01 ローズグロウ橋
がらがらと音を立てて、馬車は田舎道を走っていく。
よく手入れされ、磨かれた窓ガラス越しに外を見やると、こんもりと雪化粧した背の低い藪の切れ目から、かすかに、光る川面が見えた。
私はひざ掛けの上で重ねた手をぎゅっと握りしめた。
こんなに遠くまで、馬車に乗って旅するのは初めてだ。こんなに沢山積もった雪を目にするのも。
心がどこか浮き立たないと言えば嘘になる。
だが、そんな風に思った瞬間、喉の奥がきゅっと痛んだ。
それを自分にごまかすように、私は窓の外を指さした。
「サンディ、ごらんなさいな。向こうに橋が見えるわ。あれは何という橋? 白い雪を帽子に被っているみたい」
不釣り合いにはしゃいだ声をあげてみせる。
私の部屋付き侍女のサンディは、急に饒舌にしゃべりだした私に驚いたように顔をあげたが、何かを察したように微笑んだ。
「旦那様……いえ、前の伯爵様がお掛けになった、ローズグロウ橋ですわ、奥様。わたくしも、あの橋が完成したのを見るのは初めてです」
前の伯爵様。そう。あの人は、もう伯爵ではない。この世の人ではないのだから。私は、そしておそらくサンディも、まだ、その事実に慣れることができないでいた。
私はサンディの言い間違いに気がつかなかったふりをして会話を続けた。
「美しい色ね。レンガ造りかしら。でも、私の知っているレンガとはずいぶん色が違う。石かしら。赤みが強くて、雪景色に映えて美しいのね。絵に描いて残しておきたいくらい」
「おっしゃる通りですわ。スケッチができたら、奥様の刺繍の題材にもいいかもしれませんね」
サンディは控えめに微笑んだ。
六人は乗れるであろう馬車に、乗っているのは私とサンディ、それから、二つ年上の義理の息子にして、私の夫から爵位を引き継いだ青年、ジュリアンだけだった。
ジュリアンもまた、無感動に、ガラスの向こうを見ている。
ここまでやってくる馬車の長旅の間、彼はほとんど口をきかなかった。私と気楽な会話を楽しむどころか、目を合わせるつもりもないようだと思っていたのだが、彼は無愛想な口調でぽつりと言った。
「トスク地方のテラコッタです」
「え?」
言われると思っていなかったタイミングで発せられた上に、知らない言葉ばかりの一言だった。思わず、問い返してしまった。
「申し訳ございません、聞き取れなくて」
ぎろりと鋭い視線を向けられて、慌てて弁明すると、彼はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「トスク地方のテラコッタです。火山灰が混ざった赤土を焼いて作る丈夫なタイルで、軽量で耐久性に優れています。橋をかけかえるときに、父が、雪が降っても重みで崩れず、丈夫な橋がいいと、表面仕上げ材にするべく、わざわざ大量に取り寄せたのですよ。見た目で選んだわけではありません、アナベル」
私はしゅんとしてうつむいた。
馬車の中にまた沈黙が降りる。
彼は再び、窓の外に視線をやった。
見た目の事ばかり気にする、空虚でうすっぺらい女だと思われたのだろうか。
彼から、「お母さん」と呼ばれたことはない。当然だろう。私の方が二つも年下なのだ。
私が十五で嫁いできたとき、ジュリアンは、貴族の子弟が通う幼年寄宿学校の五年生だった。六年生を終えて卒業した後は、家門の義務として軍学校を経て兵役につき、宮廷守護騎士団の一員として騎士団宿舎で生活していた。同じ家で起居したのは、彼の学校や騎士団の務めが長期休暇になる、ほんの限られた期間でしかない。
彼の考えていることは、いつもよくわからなかった。だが、決して友好的な関係であったためしがない、ということだけは確かである。私は彼のことが嫌いだと思えるほどには彼のことをよく知らなかったし、つとめて礼儀正しく接しようとしてきた。だが彼は、私にいつも冷たい視線と、無感動でよそよそしい型通りの挨拶しかよこさなかった。
今も、ジュリアンのどこか陰鬱な横顔から、その胸の内を推し量ることはできなかった。心なしかいつもよりさらに冷淡でいらだっているようにも、これがいつも通りのようにも思われた。
父親譲りの黒髪、青灰色の瞳。真っすぐに通った鼻筋、がっしりした顎骨。
彼の横顔を盗み見て思った。
旦那様に、よく似てこられたわ。
そう思うと、また、鼻の奥がツンとする。
◇
私の夫、ファーンデイル伯トマス・レイモンド卿は、四か月前に亡くなった。私は彼の、三十五も年の離れた、三人目の妻だった。跡取りの一人息子より年下の妻を、いい年をしてみっともない、と世間が口さがなかったことも私は知っている。
一族の恥のような嫁である。
そんな空気を察してか、トマスは、私を社交界に無理に連れ出そうとはしなかった。私は、もともと華やかな社交の場が得意な方ではない。夫に、公の場にもっと出て行けと言われないのを幸いと、彼の妻としての十年間を、ほとんど、彼の帝都にある屋敷に引きこもって暮らしていた。
トマスもまた、何を考えているか、私にはよくわからない人だった。
ただ一つ分かっているのは、私の父である当時のパインウッド男爵マーカス・アップルトンが、紳士の社交クラブでポーカーに身を持ち崩し、爵位も帝都屋敷も実質抵当に掛かったようなにっちもさっちもいかない状態で事故死したとき、最終的にその借金を全て押さえていたのが、トマスだったということだけだ。
私は父の遺した借金を返すために、ほとんど身売りせざるをえない状況にまで追い込まれていた。爵位を欲しがっている金満家の商人に拾われて妻となれるならましな方。貴族出身の零落した子女が集められている娼館の主人から、借金の肩代わりをしてやってもいい、という話まで持ち込まれていたのだ。明るい金髪に淡い青の瞳、色白の肌に小柄で華奢な骨格。典型的な帝国貴族の娘らしい私の身体的特徴は、その老女主人によれば、『それだけで一財産』なのだという。鉤鼻の老女の値踏みするような粘っこい視線に、鳥肌が立つほど嫌悪感を覚えたものだ。
父が亡くなった翌日、私の家にやってきたトマスは、父の借金を全て肩代わりした証文を示して、そうした申し入れをすべてを一蹴した。
そして、たった一人で、今後の生活どころか、目の前の父の亡骸を埋葬する費用も手立ても思いつかず、呆然としていた私を、伯爵家の帝都屋敷に連れ帰ったのだった。
『ここが今日から、君の家だ、アナベル』
わけもわからず伯爵邸の前で馬車から降りた私に、彼が掛けた一言が、今から思えば、プロポーズの言葉に相当するのだと思う。問いかけですらない、断言だった。
『お仕事をいただけるのですか』
うまく事態を呑み込めず、ぼんやりと問い返した私に、彼はうなずいた。
『我が家には今、帝都屋敷を取り仕切る人間がいないからな。貴族同士の家の付き合いは、帝都屋敷が主な窓口だ。他の家の冠婚葬祭に祝いや見舞いの品を贈ったり、挨拶に行ったりするのに、貴族の所作が身についている人間がいないと、領主である私が留守の間、困るんだ。教会への年ごとの奉納品も君に取り仕切ってもらいたい』
その時の私は、全くの世間知らずで、彼の言葉の意味が分かっていなかった。ただ、そんな、世間様とお付き合いするような仕事が年端もいかない私に務まるのだろうか、と恐ろしくなったのを覚えている。
私がそう言うと、彼はうなずいた。
『もちろん、前任の者がどんなふうにやっていたか、うちの使用人はすべて理解し、把握している。君は彼らに言われる通りにやればいい』
彼の言う『前任の者』が、数年前に離縁された彼の二番目の奥方で、彼の言っているのは、つまり、伯爵夫人として、貴族の家同士の付き合いを取り仕切れ、という意味だ、ということを理解したのはその数日後。彼の秘書がてきぱきと手配してくれた父の葬儀に参列した翌日のことだった。屋敷の書斎に、彼の領地からたまたま帝都を訪れていた教区司祭が呼ばれ、結婚の誓いが読み上げられたのだ。
自分の身柄は父の借金のカタにこの人に買い受けられた、ということなのだ、と、その時私はやっと理解したのだった。