七話
王城内、その最奥。王座の間にあったものは大きな姿鏡だった。
あるべきはずの玉座はなく、ただ鏡がぽつんとあるばかり。臣下や兵の姿はない。その中で一人、鏡の傍らに立つ人影がある。
がらんと大きく開かれた天井の穴から細かな瓦礫が落ちてくる。それを煩わしげに尾で払って、ズヤウが中へと入り込んだ。大きな龍の体であってもすっぽり入りきるくらいには広々とした部屋であった。
天から差す光のおかげで、暗がりにいる人影は黒く塗りつぶされたように見える。着ているローブがまるでドレスの裾のように床に広がり、まとめてすらいない長い髪が体の線を流れているために、暗さもあいまって性も年齢もわからない。
だが、誰かはわかっていた。
声に出して名前を呼ぼうとして、過去にあった小箱の記憶がちらついたが振り切って呼ぶ。
「アサテラ兄上」
かぶりを振って言い直す。
「アサテラ・エデイータ・ミクノニス」
ミレイスの声に、体をゆらりゆらりと揺らして人影ことアサテラは数歩前に出た。
「――ああ、使いが現れるとは……」
その顔は、美しい女の顔をしていた。
夢のなかで、キサと言いながら歌っていた女の顔だ。熟れてしたたり落ちる花の実のような美貌が、笑みの形へと表情を変化させる途中で止まった。
徐々にその麗しの顔貌は様相を崩す。針の縫合痕、引き攣れ、そして、不揃いな顔の部位。違う人物からその部位を奪って取り替えたかのような顔は、繕った最初こそは美しく整えられていたのだろうが、時間が経過して落花したかのように崩れていた。その有様は、お世辞にも美しいとはいえない。
急な変化は、ズヤウがアサテラを見たことからだった。ズヤウの瞳が、アサテラが行使していた魔法を打ち消したのだ。
魔法でもって、美貌を保っていたに違いない。
現に違和感に気づいたアサテラは顔に手を当てて立ち止まり呻きだした。縫合痕を細い指先で神経質になぞり、震え、縮こまる。
「あ……っ。私の、キサが、わたくしが」
ミレイスの記憶でも、イマチやコンハラナたち弟妹の話でも美に執着していた男の結果がこのざまだった。
強大な敵だと思っていた。
揺るぎない悪であり、強者であり、高い障害になるだろうと。
だが、そうではない。「キサ、私の、美しいキサ」と呟いている姿は、どう見ても衰弱しきったものだった。
よほど、アサテラにとって大事なことだったのだろう。ミレイスには、理解しきれないことだった。
(……この人が)
ちっぽけだった。
大きく、ひどく安心感のある龍の掌にいるミレイスにとって、ひどく小さく見えた。かつての思い出、恐ろしい実験者としての兄の姿とは真逆の姿だった。
「ズヤウ、下ろして」
「ミレイス、だが」
「大丈夫ですから」
渋った声のズヤウの大きな爪をそっと撫でて、自身を水に変えて滑り抜ける。ズヤウの目の下にいさえしなければ、魔法を放つ自由はきくのだ。
磨かれた石の床に着地すると、顔を抑えていたアサテラがこちらを見た。
「お前は、ああ、そうか……魔力の塊だ。早く糧を……父よ! あなたのキサを助けるのです! 我らが父よ!」
そして叫ぶ。
アサテラの叫びに呼応して、王座の間にあるカーペットの下から、壁に飾られたタペストリーや垂れ布、絵画、様々な隙間から青黒い液体がしみ出した。
磨かれた石の床から、コツ、コツと間隔を置きながら音が響いた。次いで、ずるずると引きずる音。濡れて滴り落ちる音。
形成されていく形――それは、微笑みを浮かべた年若い青年だった。
遠目から見た上半身だけは、そうだった。
腰から下は、融解が起きたみたいに衣服と肉が混ざり溶け、脛の辺りから露出した骨らしきものを頼りに歩みを進めている。
前へと歩く度にまとわりつく肉と黒い泥のような塊がついて行き、床を汚していた。
顔の中心には切り傷が縦に大きくはしっている。生前は精悍な若者らしい凜々しい顔が、真っ二つに縦に別れたような痕だ。額の生え際から首の下まで続く傷跡は、おそらく衣服の下にもまだまだ続いているのだろうと思わせた。
それに向かって、「父」と呼んだアサテラは声を甲高くして命令した。
「あなたに若い体を与えた恩を返すのです。駄目になってしまう前に。早く!」
「キサ……? き、さ。ぎさぁ、キサ」
喉が不自然に蠢きながら発せられた声は、二重に割れて明瞭さとは程遠い。
「父? 若い体を、与えた? あなたは、何を」
ミレイスが呟けば、柔和な若者の顔がこちらを向く。表情がそれだけしかないような、一切変わらない微笑みでミレイスを見て、言う。
「キサ、キサ」
まるでミレイスに向かって呼びかけるように鳴いて、またコツコツと音を鳴らして膝から下を這いずらせ進んでくる。
直後、床に亀裂が刻まれた。ミレイスの前方に近づけさせない意図を持った亀裂だ。
「先ほどから、誰とも知らない名前でミレイスを呼ぶな。不快だ」
影が動く。ズヤウは鎌首をもたげて腕をふりかぶった。鋭利な爪が光りに反射する。
「煩わせた対価だ。受け取れ」
王座の間が派手に切り崩れた。
天井どころではなく、壁も床も断面を覗かせて風が吹き抜ける。
父と呼ばれていた魔物は、液体が詰まった皮が弾けたみたいに散ってしまった。あたりに青黒い液体は飛び散り、またゆっくりと集まっていく。形を成そうとしたところでよほどの損害だったのだろう、ぐずぐずと粘性の固形物に変わって蠢いて留まっている。
アサテラはそれを呆然と眺めて、やがてハッとしたように魔物の傍に走っていった。情によるものかと思ってミレイスが水の魔法で流そうとする手を止めていると、様子は変わった。
それを口に含んだのだ。
なりふり構わぬ姿は、狂気じみていた。顔に、首に、体に液体を散らせながら飲み込んでいくアサテラは、また姿が変化した。
「ああ……! ようやく、やっと。やっと!」
そう言いながら夢中で浴びるように魔物を飲み込むアサテラの姿は、傷ひとつない女の顔に変わった。
退廃的な色香の、病的なまでの怪しい美女の顔。ミレイスの顔とも似ているが、生気とは程遠い顔色の暗い顔だった。
ズヤウの視線に充てられても、再び傷跡だらけの姿に戻ることはない。それで定着したのだといわんばかりに表情も動く。
「わたしがあなたになる。あなたにわたしはなる。」
おもむろに左手を掲げて口づける。口づけた先には、見覚えのある木製の指輪があった。
(あれ、は)
ミレイスが持っていた指輪とうり二つの指輪だ。側面に文字が彫り込まれた、素朴な指輪。それを左の親指に嵌めて、大事そうに頬ずり口づけを繰り返し、アサテラが歌うように言った。
「キサ、わたしのキサ。私の美しいあなた」
(この人は、私の中にいた人だ)
そう思った。そして、それは間違いではないと気づいた。
同じ言葉、同じ抑揚、同じ動作。
ミレイスは知れず、胸に手を当てて身構えた。だが、アサテラはひどく満足そうな、憂いの一つもなさそうに指輪を抱いて呟いているままだ。
一歩、踏み出してみる。それでもアサテラは見向きもしない。
「ミレイス」
かわりに心配そうに呼ばれたが、振り向いて、夜明け色の瞳を持つ龍を見返した。
「すこしだけ、お話をさせて」
また一歩近づく。亀裂を隔てて、対峙する。
「このように言葉を交わすことは、初めてでしょうか」
そうして、ミレイスは声を掛けた。ゆっくりとアサテラが、女の顔がこちらを向いた。夢と同じように、退廃的な美しさの女が唇だけをつり上げて笑う。
「ええ、そうでしょう。キサの娘」
「私を、覚えておいででしょうか」
「お前には期待をしていました。ですが、キサにはなれなかったようで、残念です」
「なぜ……」
言葉が詰まった。
なぜ、自分があのような目に。どうして、そんなことを。
遠い記憶の自分が嘆いて、諦めた姿がよぎる。
風化しかけた感情の欠片が、ミレイスの心に吹き荒れて、そして静まる。もう、あの頃の自分ではないのだ。ミレイスは頭を振って激情を流して、とばした。
「一番、近しい故に、一番疎ましかった。成長するお前の顔を見る度に、落胆を覚えました。似ているのに、お前は違った」
「それは、私の母のことですか」
「私はお前のことを憎くはありませんでした。嫌いでもありませんでした。ただ、お前は私の求める美しさにはなれなかった。それだけです」
「あなたは、なれたのですか」
アサテラは苦笑した。出来の悪い子どもに言って聞かせるような表情だった。
「多くの犠牲の上に。彼女を見いだして、彼女を追い求めて、結果を残せた。そう言う以外に何が?」
「愚かなことを成したと思わないのですか」
「お前は口を開くと聞くばかり。やはりあのとき舌を切っておけばよかった。――愚かは我らが父とその血を受け継ぐ我ら。あの美しい人を殺して、のさばり、生きながらえようとしたのだから。父母も、兄弟も、臣下も、民も、彼女の美しさを貶めた者は、すべて幸せにしてはいけない。私は、私だけは……滅びは等しくあたえなければ」
「あなたは」
私の母を、愛していたのですか。
喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。
ただミレイスの言いたいことを察したのだろうか。アサテラは歪に微笑んだ。
「あとは……」
浮かんだ表情は期待だろうか。がらんどうとなった部屋から上空をアサテラは見上げた。
何かを待っている。
ミレイスも視線をあげる。耳が羽ばたきの音を拾う。それから、嘶き。
小さな影がこちらに向かって一目散に飛んできた。そして開いた天井の穴からさらなる闖入者が現れた。




