一話
今回の章では、残酷な描写やグロテスクな表現などが予告なく登場することがございます。苦手な方は御自衛くださいませ。
水の国北西部の冬は厳しい。
厳冬に耐えるための準備は山ほどある。そう言っているのを漏れ聞いて、そうか、冬なのかと知った。
ほう、と息を吐けば白いモヤが出る。
なるほど、寒いからか。一人納得して、白い息を吐いて遊ぶ。
何もない部屋で、暇つぶしになる行動はほとんどない。眠ったり、指で遊んでみたり、無駄に手足を動かしたり。
それだけだ。
大きな声を出したり、走り回ったり、暴れたりはしてはいけない。そういうものだからだ。
少女が教えられてきた知識や常識のなかでは、そうだった。
少女には名前がない。生まれたときから、何もなかった。母は少女を産んですぐに儚くなったと聞かされた。
父は少女の身分では会うことのできない御方だが、少女が頑張ればいつか会えると言い聞かされて育った。
狭い世界で時折、少女より立派な体格の人物が数人で訪れてあれこれ聞いたり話したりする。この時に、自分から親しく話したり質問をしてはいけない。そういうものだからだ。
とくに、一際豪華で身なりの良い男が来たら物音を立てずに従順にすること。
そうでないと痛い思いをするのだ。おそらく美しいと形容するに値する男なのだろう。いつも男と共に来る者たちがそう褒めそやすのだから。
元の肌の色もわからないくらいの面を被ったような化粧を施した男だった。腰元まで伸ばして編んだ髪の色は少女と同じ暗い藍色。だから余計に肌の白さが際立って浮き出たように見えたものだった。
名前は知らない。
どういう立場かは、以前ほんの少しの情報をもらったことがある。
男は少女と恐れ多くも血のつながりがあると聞いたが、それを少女に教えた教師は翌日姿が見えなくなっていた。次に男が来たときに小箱を持ってきて悪いことを覚えてはいけない。悪いことを言った舌は仕舞っておく、と中を開いて見せてくれた。
中には、肉の塊が入っていた。
叫び声は上げなかった。上げたら同じ目に合うからだ。
男が少女によく語ってくれたのは、美しくあること、美しくあらねばならないことだった。男の美意識によって、少女は生かされ躾けられていた。
白い部屋の中で、あの肉の塊と同じように、静かに仕舞われて少女は過ごした。
美しさを保つため、若くあるため、理想を叶えるため。王もお望みだから。
恐ろしいもさびしいも、そんな考えは抱かなかった。そう思わないように、学ばないように育てられたからだ。
――魔力を使うと、より美しく若くなれるらしい。
いつからかそんな噂がされるようになった。
今より昔の物語。歴史というよりおとぎ話に近い、たわいもない話。
人が大いなる力を抱くという伝説。だが、本当にあったのだ。これなら、あるいは。
そう興奮しながら少女に語った男は、一緒に連れてきた白衣の男女に命令をした。
――この子は礎になるのだ。偉大な我らが父、そして永遠の美しさのために。
暖かな食事は、魔力を溶かしたというどろどろの液体へ。受け付けなくて吐き出せば、這ってでも食べさせられた。飢えは許されなかった。少女の外見を損なえば、理不尽な叱責が少女の世話係に浴びせられた。
彼女と似た面影を害するなど、赦されない。そう言って。
どこもかしこも、痛かった。息をするのさえも、歩くのさえも。すべてが痛くて、苦しくて、いっそのこと溶けて消えてしまいたかった。
また、ほう、と息を吐く。
気を紛らわせる行動ひとつ、困ってしまう。ぼんやりとベッドに横たわって目を閉じる。
ただ、少女には一つ救いがあった。夢を見ることだ。
夢の中で、美しい女性が少女を見つけて遊んでくれた夢を、一度見たことがある。現実が夢でこちらが本当だと思いたいほど、楽しかった。
女性は優しく、穏やかで、時には強引に少女と話して、最後に指輪を渡してくれた。暇つぶしのお礼といってくれた木製の指輪は、かつて少女の母が女性の話し相手をしていたときにもらったものと言っていた。まだ小さな少女には大きなその指輪には、祈りがこめられているのだとも。
悪い人に取られないようにと、少女がつけた指輪を魔法で隠してみせてから、女性はおまじないの言葉を教えてくれた。
幸へ給へ。さきはへたまへ。
あなたに幸せが訪れますように。
辛いときにはこれを唱えなさい。あなたの手を取る者が、きっと現れるから。
そう言って、女性は頭を撫でて消えていった。その姿を見送った少女は、忘れなかった。
実験だと少女が連れられて、あの男へと美しさを映すのだと少女にはわからない施術をされたときも。魔力をもっと吸って美しく保てと強いられても。指先が動かなくなっても、意識が遠のくまでずっと。おまじないを唱えて耐えた。
だが、少女が長続きする理由にこの言葉があると知られてからは、次第にその言葉は意味を変えていった。
幸せを祈る言葉が、魔力を吸い取る儀式の祈りに変わった。
ああ、違う。その言葉はそんなための言葉ではない。
しかし少女にはもう、抗議の声一つあげることができなかった。呻いて、声なき声を上げて力なく涙を流すばかりだった。
――もう駄目だな。体がもたない。
動かない少女の体が揺れる。蹴られたのだ。いつしか足が遠のいていた男が、冷たい顔で少女を見下ろしていた。
女のように美しく着飾っているが、表情は冷たく暖かみを感じない。
――これでは、美しいとは言えない。棄てろ。王には私が報告しよう。
――ばらして棄てましょうか。それとも使う部位がございますか。
――これでも高濃度の魔力を吸ってきた体だ。いつ崩れ始めるか、何があるかわからん。惜しいが……ここから離れた、あの湖にでも沈めておけ。撒き餌くらいにはなるだろう。
――拝命いたしました。すぐにでも。
――まだ、キサには程遠い。また、駄目だった。駒にもならぬ。残念だ。
そうして、少女は棄てられた。黄金の太陽が落ちる夕暮れの寒い日に。
水に入って、わずかにこぼれる息から気泡が水面へと上がる様子をただ眺めて沈んでいく。青々とした湖面が遠のいていく。
(わたし。私が、消えていく。)
脱力した、胴より軽い腕がわずかに上がっているのが見えた。
左手の親指に、指輪が見えた。
これが取り上げられなかったことだけは、よかったと思えば良いのだろうか。もう少女には何もわからなかった。
ただ、ぼんやりと、楽しかった一欠片の記憶を抱えて呟いた。言葉にできずとも、ただ、静かに眠るように頭の中で呟いた。
――幸へ給へ。
冷たい。寒い。それでも呟きながら落ちていく。
祈り、沈んで、あたりは暗くなる。伸ばした手がただ揺れていた。ゆるやかに外れていく指輪に手は届かない。
そのまま、ゆっくりと揺られて少女の世界が終わっていく。
(ああ。私はここで死んでしまった)
一人、打ち棄てられて、水の中で寂しく生を終えた。名前もない、年もわからないまま、伸ばした手が救われることはついになかった。
冬の水は思ったよりも温かい。冷たいあの白い部屋よりもずっと。包み込まれるような水が、代わりに掴んだものだった。
(暖かい?)
本当にそうだっただろうか。冷たい水だった。
感覚が麻痺して、何も感じなかったのではなかったか。ではなぜ、自分の手に温かさを感じるのだろう。
ぱちりと目が開いた。
そして、景色が一変した。
「ねえ貴女。起きているかしら?」
明るい日差し。柔らかな草木の匂い。賑やかな虫たちの音。青々とした草花に光る湖面。
色鮮やかに輝く世界で、女性の声がする。
「貴女を呼ぶ声が、聞こえているでしょう?」
呼ぶ声。
立ち上がり、辺りを見回した。風が吹いている。
髪が揺れて抑えれば、指先にふわりとした感触がした。何かが付いている。引っ張ってつまんでみると、簡単に外れた。それは、美しい翡翠色をした羽根の飾りだった。
これに見覚えがある。
羽根飾りはひとりでに飛び上がり、風に乗って飛んでいく。
あれは、大事な物ではなかったか。そう思って、足を踏み出そうとすると、羽根が飛んでいった先から声がした。
「やあやあ、美しいお嬢さん。ご機嫌いかがかな!」
朗々とした明るい男の声。溌剌と話す言葉に圧倒された。
ヒュウ、と吹く風は声と共に躍り、楽しい音楽を奏でているようだった。その風に押されるように歩き出す。
暗い水中が、木陰の道に。
木陰の道が、風が駆ける平野、教会、民家へと変わっていく。
最後に辿り着いたのは、一軒の家だった。開きっぱなしの入り口のドアをくぐり、中へ。そこがどこか、知っていた。
ついで、小鍋が揺れる音がする。手際よく調理をしているのだと、すぐわかった。
そうだ、手伝わなければ。
不意にそう思って駆け出す。
台所には、青年が立っていた。鈍色の髪を一つにまとめ、その短い尾が作業に合わせて揺れている。肌を隠すようにしっかりと着込んだ格好は後ろから見ても怪しい印象を与えるが、そんな人物ではないことをよく知っている。
青年がこちらに気づいたように振り向いた。知らず知らず、手を伸ばした。左手を前にすれば、金の腕輪がしゃらんと揺れる。
そして、手を取られ、名前を呼ばれた。あの、温かさの正体だ。そう思って握り返す。
「ミレイス」
は、と目が覚めた。




