10 ジュリアンの話
「私にも、父が何を考えていたのかはわかりません。爵位と領地を継いで、初めて知ることばかりで、正直なところ、混乱しています」
遠くの雲を見る眼差しでジュリアンは言った。
彼はトマスと同じようにいつも冷静で、私とほんの二つしか歳が変わらないのに、何事にも動じず、超然としている人だと思っていた。
けれど、今の彼はいつもよりずいぶん頼りなく、年相応の青年に見えた。二十七歳で、準備期間もろくにないまま突如継ぐことになった家督は、いつかはその日が来るとわかっていたとしても、やはり重いものなのだろうか。
「それでも私には、父があなたのことを不満に思っていたとか、切り捨てようと思っていたとは思えません。父があなたから愛想を尽かされたと思ったほうが、まだしっくりくるような気がして、先程の失礼な質問になったわけなんですが」
櫂を漕ぐ手のリズムに合わせて言葉を切りながら、彼は何を言うべきかじっくり吟味するように語った。
「あなたは、ローラという名前を聞いたことがありますか」
問いかけられて、私はうなずいた。トマスの二番目の妻で、彼が言うところの、私の『前任者』だ。もっとも、その名前も、マリエット同様、帝都屋敷の中で口にする者はいなかった。
「彼女は、私を産んですぐ母が亡くなったので、跡継ぎが一人では心配だと、周囲が強く勧めて迎えた後妻だったそうです。母の死から五年ほど経った時のことでした」
私のときは、子供が産まれれば跡目争いの原因になると言ったくせに、勝手なものだと思う。ただ、いくら医療が発達してきたとは言え、その当時はまだ幼子のジュリアンが、ふとした病で亡くなる危険性は高かったわけで、彼がほとんど成人しかかっていた時期とは事情が違うということなのだろう。
「けれど、彼女はおよそ伯爵夫人に向いた人物ではなかったようです。私が記憶する限りずっと、夫婦関係は冷えきっていた」
私は再びうなずいた。その先の顛末は、社交界の貴婦人方が底意地の悪い笑み交じりにひそひそ声で噂したがる格好の話題である。私も聞こえよがしの当てこすりとして聞かされたことがあった。その時にローラの名前も知ったのだ。苦い話だ。
「結局彼女は、買い物三昧、夜会三昧に耽った挙げ句、隣国ノルドラントから帝都に派遣されていた外交官……あちらの男爵の次男だったと聞いていますが、その男と恋に落ちて、ある日、ありったけのドレスと宝石を鞄に詰め込んで駆け落ちしたんです。置き手紙には、わびしい日々に耐えられない気持ちでいたとき、慰めてくれた彼の真心に、真実の愛を見つけた、申し訳ない、と書かれていたそうです」
「なかなか……残された方は辛い話ですね」
何と相づちをうっていいかわからず、私が言葉につかえながら言うと、ジュリアンは低く笑った。
「どうでしょうか。妻に散々貢がされた挙げ句、寝取られて捨てられた伯爵、というスキャンダルの渦中に取り残された格好になりましたが、父はどこかすっきりしたような顔をしていました。もう彼女にうんざりしきっていたのでしょうか。彼女が去ったとき、私はちょうど幼年学校に行き始めた時分で、ずいぶんからかわれたり、侮辱的なことを言われたりして、平然としている父を恨んだものですが」
嫁いだ直後、社交界の陰口や蔑みに晒され続けた日々を思い出して、私は黙ってうなずいた。幼年学校に行き始めた時分というなら、ジュリアンが十三歳のころだろう。慣れ親しんだ生家を離れ、寄宿制の幼年学校に入学したばかりという環境で、一人で耐え抜くのには厳しい試練だったに違いない。
「だから私は、父のあなたとの結婚には反対でした。あなたにもずいぶんきつく当たったと思います」
ジュリアンが父親の三度目の結婚に反対していたのも、使用人たちの何気ない会話の切れはしから、私はいつともなく察していた。
まあ、厄介者の年下の義母に対する若者の態度として、彼の冷ややかさは仕方のないことだと思ってはいた。彼はあくまで礼節は守っていて、面と向かって罵られたり、陰に陽に嫌がらせをされるようなことは一切なかったから、友好的ではないにせよ、表面上は穏やかな関係だったと言えると思う。
ローラの無分別のあおりを一人でこうむる羽目になったという今の話を聞けば、当時の彼の気持ちは痛いほどよくわかった。彼にしてみれば、ありえないほど若い義母がまた現れるなんて、たまったものではなかっただろう。
そして、ローラの話をジュリアンの口から聞いて、私はやっと、私に恋人がいたのではないかという先ほどの疑いが、彼にしてみれば、恐れていた悪夢の再来として避けがたく第一に心に浮かんでくるものだったということを、腑に落ちて納得したのだった。
彼もまた、苦しんだ人間の一人だったのだ。
「おっしゃるほど、あなたからひどいことはされていませんわ。ひどかったのは、お屋敷の外の世間様です」
ため息混じりに笑った私に、ジュリアンもまた、同じ思いを味わった者同士の何がしかを感じたのだろうか。彼は私の方にいたわるような眼差しを向けた。
「一度、父に、今からでも遅くはないのだから、離縁したらどうか、と言ったことがあるんです。あなたはまだ若かった。鳥かごに入れたままにするような残酷なことはできないはずだ。同じように、『真実の愛』を見つけてしまったらどうするのか。同じ過ちを繰り返したら、今度こそ、家名に取り返しのつかない傷が付く、と。でも父は笑って取り合いませんでした」
ジュリアンはまた、遠くを見るような目をした。
「あの子はローラとは違う。真の誇りと、痛みのわかる子だよ、と父は言っていました。そして、お前が思うようなことにはならんから、安心するがいい、とも」
「……何が違うと思われたんでしょう」
私に足りなかったのは、まさにその誇りではないのか。先ほどのダニエルとの会話が脳裏に蘇って、私は心の柔らかいところがえぐられる思いだった。
「私にもさっぱりわかりませんでした。でも、あなたは刺繍ばかりしていて、ドレスも宝石も、何も欲しがらないようだった。ちゃんとした格式の物を用意しなければならないのに、あまりにご興味がなくて困ったものです、と、侍女長のマートル夫人が笑っていたくらいです。それで、少なくともローラとあなたは違うと自分を納得させて、私は父にそれ以上文句を言うのはやめにしたんです」
夜会も興味がないようでしたし、と言うジュリアンに私は眉をひそめた。
「あんな当てこすりと悪口を言われるばかりの席に好きこのんで顔を出したがる方がいるのかしら。もしいるなら、それは逆境に身を置くことで主への祈りを完成させようと修行に励まれる聖者様だけだと思っていましたわ。でも、先ほど気がつきました。私のその、世間様から軽んじられたままに反論もせずに引っ込んだ、誇りのない態度がふさわしくなかったのではないでしょうか」
「どうでしょう。わかりません。父の考えていたことは、さっぱり」
彼は投げ出すように言った。
「ただ、貴族社会の世間様が何と言うかなど私は知りませんし、知る気もありませんが、父もそんなことを気にしていたとは一切思えない。それに、帝都屋敷でもここファーンデイル領でも、父のこと、それから、あなたのことを悪く言う人は一人もいません。私にわかるのはそれだけです」
そろそろ昼食の支度もできた頃でしょう、と彼は器用に櫂を操って、ボートを元来た桟橋の方に向けた。桟橋にはサンディらしき人影が立って、こちらを眺めていた。
私はその人影に向かって手を振った。会釈を返すと、彼女は番小屋に駆けもどってゆく。きっと、私たちが到着したらすぐ食事にできるように、ダニエルと食卓の最後の仕上げをしようというつもりなのだろう。
それからは、ジュリアンはまた、初めにそうだったように黙って、桟橋へと漕いだ。
「教会ではどんなお話を伺うのでしょう」
私が尋ねても、彼は、さあ、と言葉少なに首をひねってみせただけだった。














