十三話
顔は逆光だが険しいということはわかる。
「殿下! こんな時間まで抜け出して!」
雷のような怒鳴り声を放って、ズヤウの後ろに隠れたイマチへ向かって歩いてくる。
イマチの護衛だろう男、フロウリーだ。軽鎧ではなく本日は甲冑を身につけている。
昨日よりも物々しい格好になっているのは、イマチがいる場所と時間帯のせいでもあるのだろう。
思わずぐっと身を寄せる。おい、と小さく文句を言われた。しかしそれ以上は言われないことをいいことに、しがみついておく。
「よほど我らの首が飛んでも良いと思っておられる! ならばここで首を切ってみせましょうか!」
「ああ、いや、悪かった。謝るぞ、フロウリー卿」
「王族ともあろう御方が軽く頭を下げるんじゃありません! 殿下、いったい何をしてらしたんですか」
すごい剣幕で言いつのるフロウリーはイマチの前で跪いて両肩に手を置く。イマチは後ろを軽く見て、一度呼吸をして整えてから答えた。
「抵抗軍をな、雇ってみた」
「はあ!?」
「まあ、おいおい話そう。カイ」
「はい、どうぞ」
カイハンがイマチに書類を手渡す。先ほどサムエルとバーデンに書かせた契約書だ。
それを差し出されて受け取ったフロウリーは、カイハンとズヤウの背に乗るミレイスのほうを向いて、は、とした顔をした。
「おれが今日も巻き込んでしまってな。こちらのカイはおれの友で、こちらの男はこう見えて腕利きで護衛に雇ったのだ。背中に居るのは彼の細君で、昨日お前も合っただろう、ミレイス嬢だ。よろしく頼む」
「は、はあ?」
情報が追いついていないのか、書類を見てはイマチやズヤウたちを見てぽかんとしている。
「礼がわりに、彼らを館に招きたいところだが」
「……妻がこの状態ですので、一度家に戻らせていただく」
堂々と言い張るイマチに、ズヤウが断りを入れる。とんとんとしがみついている腕を優しく叩かれた。
「なあに?」
「これではまともに話もできませんので」
「ふむ。そのような状態の女性をそのままというわけにもいかないな。では明日、貴族街の門を叩くとよい。待っているぞ」
「は」
「フロウリー卿、おれは戻るぞ」
鷹揚に頷いて、イマチは一人で歩いていった。慌ててフロウリーがその背中を追いかけて、また怒りの声を上げている。
あっという間に去って行く姿を見送り、ズヤウもまた歩き始めた。
なるべく静かなほうに、足早に歩いていく。
歓楽街の喧噪から遠ざかりながら、景色の移り変わりや空を眺める。
季節は夏から秋へと変わり、すっかり日の暮れようも早くなってきたのかもう夜空が広がっている。一日良い天気だったのだろう、星が明るく瞬いて夜道を照らしている。そんな空に浮かぶ物もよく見えた。
夜でもひゅうひゅうと吹く風が空に浮かぶ凧を揺らしている。
夜中でも上げているのかとぼんやり思う。ゆらゆらと揺れる体はあやされているようで、穏やかな夜の景色とあいまって心を落ち着かせてくれる。
そうして空ばかり見ていたら、そのせいか、いつの間にかカイハンが姿を消していることもミレイスは気がつかなかった。
来た道とも異なる路地裏だ。
ひっそりとしていて、人気もおそらくない。しんと静かな中、時折街中を走る風やズヤウの足音がするばかり。
はじめにミレイスが気づいた違和感は音だった。
ずる、ずる。
聞き慣れない、なにかが這う音。それはまるで、わざと擦りつけながら路地を進んでいるかのようだ。水っぽくもあり、粘性をおびてあちこちに引っ付いているようにも聞こえる。ただ、次第にそれは近づいてくる。
「ズヤウ、何か」
「わかっている」
変だと思って声をかければ、すぐに返事がきた。声音は固い。
ずる、ず、ずる。
石畳を擦って進む音は近づいて、やがて姿を現した。
ミレイスの目には最初、暗闇が形を持って出てきたのかと思ったが、違う。
大きさは小型の動物くらいだろうか。だが形は定まっていないのか、動く度に奇妙に波打っている。
星明かりで見えた色は赤黒く、明らかに通常とは異なる物だとわかった。瞳は見えないが、こちらを視認でもできるのか、道を勢いよく滑るように向かってくる。
いくら今のミレイスでも異常だと察した。魔物だ。
ズヤウは片手でミレイスを支えたまま、空いているもう片手を振り抜いた。
空気を引っ掻く仕草をすれば、そのまま目の前の物体が千切れた。もう一度同じ動作をすればさらに細かくなった。空中でばらばらになって、ぼとりぼとりと力なく落ちていく魔物は、まだ動いている。
「ミレイス、腕、しっかり回していろ」
言うなり、ズヤウは僅かにかがんで、次の瞬間、高く跳躍した。
言われるがまま首元に両腕をしっかり絡ませる。秋風が頬を撫でるが、生臭い独特の臭気が鼻を襲う。
ズヤウが跳んだと同時に、石畳から染み出てきた同じ色の魔物が現れた。
それは細かくなった先ほどの魔物へと獣の足を伸ばす。触れるやいなや元から一つだったようにくっついて形を変える。
大きな蹄だ。
不定形が一部分だけ大人ほどもある大きさの蹄に変化して石畳を割る。割れた石畳は飛礫となって飛んできた。
ミレイスの視界がぐるりと回る。周囲が一瞬溶けて歪み、またはっきりと移る。ズヤウの転移だ。
グル、と獣の声がする。
あの不定形はもとは動物だったのだろうか。だが、今となっては姿の判別はつかない。
まばらに残っている住宅の壁を蹴って、方向を変えながらズヤウが引き裂く。
断末魔があがるが、また姿が変わる。
ミレイスはめまぐるしく変わる戦闘にしがみついているばかりだ。魔法は集中力を要する。激しく動けばその分、威力や精度は低下してしまうのだ。
どうにか援護すべく、水の弾を飛ばしてみたり、流そうとしてみるが、そのたびに地下へ潜り身を隠す。知能がある魔物なのだろう。
飛礫が飛ぶ。
ズヤウが転移して避けて、跳ねて、攻撃する。
鞭のような触腕が動く。切り裂いて、距離を取る。
いつか見たよりも手強い相手だ。なぜこんな魔物がと、ほろ酔いから覚めつつある頭が、もしやまた自分が呼んだものなのかと疑問を抱く。
「ズヤウ、あの魔物」
「先に言うが、お前がおびき寄せた奴じゃない。そっちは、もう前にっ、見つけて始末した」
「わかるの?」
「育ちすぎている。性質も、より悪い。知恵もついている」
避けながらズヤウがミレイスに言った。間一髪避けたり、きわどい攻撃が通ったりと危なっかしい。
(じゃあ、これは何?)
何故こんな魔物がいるのだろう。
水の膜で飛ばす針のようなものを防ぐ。
透明な水がどろりと汚染されていく様は不気味だ。すぐに水をそのまま攻撃利用して相手へ向かって放つ。だが、揺れる状態では上手く当たらない。ジリ貧だ。
そうズヤウも判断したのか、舌打ちをしてミレイスに言った。
「僕の目の布を外せ。早く」
「わ、わかった」
なるべく早く、ズヤウの目元を覆う布を巻き取る。這いながら追って、今度は鎌首をもたげるように獣の頭を作った魔物に向かって手を伸ばした。
「いいかミレイス。魔力を吸うと駄目な理由は」
迫る魔物の勢いがすこしずつ弱まる。同時に、小さくズヤウが唸った。
グゥ、と漏らした声は、先ほどの獣の声とも似ている。
頭が近づき大きなかぎ爪を持った手に変化した瞬間、それはいきなり弾けた。
空中に弾けた魔物が、拡散した煙になってズヤウの腕に入っていく。
ズヤウの手を隠していた手袋が裂けた。ぎょっとして見れば、指先から長い爪が伸びている。
――それは明らかに、人間のものではない。
鋭く固いかぎ爪だった。
めきめきと音を立てて変わる様は浸食されていくようで、苦痛の声をかみ殺すズヤウは、いつかミレイスが体験したあの痛みを味わっているのだとわかった。
指先から肘の辺りへ向かって肥大化していく。
あれは肌ではない。逆立つ鱗が長い袖を破いて現れていった。
ざわめくように揺れた鱗の隙間からどろどろと血があふれて、あの煙が手先から入り込む度にしたたり落ちていくのが見えた。
そして、破れて形がなくなった手袋が落ちる頃には、目の前の魔物はいない。
代わりにあるのは、血を滲ませた鱗が生えた大きな獣の手だ。
指は四つ。人でいう人差し指がなく、それぞれ鋭い爪が伸びている。ざらりとした感触が足にあたる。おそらくミレイスを支える腕も変化しているのだろう。
「こう、なるからだ。人体では破裂しかねない。だから、やめておけ……ああ。見苦しいが、すこしだけ待ってくれ」
ゆっくりとミレイスは下ろされた。果実酒の酔いはとうに飛んだ。いや、まだぼうっとしているのは、悲鳴を漏らさなかったのはそのせいかもしれない。
息を整えながらズヤウが変わってしまった自身の両腕を見ている。そうしていると、かぎ爪はゆっくりと巻き戻るように収まって、腕の大きさも徐々に戻っていく。だが、鱗から滲む血やその手の形は変わらない。
両手を振って、血を飛ばしてズヤウはミレイスに振り向いた。
「よし、帰るぞ。歩けるか」
「ええ、大丈夫だけど……ズヤウは?」
「問題ない」
(えっ? 治っていないのに?)
そのまま歩こうとするズヤウを止めて、慌ててミレイスはズヤウの服を引っ張った。
「なんだ」
「待って。ちょっとの手当くらいさせてください」
鞄からアセンシャの薬を取り出す。手先で確かめて、傷に効果がある軟膏を選ぶ。
(あんなに心配するわけだわ。こんなに痛そうな目にあうなんて)
「ズヤウ、目を閉じて。水を流して薬を塗るわ」
「放っておいてもこれくらい治る」
「駄目です! いいから、ズヤウ。お願い」
「……かまわなくてもいいと言っている」
しかし、そう言いながらも、ゆっくりと目を閉じてくれた。
ほっとして手のひらに綺麗な水を作り出して集める。
まずは片手ずつだ。上空に水の珠を作ったままに、破けた袖をゆっくりとたくしあげる。
こびりついた血が痛々しい。血と鱗は肘の辺りを境目に薄くなっている。まるでこれから生えてくるというかのように、人の肌の下にうっすらと輪郭が透けていた。だが怪我はしていないようなので、ひとまずは放置だ。
「しみたら、ごめんなさい」
さっとなるべく優しく水を流す。それから塗り薬を丁寧に塗って、鞄から清潔な布を取り出した。いざというときのためアセンシャに言われて、詰めていた救急道具だ。あってよかったと思いながら、腕に巻いてしっかりと止める。指先までしっかりと覆って、もう片手へ。
処置が終わるとまるで重傷人のようだった。いや、実際ひどい傷だとミレイスは思った。
(私、足手まといだったわ)
もっと自分が研鑽を積んでいたら、ここまでズヤウは傷つかなかったのではないかと思えてしょうがない。
ズヤウに苦労をかけてばかりの自分が悔しくて、潤みそうになっては、また情けなさに腹が立った。
「包帯はきつくない? ズヤウ、腕は本当に大丈夫? 無理はしていませんか?」
「だから平気だと……なんでお前が泣きそうなんだよ」
目元に手先を近づけようとして、ズヤウが止まる。それから袖でそろりと優しくぬぐった。
「ほら、帰るぞ。カイハンもじきに戻る」
「カイハン……そういえば。どこかに行ったの?」
「さっきの酒場と殿下方のほうに偵察だ」
言いながらズヤウが歩く。歩調はずいぶんとゆっくりで、初めての酔いから覚めかけているミレイスのほうがまだマシなくらいだ。それに合わせて歩きながら、ミレイスは怖々とズヤウを見る。
「体調が悪かったら言ってくださいね。今度は私ががんばって運びますから」
そう言えば、ズヤウはミレイスを見て力が抜けたように、小さく息を漏らして笑った。
「期待しないでおく」




