幕間
この世界に来て初めての料理、宿で出された夕食に、小夜の胃袋も満足だ。
川魚の切り身だろうか。ほろりとほどける柔らかい白身が、香草と野菜のスープの味をたっぷりと受け止め、噛むと油と共に旨味が溢れる。
ナンに似た、芋と穀物を練り合わせて焼いたという香ばしい食べ物も、何枚でも食べたくなる美味しさだった。
ゆっくり満喫、とはいかなかったが。
『ダメ! 手掴み熱いから、あと汚れるからっ』
くんくんと匂いをまず嗅いで、湯気立つスープ皿に指を突っ込もうとするアリア。
『スプーン使って、こうやって持って、』
匙を握らせ、持ち方を指導するものの。結局面倒になったのか、アリアは直接皿に口を付け、啜り始めた。
小夜はぐっと出掛かったお節介を堪えた。ひとまず、アリアに食事を摂らせることが優先だ。
ただでさえ少食なのに、食事を嫌いになっては困る。
「おいしかったー……」
そんな苦労もありつつ、小夜は生の喜びをつくづく噛み締め、滲みそうになる視界を拭った。誰かの手で作られ、味のある、温かい食べ物が沁みた。
「はふぅ」
一方であくびをしながら、寝台で早々に寛ごうとするアリア。
やはり食が細く、あまり食べないため、好物を見つけねばと小夜は思う。血液以外で。
「アリア、眠る前にお風呂入らないと」
「おふろ?」
「身体を洗って綺麗にする場所だよ」
宿には個室のお風呂が備わっているそうだ。川では身体を洗った気分になれないし、湯船が希望だがこの際贅沢は言わない。汗や土臭さをすっきり落としたい。
うきうきと確認に向かう小夜に、アリアも眠たそうに後を付いて行った。
あいにく浴槽はなかったが、両手を広げても余裕のある広さだ。
頭上の壁は、埋め込むように透明なタンクが除く。中には水と、赤い石が気泡を発生させている様子が見えた。タンクからは金属の管が伸びている。蛇口だろう。
小夜は使い方を調べようと、壁のハンドルを握る。真ん中にあったそれを下げてみるも、何も起こらない。
今度は床のでっぱりを踏むと、湯が降って来た。思わず「ぎゃあ」と悲鳴を上げたことを小夜は無かったことにしたい。
ハンドルを真ん中に戻して、湯が当たらない位置からでっぱりを押し込む。水量調節だったようで、先程よりも勢いが増した。押し続けている間は湯が継続して流れるらしい。
ふむ、ふむ、と小夜は入り口で様子を窺うアリアに振り返る。
「使い方は分かったね。これは……シャンプーかボディソープかな? あ、なんだかお花の匂い? がする」
粉の入った瓶を開けて、少量を手に移してみる。桶に溜まった水を足すと、とろみのある液体に変わり、擦ると泡立った。
「これなあに」
「石鹸の泡……って舐めるんじゃないそれも食べ物じゃないっ」
浴室に舞う泡を捕まえようと手を伸ばし、石鹸を舐めようとする。アリアの好奇心は強いのか弱いのか小夜は未だ把握できない。
「じゃあ……部屋で待ってるから」
若干疲れ気味に小夜が手を振ると、アリアは首を傾げる。
「さよはおふろしないの?」
「アリアが戻って来たら入るよ」
「いっしょは?」
「さすがに二人は狭い。出る時は暑くても服はちゃんと着てくるんだよ」
子供とはいえ、複数人入ることを想定されていない空間だ。
小夜は苦笑して部屋へと向かったが、どこかしら壊したり、裸でぺたぺたうろついたりしないかやや不安になった。
「さーよー」
二十分ほど経ち、小夜が様子を見に行こうか考えていると、ちょうどアリアが扉を叩いた。
「おかえり、ちゃんとあったまっ……た……」
服は着ている。オーケー。髪も濡れて洗った様子がある。オーケー。異音や悲鳴もないオーケー。
だけど濡れ鼠のまま、水を含んだ筆のように黒髪が跡を残しているのはエヌジーだ。
小夜はアリアを連れて浴室に戻った後、宿の主人に頭を下げながら雑巾を借りた。アリアの髪も絞れば絞るほど水が出てくる雑巾みたいだった。
「はあああぁおふとぉーん……」
お風呂から戻って、小夜は大きな溜息と共に寝台に倒れこんだ。リフレッシュどころか、なんだか妙に疲れた気がするぞ?
とはいえ、ぬるま湯だがお湯を満喫できたのはやはり嬉しい。干し草の香ばしくて懐かしさを感じる良い匂いもする。地球とおなじく、綿を包んだ布が布団となり、その下の土台となるベッドには干し草が詰まっていた。
「さよおかえり」
隣のベッドで転がっていたアリアが移動して来て、小夜の横にぽふっと寝そべる。くふふと嬉しそうにしていて愛らしいが、本日の消耗の元凶だ。
「あれ、タオルどこやったの、というか髪乾いてる?」
わっしゃわしゃとアリアの髪を拭いたが、長さを考えるとまだ乾くとは思えない。しかし触れるとふんわり柔らかく、水気はなくなっている。
「風で、水をなくした」
「できるならお風呂で実行してほしかったよ」
雑巾掛けはなんだったのか。
素知らぬ顔で「さよもする?」と尋ねられたので、小夜はじゃあとお願いした。
ぶわりと風の魔法が小夜の髪を踊らせ、枕が寝具から落ちた。椅子が倒れているのはこれが原因だったか。
小夜の髪は短いので、少々強度のある魔法によりすぐに乾いた。
◆
ふかふかがお気に入りなのか、眠たいのか、アリアは寝台の上でのんべんだらりと過ごしている。
小夜は肌着用に買った、ノースリーブから見える模様に視線がいってしまい、つい逸らす。まだ子供らしい薄く華奢な身体は、首には枷が、皮膚には呪印めいたタトゥーがひしめいている。
気持ち悪いとまで思わないが、なんとも不気味な模様だと小夜は思う。これが民族的なものなら、魔除けで施されたりするものと言われたら納得だ。
このタトゥーを元に聞き込みを続けると、アリアの記憶の手掛かりに繋がるだろうか。
いや、と小夜は自分の思考を否定する。
このタトゥーは、人に見せるものではない気がする。下手をすれば――先ほど目にしたように、奴隷の証の可能性がある。枷だって外せないままだ。
だから普段着は手足を隠せる服を選んだし、襟巻きが手放せない。
「さよ?」
不思議そうに碧い瞳が小夜を映している。
なんでもないと小夜はアリアの頭を撫でた。とろんと瞼を降ろし、それに甘えて零れる笑みが嬉しそうで。
アリアの生い立ちがどうであろうと、今、こうしてアリアが笑っている。それが大切なのではないかと小夜は思った。
「さよ、なにかイヤなの?」
「え?」
「ここにきてから、さよはこんなカオしてる」
こんな顔、とアリアはぎゅっと眉根を寄せる。そんなに思い詰めた顔をしてしまっただろうか。
不安。不安だとも。
知らない世界に突然投げ出され、宛てもない旅に出て、家に帰れる方法も知らず。
「ありあがいるせい?」
「……ううん。アリアのせいじゃなくて、アリアがいたから、私は……」
自分の明日も分からないのに、人を預かってしまったことは軽率な行為だったろう。
でも決して後悔だけはしていない。それだけは約束できる。
「アリアと会えて、良かったと思っているんだ。ひとりじゃ、今頃不安で潰れてたかも」
死ぬことは恐ろしい。でも孤独もまた、相応に恐怖だった。あの暗闇で手を繋いでくれたぬくもりに、どれほど救われただろう。
「さよといっしょ」
アリアも小夜を真似て、小夜の赤い髪を撫でる。
くふふーと楽しげな笑顔と、お互いの頭を撫で合う奇妙な様子に小夜も笑ってしまう。
この少年はきっと優しく、とても無邪気だ。
今、こうして彼は笑っている。それで良いのだろうと小夜は思う。そうしてたくさん、笑ってくれたらいい。