04. 迷子たち
小夜がこれは夢だと判断できたのは、幾度かの経験があってのことだった。
視界に映るのは、すり鉢を持つ女性の手。短く揃えた爪に、土汚れが染み込んだ黒い指先は、畑仕事をする人の手だ。
小夜は今〝彼女〟になっていた。
独特の青臭い匂いがする。彼女はあらゆる植物を置いた部屋で、薬草の調合をするところだ。怪我をした村の老人のために、薬を作ってあげたかった。たとえ、魔女と呼ばれ忌避されているとしても。
干し草の入った壺を開けるも、必要な量がないと気付いて、彼女は師である老婆に外出を告げる。木の扉を開けると、調合部屋よりぐんと強い緑の匂いがした。
森の奥深いここは自然の恵みに溢れ、彼女の心も穏やかで豊かだった。近付く実りの季節に思いを馳せ、予定を組みながら鼻歌を歌う。聴き覚えのある、あの歌だった。
薬草の群生地に着いた彼女は、それらを持ち帰ろうとして、ぐらりと足元が揺れる。「ひゃあ」とちいさく悲鳴をあげながら、身体は地面に落ちていく。
倒れていく中で見上げた空はよく晴れ渡り、青空に赤い髪が広がった。
場面が、変わる。
まるこい指がペンを握り、文字を書き取っている。今度は、幼い少女。
甲高い声に窓の向こうを見ると、同じ年くらいの子たちが遊んでいるのが見えた。ついつい眺めてしまっただけなのに、先生に怒られて、面白くない気分になる。
水。りんご。森。おおかみ。扉。
お手本通りに文字を引く。これから〝アルス〟の言葉を全部書き取らなきゃいけないのかな? そう考えるととても憂鬱で、退屈である。
将来のためだ。仕方がないと少女も幼いなりに理解している。でも少女だって冒険ごっこがしたい。せっかくお屋敷を抜け出しても、男の子たちは仲間に入れてくれなかった。おじょーさまだから。ドレスを汚しでもしたら、弁償しなきゃいけないから。レースもお人形も大好きだった。でも少女は、冒険ごっこがしたかったのだ。
あーあ。
お外に出て、冒険がしたいなあ。
「……う……うぅ……」
頭が痛い。
小夜は瞼を開けるより、まずは眉根を寄せた。意識が浮上していく中で、見ていた〝夢〟との、奇妙な出逢いと別れを繰り返すのも、何度目になるだろう。
今しがた小夜は、薬剤師の女性であったし、裕福な屋敷の少女だった。部屋を占める草花の香りも、ちいさな指でペンを握り、紙に綴る手触りも知っている。確かな経験を、小夜は得ていた。
「……ん? ――ひぇっ!?」
不明瞭なまま瞼を開き、焦点が合う。白いすべすべ肌に、降りた睫毛が影を作っている。人の顔だ。
鼻先がくっつきそうな位置に誰かがいて、小夜は仰反る。
少年だった。
びっくりした心臓を押さえて、元凶を恨めしく見遣る。実に健やかな寝顔だ。小夜は溜息をついた。
――……眠ってしまった……うう、身体がばきばきする
がっくりと肩を落とすも、休息を取れたことで気持ちはすこしばかり軽い。獣に囲まれていなくて何よりだが、油断してしまったことは反省する。
「……おはよう」
あくびと共に覚醒した少年に、小夜が声を掛けるも、少年は首を傾げる。
「おはよ?」
「起きた時の挨拶だよ」
「おはよ。さよおはよ?」
「おはよう……」
新しい言葉を憶えてご機嫌な少年に、小夜は気が抜けてしまう前に立ち上がった。
◆
「川とか、水のあるところを見なかった?」
休憩をとりつつ尋ねるも、少年は首を傾げる。だよなあと小夜は諦めた。
二人行動になってから、小夜は休憩を適度にするように心掛けた。その方が心身共にも良いのだと気付けたのは、冷静さを思い出させてくれたのは、少年に他ならない。
「みずが、いるの?」
「そうだね……お茶もなくなってしまうから」
そして残りを気にせず、遠慮なく喉を潤したいものだと小夜は思う。あまりお茶を飲みたがらない少年の体調も気掛かりだ。
「こっち」
少年は右手に逸れると、そのまま迷いなく直進して行く。驚きつつも、小夜は後を追いかけた。
当然整備などされていない。かといって獣道にもなっていないほど草木が密集し、段差の多いルートだ。
身軽な少年は難なくそれらを越え、時に小夜に手を貸す余裕もあり、小夜は子供の体力ってすげーと思った。
「……すごい」
実際に口にも出た。少年の誘導した先には、大きな川があったからだ。
残念ながら魚の影はなかったが、流れる水は澄んでおり、飲むことができそうに見える。
「すごいよ! よく見つけてくれたね!」
小夜が目を輝かせて礼を述べると、少年は褒められたのが嬉しいらしく、にこにことご機嫌である。
「でもどうやったの。川を見なかったんだよね?」
「においとか、おととか、かんたん」
「ええ?」
聴こえなかった。絶対これっぽちも聴こえなかった。
少年の特技に感心と疑問を持ちつつも、小夜は喉と水筒を潤した。お腹を壊さないか少々気になるが、たっぷりと水を補給して生き返った心地がする。
スマートフォンを見ると十二時を過ぎ、昼食も摂りたく思う。充電は四十三パーセント。
「ここを中心にご飯を探そうか。木の実とか……食べられるといいんだけど」
キノコよりは安全だろうと判断し、少年と離れないよう注意しながら手分けして探す。
思うように見つからず、何度目かの溜息をついたところで、視界の隅に動くものを捉えた。
――うさぎ、なのかな? ……
毛足の長い、うさぎとモルモットの間のような生き物がいた。
爪や牙などの鋭利な武器もなく、ひょこひょこと跳ねる丸みのあるフォルムは、今まで見た獣よりも大人しそうな姿だ。
ちらりと、小夜は少年の姿を確認する。
――……これから先、食べ物があるとは限らない。それに二人分の食事が必要で……
緊張で、鼓動が早くなるのを小夜は感じていた。
「……」
小夜はそっと学生鞄を空にすると、近くにあったやや尖った石を握り締める。
鞄の口を広げて慎重に近付く。走ってもいないのに呼吸が浅く、荒くなっていき、膜を張ったように聴覚がぎゅっと狭くなる感覚がした。
「っく!」
もう少し、というところで、気付いたうさぎが逃げようとする。小夜は一か八かで飛び掛かった。うさぎを鞄の中に収め、逃れないように抑え込む。
胸の中でうさぎが暴れている。ファスナーを素早く閉め、膝でうさぎを押さえつける。
呼吸が乱れる。小夜は石を握る冷たい手を、振り下ろした。
◆
「さよ?」
少年は学生鞄の前で項垂れる小夜に、声を掛けた。
「なんでもない。川まで戻ろうか」
鞄を持ち上げ、小夜は歩く。
教科書やペンケースを拾っていると、少年も真似して拾ってくれたので頭を撫でてあげた。素直に喜びが顔に出る少年に、気持ちがすこし浮上できた。
「枝とか、木の葉を集めてくれるかな。できるだけ乾いたの。あんまり遠くに行き過ぎたらだめだよ」
川に戻ったところで少年にお願いすると、素直に頷いて探しに行ってくれる。小夜は深呼吸をして、鞄を開いた。
震える手を合わせ、覚悟を決める。
カエルの解剖を思い出しながらカッターと鋏を手に、皮を剥いでいく。うろ覚えの血抜きをして、内容物を傷付けないよう刃を通すも、鼻をつく鉄臭さに具合が悪くなる。
「なにしてるの」
少年が戻って来てしまう。
戻る前に終わらせておきたかったと、小夜は歯噛みした。
「……ご飯を用意してる。向こうに行ってていいよ」
しかし抱えた木材を置くと、少年は当たり前に寄って来て小夜の手元を観察した。
――やり辛い……
どことなく、少年の目が光っているように見えて、己の精神状態は余程らしいと小夜は嘆息する。
気にしても作業が進まないと、内臓を取り除こうとして、手首を掴まれる。
「なに」
「ち」
「うん、捌いているから汚いよ……それに、痛い、離して」
手首に力が加わっていく。少年は聴こえていないように、そのまま赤く濡れた手を引き寄せると、ぺろりと舐めた。
「なっ、」
驚いて振り払うも、少年はきょとんと小夜を見つめる。
「汚いでしょ、口ゆすいでおいで」
「どうして」
「だって、血だよ? お腹壊したらどうするの」
そんなこともわからないのか、と若干呆れとも怒りともつかずに小夜が告げると、少年は一度考えるように俯いた。
「やめなさい」
しかし、尚も小夜の手に両手を伸ばそうとするので、少し強めに制する。
初めて少年は不満そうな顔を見せて、小夜から距離を置くのだった。
◆
「こんなことなら、ちゃんと観ておくんだったな……」
改めて火起こしを試みるも、そう簡単に火はついてくれない。
キャンプ経験のない小夜は、流し見したテレビの、曖昧な知識しか頼れるものがなかった。先を尖らせた木の枝を、うさぎの毛を混ぜた枯れ草の上で摩擦を加え、根気良く…
「……」
疲れているのだろう、少年は胎児のように丸くなり眠っている。
我が侭な面がありそうだが、すやすやと無邪気な寝顔に、小夜も緊張がほぐれるのを感じていた。焦っても、良い結果には繋がらない。
「あ……っ」
と叫びそうになるのを噛み殺し、枯れ草を両手で掬い、願いを吹き込む。か細く頼りない煙は、やがて確かな希望を示して、焚き火と呼べるものとなってくれた。
小夜は嬉々として解体したうさぎ肉を串に刺し、並べていく。ちゃんとしたご飯が食べられる! 場所が場所でなかったら踊りだしてしまいそうだ。
「……」
川で洗い流したといえ、手には鉄臭さが染み付いていた。肉が焼けるまでの間に、小夜は取り除いた内臓を土に埋めることにした。
――ありがとう。糧にさせてもらいます
土を被せて振り返ると、ちょうど少年も起きたところだった。
肉も脂がしたたり、食べ頃だろう。串を少年に渡し、もう一度感謝してから小夜は肉にかぶりついた。
塩も胡椒も、調味料は何もない。それでもふっくらと柔らかい、旨味の詰まった肉に、小夜は目の奥がじんと熱くなるのを感じた。
少年も肉を嗅いだり舐めたりと訝しんでいたが、小夜の食い付きにもそもそと食べ始める。これといった感想はなさそうだ。小夜は気にせず肉を頬張った。