05.「ありがとう」
今日は川を拠点にすると決めて、もう一度夜から明日に掛けての食料をふたりは捜した。
少年は特に疲れた様子も見せず、積極的に小夜に付いて来る。元気があるのは幸いだが、体調の変化に気を付けてやらなければ。と考えていると小夜は何かに滑った。
「いった!」
したたかに尻を打って、起き上がろうにも地面が滑る。陸に上がった魚みたいに無意味に手足を動かすだけだ。
「ぎゃあああああっ」
小夜は絶叫した。道中でも見掛けた巨大ナメクジが顔を出し、こちらに向かってくる。
「おまえの仕業か! 気持ち悪! やめろ来るなというか溶けてる! 服溶けてきた!」
喚きながらもがく小夜の足に、ぺとりと冷たい感覚がした。悪寒に肌が粟立ち、どろどろに溶かされた自分の未来に目がくらみそうになる。
「この、どいて! 離れろ! ぬめるな! ノーダメージか!!」
スプレーを掛けても殴ってももう片足で蹴ってみても、どかすことができず小夜は焦る。
ナメクジがじわじわと小夜を呑み込もうとする。近付く湿った皮膚も、ゴマのようにちいさないくつもの眼(推定)も、四本の触覚も、全部気持ちが悪い。
「ねえ」
はっとする。少年がいつの間にか近くにいて、小夜を見下ろしていた。
「危ないから! 離れて!」
危機に瀕しているのは己だが、小夜はナメクジ相手に罵りもがく。ころころと笑い声が降って来た。
「どうして、たすけてっていわないの?」
小夜は愕然とした気持ちになる。
それが普通だった。〝お姉ちゃんなんだから〟しっかりとして、妹を守れるように。
食われそうな小夜にほほ笑む少年は、残酷なほど無垢で、好奇心しかない。小夜が生きようと、死のうと、きっと彼にはどうでもいいのだ。
「おれなら、たすけてあげられるよ。おねがいしたら、かなえてあげる」
楽しそうな少年に呆気に取られた後、小夜は無性に腹が立って来た。
「あんた性格サイアク!!」
肌がひりついてきた。溶かされるのかもしれない。まっぴらごめんである。
「ぐ! 待ってろ! このキモいナメクジ蹴り飛ばして、その性悪な頭にデコピンお見舞いしてやる!」
小夜は諦めない。生きることを諦めない。
もう胸下までナメクジは這い上がってきた。触覚が顔に当たる。粘液が垂れてくる。超キモい。小夜は涙目だ。
「誰が死ぬか! 響も見つけてないのに! こんな意味わかんないとこで! 私は生きる、生きて絶対元の世界に帰るんだ!!」
ぎゅっと閉じた瞼の裏で、家族や友達との思い出がめまぐるしく上映される。走馬灯ってやつか、冗談じゃない。
「――…っ死にたくない! 助けて!!」
小夜の叫びに、くすりとちいさな笑みが応えた。
「ん。たすけてあげる――だから、」
瞬間、腹に乗った重みが剥がれ、木の割れるような音がした。
驚いて小夜が目を開くと、倒れた大木の根元にナメクジがのびている。
少年の髪先が碧白い光を帯びる。
彼が模様に埋め尽くされた手を翳すと、ナメクジは青く燃え盛る炎に包まれ、消滅してしまった。
小夜はまばたきも忘れて少年に視線を向ける。
両手を握り、開き、自分の手を確認する少年の横顔は、瞳が碧く輝いて見えた。
「……っ」
ちょこんと少年が小夜の隣に座り、小夜は震えた。小夜に振り返った少年が、一瞬とても恐ろしい表情に見えたから。
――気のせい、気のせいだ
自分を見つめる碧い瞳に、ばくばくと心臓が打つ。目の前で起こったことといい、処理しきれない。
「いっしょにいてね」
「……え、……」
震える小夜の頬に、少年は手を伸ばす。
――あれ、針、この位置だったっけ
揺れた時計の、文字盤が反射して目に止まる。ほぼ真上を指していた針が、右へ傾いていた。
「……さよ、きたない。はやくカワであらって」
指で粘液をごしごしと拭われる。
嫌そうに言われて、小夜の停止した思考がかっと熱くなった。
「汚いってなんだ! こっちだって気持ち悪いんだ!」
それに、じりじりと痛みが増してきた。早く落とさないと皮膚が溶ける。
「助けてくれてありがとう!!」
鼻息荒く言って、小夜は乱雑に草木を掻き分けていく。
くすくすと笑い声が後からついてくる。少年のことを、もっと知っておかなければいけない気がした。
◆
「くう、う……っ」
あのナメクジめ、と悪態をつく。
制服を着たまま川に飛び込むと、制服だったものはボロ雑巾にされていた。
しかしそれよりも酷いのが皮膚で、粘液に触れた箇所はところどころ爛れて水が滲みる。
べそをかきそうになって頭まで水に浸かり、ついでに洗う。小夜は温かいお風呂が恋しくなった。
「というか、火が出せるなら言ってよ」
焚き火の前で膝を抱えながら、小夜はむすくれた。火起こしした自分が馬鹿みたいじゃないか。
「だまってたわけじゃないよ。おれもさっきしった」
「さっき知った……?」
「つかえるきがして、つかった。だから、ああそうだったなって、おもいだしたの」
少年の言葉を、小夜は訝しげに聴く。
「……あの、そういう火を出したりって、魔法なの?」
「そうだよ。しらないの?」
「今の今まで忘れてたあなたに言われたくない」
くふふと上機嫌に笑うのが小憎たらしい。こんな性格だったろうか。
そして、非常に不本意だが、小夜の疑問のピースが合わさってしまう。
見たこともない生き物。魔法の使える世界。カラフルな髪色。
まるで、あの夢の中に迷い込んだようじゃないか。
否、そうなのだと確信している自分がいて、小夜は膝に顔をうずめた。ここは、地球ではない、別の世界。
――泣くな。来た方法があるんだ。帰る方法だって、きっとある
唇を引き結び、滲みそうな涙を堪えていると「さよ?」と少年の声が近くでした。
「いたいの? ずっとアシきにしてる」
「え、違う、いや、痛いけど。大丈夫」
爛れた手足を腕で隠しつつ、小夜は鼻を啜る。泣いてない。濡れたり下着だからちょっと寒いだけだ。
「なおしてあげようか」
「へ……?」
少年は小夜の手を取ると、傷口に吸いついた。
「なっ、にす……!? いた、熱い痛い痛いいっ!!」
突如として襲ってきた痛みに小夜は悲鳴をあげる。逃れようとするが、痺れたようにうまく動けない。
熱湯を浴びせられたように熱く鋭い痛みだ。脈拍に合わせてその間隔が狭くなり、ちかちか視界が点滅する。
少年は意に介さず、小夜の脚にも唇で触れていく。そっとあてられる舌は優しいのに、その度にナイフで刺されるみたいで小夜は恐怖に縛られる。
「治すんじゃ、ないの! 余計痛い!!」
「すぐなおるよ。じっとしてよ」
呆れたような少年の声に、小夜はそういえばデコピンしてねえやと思い返す。
――絶対する。してやる。思いっきり!!
かち、と鳴る時計の音を、熱にぼんやりとする耳で小夜は聴いた気がした。
「……ん、おわり」
拷問のように長く感じた時間が終わる。
その声で、嘘のように痛みが失くなっていることに小夜は気付いた。怖々と視線を向けると、傷痕ひとつない元通りの両足がそこにある。
「ど、いうこと」
ぜいぜいと呼吸を繰り返すだけの、呆気に取られた小夜に少年はふふんと得意げに笑う。小夜は偉そうな額にデコピンしておいた。
「なにするの」
「イラッときた」
額をおさえて大変恨めしそうな少年を無視し、小夜は治った足を撫でる。
――……不思議な力と、魔法、この子の記憶と一緒に忘れられたもの……記憶喪失と何か関係あるのかな
「……ありがとう。今日はたくさん助けてもらった」
真面目に、小夜は碧い瞳と向き合った。
神妙に言われて、少年は不思議そうに首を傾げる。癖なのだろう。
「その〝ありがとう〟って、なあに? さっきもいってた」
意味を問われると困ってしまう。まさかお礼を言った相手に、意味が通じていないとは思わなかった。
「ありがとうは……人に何かしてもらった時の、嬉しさや感謝を伝える言葉で、」
小夜自身も考え込む。どんな言い方なら伝わるだろう。その様子を観察して、少年は尋ねた。
「さよは、よろこんでいるってこと?」
「え、うん。喜んでる……?」
「そう」
少年は花がほころぶように笑った。
嬉しそうなその笑顔が、なぜだか小夜を悲しくさせた。