女は空虚な思いを買い物や華やかな夜会で埋めようとした。けれど、彼女の愛されたいという夢は、品物やどんちゃん騒ぎでは埋まりませんでした。当然です。
彼女は夫から愛されたいのならば、自らが夫を愛する必要があった。けれど、その事に気がつけないほど彼女の精神はまだ幼かったし、トマスもまた、そういった関係に心を開いていける状況にはありませんでした。
すれ違いの果て、彼女が結婚の外に愛情を探したのは、恥ずべき行為ですが、彼女だけを責めるわけには行かないでしょう。もっとも、愛情の代わりに彼女が夫から奪い取るようにせしめた数々の高価な贈り物を、別の男のもとに持って行ったのは、私としても首をかしげざるを得ない行動ではありますが。
トマスは不器用ですが、人の心の見えぬ男ではありませんでした。結婚生活でローラが不幸であることを知っていたし、それが、自分にも原因と責任があることも分かっていたのです。彼は、ローラの願うような生活を与えてやれないこと、自分が教会で結婚の誓いをたて、愛し守ると宣言した女性を苦しめているということに、傷つきを抱えていました。
そして、トマスとローラの関係が今にも崩壊しかねない一触即発の状況になっていたとき、トマスの数少ない理解者であった、アップルトン卿夫妻が相次いで亡くなったことも、また、不幸な巡りあわせの一つでした。
トマスが親友を失った悲しみにくれる中で、ついに我慢できなくなったローラが『真実の愛を見つけた』と書き残して、ノルドラントの青年貴族と駆け落ちした時、一番ほっとしたのはトマスに違いありません。
彼は、その後の世間からの嘲りも非難も、全て、神の前での誓いを守れなかった己への罰だと思い、耐え忍びました。ローラの行動は、不貞行為として、また、伯爵家の財産の窃盗として、トマスが訴え出れば処罰は免れなかったと思います。ですが、彼は、ローラがそうした行動に走った責任の一端は己にあるとして、訴えようとしませんでした。自分の立場を周囲に弁明することもなく、彼はただ耐えました。
彼の心持ちは高潔だったかもしれませんが、それは、ジュリアン、あなたを巻き添えにしてよいものではなかった。あなたが、塞ぎこんでいるトマスの気づかぬところでいらぬ非難の矢面に立たされ、苦労したことを、あの時の彼は気づけなかったのです。私は、友を何度も諫め、気づかせようとしたのですが、力及びませんでした。
アップルトン卿夫妻がいたら、きっと、私と同じことを彼に言ってくれたでしょうに。私はいつもあなたのために祈っていたのですよ、ジュリアン。こう言っても、何の慰めにもならないかもしれませんが。
トマスはすっかりふさぎ込んで、自分の殻にこもったような生活を送っていました。ですが、時が彼を少しずつ癒して、やがて多少なりとも周囲の様子を見ることができたときに、彼は、親友の弟の苦境に気がついたのです。
そう。アナベル、あなたの父上、マーカス・アップルトン卿のことです。
マーカスはもともと、爵位を継ぐつもりはなかった。帝国軍の仕事にやりがいと適性を見出していたし、兄のハロルドもそのことをよく理解していたそうですね。ハロルドは、いずれは養子をとって爵位を継がせるつもりだったそうです。
ですが、そんな計画も、ハロルドとヴィオラが急に亡くなったことで全てご破算になってしまいました。マーカスには、全く心構えも勉強もできていない中で、爵位と領地が転がり込んできた。そんな世間知らずのマーカスにつけこんで、ずいぶんあくどい取引を持ち掛けて損をさせたような輩が何人もいるようです。
トマスが、マーカスが多額の借金を抱えてにっちもさっちも行かなくなっているのに気がついたときには、彼が爵位をついでから一年以上が経っていました。自分が悲嘆にくれているうちに、親友の弟と領地を見捨ててしまった格好になったトマスは焦りました。なんとかそこから立て直そうと、マーカスに助言をしようとしたんです。
ですが、そのころには、繰り返し騙され、いいように食い物にされた経験を重ねていたマーカスは、兄の親友を名乗るトマスを信頼することができなくなっていました。マーカスは彼の助言の裏をかこうと悪あがきを重ね、結果として、さらに沼にはまりこんで身動きが取れない状況に陥っていったのです。一年以上も経ってから現れて、真心を信じろと言われても、難しいものです。その期間が、妻を失い、育てるべき子どもを抱えて途方にくれた、生涯で最も苦しかった日々であれば特に。
トマスは、病で妻を失い、自暴自棄になっているマーカスに、親友の弟という以上の親近感を抱いていたのかもしれません。けれど、彼の真意はマーカスには伝わりませんでした。
マーカスは追い込まれ、スノウシャペルの賭博場で、最後の大博打に打って出ました。全財産を賭けて、借金を帳消しにするポーカーに挑んだのです。
ですが、そうした賭け事に神様は微笑まないものです。
すっかり何もかも失くしてしまったマーカスが呆然自失の態で賭場を出ていき、その直後、事故にあったと周囲は証言していたそうです。