02. 出逢い
頭が重たい。いや、腕も脚もお腹も、全身どこもかしこも岩になった気持ちだ。
「……う……っ」
小夜が瞼を開くと、がっかりするほど代わり映えしない、霧深く陰鬱な景色があった。
「あれ、私……どうしたんだっけ……」
上体を起こしながら、記憶を手繰る。不気味な森を彷徨ううちに、再び猛獣に襲われそうになって、それで足を滑らせて――…
おぼろげな記憶が鮮明になっていき、小夜はゾッと我が身を確認した。幸い、擦り傷や捻挫はみられず、学生鞄も隣にある。
しかし数メートル先も不明瞭な視界の中、突然足場を失う恐怖を思い出し、震える身体を抱く。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
恐ろしさが紛れることはないが、それでも自分に言い聞かせ、立ち上がる。大丈夫。妹は無事だ。大丈夫。こんな場所だって、早く抜け出せる。
「……」
意識が落ちる間際、誰かに支えて貰った気がした。けれど、孤独の見せた都合のいい幻だった。淋しさに支配されないように、頭を振る。
スマートフォンを見ると十三時を過ぎていて、空腹も納得だった。充電は九十一パーセント。
鞄を開くと懐かしさすら憶える、花柄の弁当包みに手が伸びそうになったが、小夜はレモン味の飴をひとつ手に取った。
保冷剤がまだ入っている。環境は暑くもない。まだ傷むことはないだろう。口に入れた飴はとても甘ったるく、おいしかった。
◆
その後も小夜は散々であった。
歩いていたら、ぐんにゃりと異物を踏んだ。噴きあがった花粉か何かに、しばらくくしゃみと鼻水が止まらなくて最悪であった。
そしてその音のせいか寄ってきた巨大トカゲと鬼ごっこ。最悪であった。陸上部で良かった。
――なんなんだここは!!
小夜は目一杯喚き散らし、地団駄を踏む。心の中で。また何か寄って来ても嫌なので仕方がない。
そもそも、あの生き物。
頭にラフレシアの咲いた愉快なトカゲは見たことがない。狼だってそうだ。大きな二本の牙が剣のように伸びていた。
あれで噛まれていたら。穴の空いた鞄を見て、小夜は背筋が寒くなった。
――……もう暗くなる…響、泣いてないといいな
夜の近付く森は、一層と視界が狭まっていく。
歩き通しでへとへとだし、明日のためにも休みたい。けれど眠るのは恐ろしくて、小夜は周囲の背の高い木々を見上げた。
「……っくう、」
足を掛ける部分も少なく、木登りだってまともにしたことがない。
それでも地上にいるよりはマシな気がして、小夜は木に必死にしがみつき、なんとか腰を下ろせそうな位置まで登ることに成功する。枝は太く、折れる心配もなさそうだ。どれほど高い木なのだろう。霧の影響もあって、頂点は見えない。
一度地上に戻って、擦り剥いた手足を労わりながら小夜は弁当箱を取り出した。
昼に食べるはずだった、母の作ってくれたお弁当には、唐揚げやポテトサラダや玉子焼きといったおかずに、ふりかけを混ぜたご飯、デザートにオレンジと林檎が入っていた。
「……いただきます」
手を合わせ終え、玉子焼きを食べると甘じょっぱい出汁がじわりと広がる。その味は食べ慣れているはずなのに、ずいぶんと遠い昔のことのようで泣きたくなった。
心に刻むように噛み締めて、空になった弁当箱にもう一度手を合わせて「ごちそうさま」と小夜は呟いた。
――お母さんとお父さんは、まだ仕事中かな……心配掛ける、だろうな。
家で待っている愛犬と、自分がいないことに気付いた両親を想像する。胸がちくりとした。
どうか響までここに迷い込んでいないことを願う。
森は膨大な影になっていく。
スマートフォンとヘアスプレーと、ペンケースから気休めに鋏を持って、小夜は木に登った。
風が葉を揺らす度、どこかで何かの声がする度、小夜の肩は震えた。
月灯りも届かない森は黒一色だった。万が一にでも、足元に獣の群れが口を開けていようとも気付けない。見られているような気配だけはするのに。
どこまでも広がる闇は、小夜の心も蝕もうとする。孤独と不安に気が狂いそうだった。
スマートフォンの明るさが、小夜にとって安らぎの光である。
写真フォルダには、何の変哲もない小夜の日常がそこにあった。家族と、友達と、ありふれた何でもない日々を生きたい。
気付けば充電が六十パーセントを切っていて、小夜は慌てて電源を落とす。
また暗闇との戦いが始まってしまった。
「……――――」
祈るように密やかに、小夜は名前も知らない歌を口遊む。
夢の中で聴いたその歌を、どうして今思い出すのだろう。
◆
夜明けと共に、小夜は恐るおそる木から降りた。
真っ暗闇から少しずつ森の輪郭が分かり始める、この安堵と長い夜の恐怖を、小夜は忘れられないと思った。
森を歩きながらキノコや木の実を見つけたが、どれも見たことがなく、食べられるかわからず断念した。
だって黒色に黄色い液体滴るキノコや、ショッキングピンクと蛍光グリーンのしましま模様のキノコなんて、見た目からショッキング過ぎる。余計な危険信号を疲れた脳に回させないでほしい。
――響……
水筒のお茶も半分以上飲んでしまっている。川がないだろうか、と焦りが小夜の喉の渇きを加速させた。
飴を舐め、時折変な化け物に追いかけられながら、また陽が落ちて行く。
「い…ぶ……だい、じょ……」
大丈夫なわけが、ないのだ。休むことなく動かし続けた足は限界なんてとっくに超えて、ついに小夜はその場に倒れた。
――だめだ、せめて安全そうな場所を、見つけないと
安全。襲い掛かる獣がいる場所に、安全なんてあるものか。
小夜は土を掻いて起き上がろうとするが、身体がずっしりと重たい。できればこのまま眠ってしまいたかったが、次に目醒めることができるのか。
「しぬの?」
――嫌だ。こんなわけのわからない場所で、死ぬなんて、嫌だ
「しんだの?」
――勝手に殺すなよ……
ハッとする。
誰の声だ。
閉じかけた瞼をこじ開けると、小夜を覗き込むビー玉みたいな蒼海色があった。
その生き物は鱗もなくラフレシアも咲いてない。みっちりした毛皮もなく、ぬめってもいない柔らかそうな肌をしていた。
「に、人間だあっ」
睡魔も疲労も吹っ飛ばす勢いで、小夜は起き上がる。
この森で見た初めての人類は、小夜の孤独をたまらなく希望に塗り替えてくれた。後光の幻覚すら見える。疲れまでは取れていない。
「ああ、でも、どうしたの? ひとり? お父さんかお母さんは?」
人類に逃げられては困るので、小夜は何とか興奮を抑えた。異様に長い黒髪の少女、いや少年かもしれない人物は、まだ十歳前後の子供だ。こんな珍獣の森を歩くなんてとんでもない。
子供もまた、小夜をじっと観察するように見つめて、やがて首を傾げる。
――……ん? どうしよう、言葉が通じないのかな。日本人の顔じゃないし……あれ、でもさっき普通に話し掛けて来たのは
はて、と小夜の頭も冷静になって来た頃、子供は口を開いた。
「おとうさんかおかあさん、なあに?」
陽射しを一度も浴びたことがないような、その真白で細い首には、重厚な金属の枷が嵌められている。
かちり、とそれに繋がった時計の針が、動いた気がした。