01. 目醒め
不思議な歌声に導かれるようにして、時々ファンタジーな夢を見る。
お伽噺みたいな石造りの街並みに、吟遊詩人の弾き語りや、わいわいとお酒を飲み交わす人達の賑やかな声が響く。魔法使いやドラゴンが出て来て、それと戦う場面なんかも。
結構よくできた内容なので、目が醒めると映画を観た後の気分だった。
ああ、もうちょっと観たかったのになんて、朝がくることを惜しむ日もあった。こんな世界に遊びに行けたらなんて思ったことも、ないとは言わない。いや、認めよう。ある。
だからって、
「来るなああぁああ!!」
こんなよくわからない森の中、頭に花が咲いた巨大トカゲとのおにごっこなんて、嫌だ。
◆
日本時間、午前六時三十一分。
生温かいものが顔を撫でる感触で、少女は目を醒ました。
「うぅー……おはようメロ……わかった、わかった起きるから顔舐めないで」
自分を見つめるつぶらな瞳に苦笑して、少女は頭を撫でてやる。
起きたの!起きたのね!とでも言わんばかりに、ゴールデンレトリーバーが前足だけでぴょこぴょこ喜びを表し、どこかに飛んでいきそうなほどしっぽを振った。
「おはようーいってらっしゃーい……」
「おはよう。小夜、寝癖すごいから直す前に鏡見といで。いってきます」
ちょうど玄関を出る父親と鉢合わせ、小夜は寝惚け眼をこすりながらその背中を見送る。
「小夜、お母さんも今日は早く出るから。帰りはいつも通り」
「はーいいってらっしゃーい」
確かにもう化粧を終えている母に、うんうんと頷き小夜は手を振った。
台所からまだ湯気の昇る味噌汁をよそいながら、髪を切ろうかと小夜は考える。鏡に映った芸術的な髪型に、顔を洗う前にまず櫛を手にしたのは言うまでもなく。
白米を盛ってテーブルに着き、きんぴらごぼうと焼き鮭の皿を寄せて、小夜は手を合わせた。
「おはよー響」
「……おはよう」
情報番組を眺めながコリコリと朝食を食べていると、小夜の妹が起きて来た。しかし響はリビングの入り口で足を止め、小夜を見つめたまま一向に動く様子がない。
「響?」
小夜が声を掛けると、ようやく響はキッチンへ向かって食事の準備を始めた。
まさか〝視えた〟んじゃないだろうな、と小夜は周囲を見渡してみるも、何も確認できなかった。
「忘れもーのーはー……よしよしないね」
いつも通り食器を洗い、部屋に戻って制服へと着替え終える頃には、聴き慣れたアラームが鳴る。バスの時刻を告げるものだ。小夜はスマートフォンをポケットに入れて、学生鞄を肩に掛けた。
「お姉ちゃん、いっしょに出る」
「ん? いいよ。早いね」
「……日直だから」
ランドセルを背負って、響は小夜の手を取る。その面持ちに緊張の色を見て、小夜は眉根を寄せた。
「響、なんか変。また視えてるの」
「違う。違うんだけど……」
響は弱々しくかぶりを振る。幼い頃からオバケや奇妙な光景といった〝目に見えないもの〟が視えるらしい響は、そのせいかとても臆病で心配性だった。
小夜は、何度己の有り余る元気を分けてやりたいと思ったかわからない。
「お姉ちゃんが、いなくなりそうで……」
「私が? まっさかあ」
笑い飛ばしても響の表情は暗い。
そんな妹に、小夜は「心配してくれてありがと」と頭を撫でてやる。響はそれにほんの少しだけはにかんでみせた。
「いってきます。いいこにしてなよ」
玄関でメロの背も撫で、響と手を繋いだ小夜は扉を開けた。
引き止めるように、ちいさな手に力が込められる。
その感覚が、遠くなる。
――クライ クライ ココハクライ
ヒトリ ヒトリ ココニヒトリ――
光の中で、誰かの声を聴いた。
さびしそうなその声に小夜は応える。
「あなたは――――…、」
眩しい光は朝陽のせいだったか、それももう曖昧だ。
◆
身体がひどくだるく、瞼が重たい。
いつの間に眠ってしまったのだろうか。
「乗り過ごしたっ!?」
小夜はバネ仕掛けのように飛び起きる。そして見開いた瞳が、ありえない状況を描き出した。
深い霧と木の葉の作る影は薄暗く、しっとりとした緑と土の匂いに、キロキロと奇怪なさえずり。
「どこ、ここ」
誰に問うでもなく、小夜はわなないた。長い髪が木の葉を引っ掛けたことにも気付かず、ほとんど無意識にポケットからスマートフォンを取り出す。
圏外の表示に、いよいよ絶望的な気分が胸を侵食し始める。時間はそう経っていないようで、九時四十一分を示す数字。九十七パーセントの充電が、自分の命のタイムリミットのようにすら思えた。
ぎゃあ、と遠くで何かが啼いた。
鳥か獣の声かはわからない。ただこんな森の中だ、野生動物くらいいてもおかしくない。
「……響? 響、響いるっ!?」
そう気付いて、小夜は声を張り上げた。最後の記憶は妹と玄関を出る瞬間。まさかこんな場所に子供が彷徨っていたらなんて、考えたくもない。
怖気に歯を食い縛り、学生鞄とスマートフォンを握り締めて小夜は歩き出す。
どこまで続くのだろう。
太陽の位置もわからず、闇雲に動くのは危険なのかもしれないと、理解している。けれどじっとしているのも恐ろしい。
「響ー! いたら返事して! 響ーっ!!」
喉の渇きを覚えながら、小夜は叫ぶ。
不安と心細さに神経がどうしても尖る。ずっと何かに狙われている錯覚さえしてしまう。
小夜は鞄から水筒を取り出す。一リットル分のお茶が全てだ。限りある命綱を慎重に口にすると、少しだけ元気になれた気がした。
他に入っているものといえば、学生証に教科書類と筆記用具、タオル、手鏡と櫛とヘアスプレー、簡易ソーイングセットに飴が五つとお弁当。
「……ん?」
鞄を漁りつつ、垂れ落ちた髪を耳に掛ける。
違和感に背中に冷たいものが落ちた。おそるおそる一房掴んだ髪は、ルビーのように煌めいた。
「なにこれ……」
慌てて手鏡を開くと、そこに映ったのは真紅の髪をした小夜の姿だ。指で擦ってみても落ちることはない。
ぐるるる――――…
獣の呻り声に、凍りつく。近かった。
咄嗟にヘアスプレーを握り、小夜が走り出そうとするより、しかし獣が飛び出す方が早かった。
「うあぁあああっ!!」
飛び掛かって来た狼に背中から倒れこむ。打ち付けた身体に噎せつつも、恐ろしい爪は鞄でなんとか防ぐことができた。
ヘアスプレーを狼目掛けて噴射すると、狼は怯んで頭を振る。素早く片足を引き、思い切り腹を蹴り上げると引き剥がすことに成功した。
そのまま振り返ることなく、小夜は一目散に駆け出す。
陸上で磨かれた清く正しいフォームは、最善の動きで、無駄なく筋肉を働かせた。これ以上ないくらいに心臓は暴れていたが、人体はしっかりと生きるために機能するものだと小夜は知った。人間ってすごいんだなあ。