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06. 名前

 今日も変わり映えのない森を歩く。

 川辺で休むことができて、体力は補えたが空腹はやはり大敵だ。


 ――そろそろ、森を抜けてもいいと思うんだけどな……どこまで広いんだろう


 道が判るかのように少年は指示を出した。

 彼もここがどこか知らない様子だが、小夜は少年を信じて歩くことにしている。


「さよ。たべられる?」


 少年は野苺らしい群生地を指して言った。

 そう、彼の不思議な探知力は当てになるのだ。遠慮なく見つけてほしい。


「エライぞ少年! いいこ! 天才か!」


 わしゃわしゃ頭を撫でられながら、褒められたことに少年も満足気である。素直でよろしい。


「おいしいっ」


 赤い実をつまむと甘酸っぱさが口の中で弾ける。小夜は今まで食べたどんなお菓子よりも贅沢な甘みに思えた。空の弁当箱に野苺を詰めていくと、心まで嬉しさが満たしてくれるようだ。鼻歌を歌う余裕ができるほど、疲れも紛れていく。


「なんのはなし?」

「え?」

「さよの、こえ」


 少年も野苺を集めながら問い掛ける。

 声と言われてピンと来なかったが、小夜はそこで初めてあの名前も知らない歌であると気付いた。


「……歌だよ。どういう歌かは私も知らないんだけど、けっこう綺麗だよね」


 ふうん。と少年は野苺を口にする。食べ物に興味がないのか、何を食べても少年の表情に変化はない。


「やめちゃうの?」

「……」


 つい口遊んでいたが、指摘されると恥ずかしくなる。小夜は黙々と苺を摘んだ。


「うた、して」


 えー…と小夜は嫌な顔をする。特に歌うのが上手くもないし、自分で歌えばいいと思う。けれど小動物のような瞳がどうにも弱い。おやつをおねだりする愛犬(メロ)みたいだ。


 さてどうしたものかと考えた小夜の視界は、少年の背後に大きな影を捉える。


「響っ!!」


 小夜は少年に飛び掛るようにして、その脅威から守った。


「あぐ……っ」


 鋭い爪を受けた腕に、痛みがつんざく。

 木の影から出て来たそれが立ち上がった。三メートルは越すであろう巨体をもった、熊に似た獣だ。


「? さよ、なにしてるの?」

「ああもう癖だよ! いいから走って!」


 少年を庇って打ち付けた背中や、切り裂かれた腕が激しく痛みを訴えている。

 それよりも、逃げる方が先だ。小夜は少年の手を引こうとしたが、しかし止められた。


「じっとして。もうつかいかた、わかるから」


 少年は冷静に小夜の腕の中から上体を起こす。その髪がふわりと舞い上がり、碧い光を帯びる。


 パキン、と何か、場違いな音が聴こえ、そしてすぐに激しい獣の雄叫びに掻き消えた。


「あ……」


 巨大な脅威が青い業火に灼かれていく。

 しかし、その凄惨な光景よりも、目に映った現実に小夜の頭は真っ白になった。



「これ、たべられる? さよ」


 焼けた熊を観察して、少年は振り返る。

 小夜は地面に座り、ひび割れたスマートフォンをそっと持ち上げた。電源を入れようとしても、かちかちと無意味にボタンが鳴るだけだった。


「さよ?」


 どの道、今日中には充電も切れてしまっただろう。たった一言の連絡も取れないただの鉄屑だ。


「うっ……うあ……」


 そうだとしても、小夜は元の世界との唯一の繋がりが断たれてしまったように思えた。


「あぁあ、ああ……」


 ぽたぽたと割れた液晶画面に雫が落ちる。

 突然見知らぬ森に放り込まれても、孤独で恐ろしい夜を堪えても、獣に追われて食われそうになっても、涙までは流さなかった。


 だけど小夜の精神の小瓶は、恐怖や寂しさや理不尽さでもういっぱいいっぱいだった。自覚というひびが入ってしまうと、あっけなくそれは砕けて溢れ出す。


「帰りたい、帰して、帰してよ! なんでこんなことになった! お父さん、お母さん、響、メロ、やだ、ひとりだよ! 私ひとりだよっ!!」


 泣きじゃくる小夜に、少年は不思議そうに首を傾げ、傍に座った。


「さよ。さーよ?」


 呼び掛けても、野苺を差し出してみても小夜は応えてくれない。

 周囲に他には何もなく、少年は何を思ったかぽろぽろ零れる小夜の涙を舐め取った。


「ひっ……!?」


 突然頬を舐められて、小夜の涙も思わず止まる。

 それに気を良くしたのか、少年はぺろぺろとハムスターが水分でも補給するように舐め続ける。


「ちょ、やめて、やめてよっ」


 じわ、とまた涙が滲んでくる。

 メロもしょっちゅう顔を舐める迷惑なやつだった。そう思い出したら、またどうってことない記憶がめくられてしまう。


「おれがいるよ」


 少年は碧い瞳に小夜を映して、こつりと額を合わせた。


「さよといるよ」


 あ、と小夜は思う。

 そうだ。今、小夜はひとりではない。この少年のことも、なんとかしてやらねばいけない。


「……うん。ありがとう」


 年上がへこたれていられない、と小夜は力強く目を拭う。


「〝ありがとう〟だ。さよ、うれしいの?」

「うん。元気出た」


 小夜が頭を撫でると、少年もくすぐったそうにはにかんだ。

 そして右腕がじくじくする。元気は出たがじくじくする。


「じゃあ、なおしてあげる」


 笑顔の申し出に、ぎく、と小夜の肩が震えた。


「いやだ。あれめちゃくちゃ痛い」

「すぐおわる」

「じゃあ舐める以外の方法ないの」

「おれのちをあびるとか」

「なにさらっと恐ろしいこと言ってんだ」


 しかし痛いものは痛い。


「……」

「……そんなに見るな……」


 炎症を起こして酷くなっても、それはそれで大変そうだ。

 小夜は葛藤の末、制服から肩を出した。なぜか少年はぱっと表情を明るくする。


「い、……ツっ!」


 唇が触れた先から、胸を掻き毟りたくなる熱が荒れ狂う。

 傷の深さからか皮膚が爛れた時より痛みは激しく、今度は生理的な涙が滲んだ。


「……っ」


 歯を食い縛り堪える小夜の耳が、零れた吐息を拾う。引いていく痛みに、どうやら終わったらしいと目を開けた。


「……がと……」


 腕をさすりながら小夜は礼を述べる。素直にお礼を言いたくないのはどうしてか。


「さよの血おいしい」


 小夜は凍りつく。

 まただ。見間違いなどではない。

 煌々と輝く碧い瞳をとろけるように細め、唇を舐める少年に、自分が狩られる側だと本能的に認識する。

 また、かちん、と時計の針が動く音が聴こえた。


「……あなた、何者なの?」


 得体の知れないものを感じて、小夜の声が掠れる。


「なにもの? ……さよは、おれがなにものだったらいい?」


 奇妙な質問に、言葉が詰まってしまう。

 人間と、小夜と同じ姿をしている少年だが、別の生き物であるかのように錯覚しそうになる。


「ヒビキは? ヒビキになればいい?」

「え……」

「ヒビキって、おれをよんだ。さよはヒビキをさがしてる」

「それは、違う」


 小夜はかぶりを振る。少年の言葉に悲しくなった。


「響は私の家族、妹なの。あなたと同じくらいの年齢の女の子。名前は、ごめん、咄嗟に口に出てた。でも、あなたは響じゃない。響にはなれないし、なる必要もない」

「どうして?」

「響は響だから。あなたはあなたで、私は私しかいない。それでいい。あなたは自分のなりたいようになっていい」


 少年は難しいのか、考えるように俯いた。その瞳からはもう光は消えて、至って普通の子供に見える。


「……さっきの質問は忘れて。私も、あなたが何者でも気にしない」


 すくなくとも、少年は小夜に害を加えはしない。

 怪我をすれば治療し、危険が迫れば守ってくれている。褒められると無邪気に喜び、笑顔を見せる。人間と同じように。


「名前、なんて呼ぼうか。思い出すまで〝あなた〟もなんだし」


 ふと思い立って尋ねると、少年は首を傾げた。


「名前。あなたを呼ぶ時の」

「なんでもいいよ」

「そうは言ってもなあ」


 小夜を見つめる澄んだ(あお)は、どこまでも広がる海原の色をしている。


「アリアとかどう?」

「ありあ」

「うん。ただの思いつきなんだけど、綺麗な歌のことだよ。意味は、風とか自由って言葉だったかな」


 ありあ、と何度か口の中で転がして、少年の頬を喜びが彩る。


「ありあ」

「うん。アリア」

「ありあ」

「アリア」


 とびきり嬉しそうにはにかむ少年に、小夜もつられて笑顔を取り戻した。



 ◆



 夜は変わらず恐怖を連れて来る。

 それでもアリアがいることで、孤独な暗闇ではない。

 焚き火を眺めていると、隣で丸くなっているアリアが「さよ」と呼んだ。


「あした、このもりを出られるよ」

「ほんと?」

「ん。もうすぐ」


 望んでこそいるが、小夜の表情は浮かない。

 この森に、響がいるかもしれないのだ、なんとしてでも見つけねばと小夜は思う。

 最後に自分の手を握った、あのちいさな温度を憶えている。


「さよ」


 アリアの手が小夜の手を包む。まるで響がそうしたように。


「さよにも、イチゴにも、マモノにも、アニマ――まりょくがみんなある。ありあはそれを見つけられる」

「……へえ?」


 ということは、小夜も魔法が使えたりするのだろうか。ちょっぴり好奇心を持って小夜は続きを待った。


「だからさがした。ずっとさがしてた。さよににているアニマは、なかったよ。ここには、さよとありあだけだよ」


 小夜はくしゃっと顔を歪めて、膝に顔をうずめた。


「ありがとう。ほんとうにありがとう……っ」


 響はここに来ていない。

 ちいさくて怖がりで優しい響。もしもこんな場所を彷徨っていたらと、その不安に潰れてしまいそうだった小夜の心は解放された。


「よかった……よかったあ……!」


 一度泣いてしまうと涙脆くなってしまうのだろうか。でも、先程よりずっと苦しくない涙だと小夜は思う。


「さよ、まだどこかいたいの?」

「大丈夫、痛いんじゃないか、ら……!?」


 顔を上げて涙を拭おうとすると、またアリアに舐められた。こうすれば涙が止まると覚えてしまっては困る。

 小夜は涙は舐めるものではないと説明したが、アリアはおいしいというので、ただの好物だったことに微妙な気持ちになった。

 そういえば血と涙は同じ成分だったか。吸血鬼とかそういう類だったら、と心配事が増える。


「さよ、うたをして」


 泣き止んだ小夜に安心したようで、アリアは再びころんと寝転ぶ。


「えー……別に上手くもなかったでしょ、歌って何か寄って来ても嫌だし」

「そしたら、ありあがやっつけてあげる。うたって。さっきのがいいな」


 焚き火が碧い瞳をきらりきらりと揺らめかせる。どうにも弱い。

 小夜は若干の恥じらいを抱えつつ、息を吸った。


「……――――」


 静かな夜に密やかな歌声が霧に溶ける。

 繋いだ手は優しいぬくもりをしていた。

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