十話
翌日の昼食後。カイハンはそれはそれは爽やかに出立の言葉を残して出て行った。
それから夕方に入る前に、ミレイスたちもまた街へと出かけることとなった。
晴れやすい気候にある土地なのか、ミレイスたちがここに滞在してから悪天候に遭ったことがない。
涼しい風が強く吹いたり凪いだりと、日常的に風が流れることは多いが、穏やかだ。
それは国によってそれぞれらしいが、風の国であったこの土地では夏秋は穏やかで、冬の終わりから春の間に嵐が到来するらしい。
年中、平野も山間も問わず風が吹きすさぶ国。
今でもかつての名残と、広々とした大地には風車が並んでいたり風に乗せて凧を飛ばして店の広告をしたり遊んだりという風景が見られる。
青空に上がる色とりどりの布がはためく様は、空を彩る絵の具のようで、見ていて楽しいものだった。ただズヤウはそれを黙って見上げて、ミレイスの手を取って歩く。
機嫌がまだ悪いのかと思えば、そうでもない。では照れているのかと思うが、それも理由の一因だろうがそれとはまた別の感情が隠されている気がした。
ひゅう、と風が吹く。髪が乱れるのを抑えて空を見上げる。
つい、風が吹くと近くにカイハンが居る気がして確認してしまう。それに気がついたのか、ズヤウは静かに言った。
「あれの風は、もっとわざとらしい」
「そうですか? 私にはまだわからないみたい」
「わからなくてもいいだろ、あんなの」
「せっかくだからわかると、私が嬉しいんです。ねえ、ズヤウ、今日はずいぶんと空が賑やかですけど、何があるんでしょう」
「ああ、笛吹く日だから」
ミレイスがきょとんとすれば、ズヤウは簡単に説明をしてくれた。
笛吹く日とは、文字通り笛のように風が音を鳴らす秋の日のこと。
天気が良いときには、その風は豊穣を祝う風だとされ、その風を歓迎するためにこうして色とりどりの凧を飛ばすのだそうだ。
「素敵な行事ですね」
「……ああ、そうだな」
ひゅう、と吹いた風がまた髪を乱雑に撫でていく。
(同じ青でも、こんなに楽しい青はないわ)
ふと浮かんだ感想は、いつかの自分の記憶だろうか。
あえてそれを振り払うように、ミレイスはズヤウの左手を改めて握った。
「なんだ」
「風が強いから、はぐれないようにしないとって」
「そこまで強くはないだろ。何言ってんだ」
呆れた様子で言うが、振り払ったりはされなかった。それが嬉しい。
にこにことズヤウを見ていれば、なんなんだよ、とぼやかれた。
待ち合わせの予定地は、下町の北方面。まだミレイスが足を踏み入れたことのない場所だった。
民家はまばらになり、さらには放棄された店や小屋などの跡地がある通りだ。
立派な家屋はなく、傾いた柱や陥没した壁が目立つ。人通りも当然少なく、かわりとばかりに息を潜める住人の存在を感じた。
治安が良い場所ではない。
だからだろうか、ズヤウはミレイスが離れないようにしっかりと手を取って先を歩いている。歩調も早く、後ろをついて行くミレイスが小走りになるくらいだ。気にはしているのだろう。時折ミレイスの様子を見ているようにわずかに頭が後ろに向く。
整備を久しくされていない荒れた路地を抜けて、さらに奥を目指して歩く。
そうして歩くことしばらく、派手に壊れた教会跡が見えた。
屋根は大きく穴が空いており、吹きさらしとなっている。
古い岩壁には蔦や苔が絡み、時間の経過を思わせた。教会の周りだけ石畳が敷かれているが、それもところどころ割れて地面から雑草が伸びて姿を隠していた。
規模は大きくはない、こぢんまりとした教会だったのだろう。形がこれほど崩れていても教会だったとわかるのは、入り口らしき部分の上壁に金属製のモチーフがはめ込まれていたからだ。
鳥の一枚羽根を見上げて祈る人間の図だ。背景に流れる曲線は風を表しているのだろうか。凹凸はところどころ消えかけていたりさびが入って見づらかったが、なんとか把握できた。
ここまで来ると、周りの観察するような視線は感じなくなっていた。よほど奥まった隠された場所なのだろう。来るまでに細い路地や曲がり道を何度も通ったのだ。
「まだ着いていないのか」
目的地はここであっているらしい。
教会跡に入ったズヤウは、寂れ壊れた内部を見てそう言った。
外の倒壊具合の通り、内側もぼろぼろだ。それでも誰かが手を入れたのか、台座のあたりや長椅子がいくつかは無事に残っていた。こちらも金属製なのか、さびてはいるが座っても大丈夫そうである。
握られていた手が離れる。適当な長椅子にズヤウは近づくと、装備していた鞄から布を出した。あれはミレイスが買い出しで頼まれた布の一つだ。
「ミレイス。これは使ってはいないから、汚れていない。劣化素材だが、多少はましだ」
そう言って、座面に置くと、ミレイスを座らせた。
「ありがとうございます。ズヤウ」
うなずきで返して、ズヤウはすこし離れた場所に立った。
それから、景色をぼうっと見ている。相変わらず目元は隠しているが、ミレイスにはそう見えた。いや、きっと、そうなのだろう。ズヤウは目が見えないわけではない。
ただ、その隠している布の下で、どんな目をしているのかは気になった。
風が吹く。
隙間だらけのこの場所は、壁から屋根から風が通り抜ける音がする。それは甲高かったり、低かったり、まるで話し声をしているようにも聞こえた。
ズヤウからは話題の提供もなく、会話はなかったが、不思議と居心地が悪くはなかった。柔らかい日差しと様々な風音が耳を飽きさせない。ちょうどミレイスが座っているあたりなんて、差し込んだ日の光でぽかぽかと暖たかさを感じてまどろみそうになるくらいだ。
目蓋を落として耳を澄ませば、さらに感覚が明瞭になってくる。
(ここには風の精霊もいるのかしら。本当に、意思をもっているみたい)
ひゅう、ひゅうと通り抜ける音のあと、ざわ、と耳の奥に音が届いた。
それは軽い足音で、慌てたようにやってきている。
ぱちりと目を開ければ、ズヤウが入り口を見ていた。
「おや、もっといちゃいちゃしていると思ったんですが」
ドアの意味をなしていない入り口をくぐり抜けて入ってきたのは、少年の姿をしたカイハンだ。
その後ろには、着古したローブを被った小柄な人影がある。目深にして隠していた顔があらわになると、ミレイスを見つけて明るく笑った。
「おおっ、ミレイス! 昨日ぶりだな!」
イマチだ。カイハンは予定通り手引きしてきたのだ。いったいどうやってかは知らないが、見事な手はずである。
「なあなあ、カイ。此処は? 初めて見るところだぞ」
しかも随分と懐かれている。
愛称で呼び、気安く質問する様子は昨日今日の仲とは見えない。わくわくして辺りを見回しては、視線があちらこちらに飛ぶ。すごい、という呟きから憧れのような感情も読み取れる。そして周囲をぐるりと観察して、立ったままのズヤウに視線が定まった。
「ふうん、お前がミレイスの男か。変な奴だなあ、大丈夫か?」
「は?」
低い声でズヤウがイマチを見下ろす。
「カイの兄弟分なんだろ? カイから聞いたぞ」
「おい、鳥頭。どういうことだ」
すかさず叱咤まじりにカイハンへとズヤウが聞いた。カイハンは、手をひらひらさせてにっこりと微笑んだ。
「この子、嘘が通じないみたいで」
「そうだぞ、カイ。嘘ばっかつくと、あとで困るからな」
「なので、遠回しな表現で紹介しておきました。間違ってはいないですから」
「なあ、それよりカイ。ここどこだ?」
なあなあ、と側で言うイマチに、適当に返事をしてカイハンはあしらっている。
「ああでも良いこともあるんですよ。こういう事情で協力がしてほしいということは信じてもらえたので」
「お前、馬鹿正直に話したのか」
呆れたように言うズヤウに、イマチは向き合って胸を張った。
「きんぴかの神さまに言われたからな。お前たちが、おれやばーちゃんの助けになってくれるとわかったなら、いくらでも手伝おう。それに、その道具のことは聞いたことがあるぞ」
「へえ。どこで聞いた?」
「たしか、ばーちゃんが王都から持ってきたもののなかに、神さまのすごい道具があるそうだ。おれは見たことないけど、選ばれた人に使うんだっていうのを城で聞いた」
「だれに?」
「なんだ? 聞きたがりだなあ。今は居ない兄上や姉上たちの教育係だったぞ。フロウリーと仲が悪くて、よく覚えている。そいつらとは、おれに付く前に別れて、そのままばーちゃんに引き取られたからあとは知らない」
背を屈め、膝を曲げてズヤウが聞いている。聞き方はぶっきらぼうだが、イマチは物怖じしないのか普通に答えている。
問答を見ながら、ミレイスは首をかしげた。
どこかで聞いたことがある説明だったのだ。
選ばれた人に使う。神の道具。教育係。
額に手を当てて、うつむく。左手の金の腕輪がしゃらん、と揺れる。その親指にはない指輪を幻視した気がした。
(知っているのね。私は)
頭の中にぼんやりと映像が浮かぶ。
白いローブに神経質そうな顔つきの男と女。だれもかれもが似たような顔になっているのは、ミレイスが完全に思い出していないからだろう。
だが、その男女がいる部屋の中は、はっきりと見えた。
殺風景な部屋だった。
天井も、壁も、床も白く塗られた部屋。そこに窓はなく、あるのはぽつんと置かれた無機質な木製のベッドと小さな卓台に灯った燭台が一つ。何もなかった。
何もなかったから、自分に与えられたことに喜び、すすんで受け入れた。そうして。
――陛下もことのほか、お喜びでしょう。御身を……
(だめ。これ以上は思い出せない)
思い出すなというズヤウの声がよぎる。
知らず知らず体に力が入っていたのか、息を吐き出した唇が震えていた。数度、変に思われないように静かに息を吸って吐く。体の緊張がほぐれてきたのを確認して、ミレイスは口を挟むことにした。
シギの道具についてだ。情報はきっと何かの役にたつだろう。そう思ってのことだ。
「あの、教育係は」
「なんだ」
二人が振り向く。ズヤウが心なしか厳しい目を向けている気がする。イマチの純真な表情に勇気づけられミレイスは思い切って声に出した。
「私も見たことがあります。陛下付きの男の人と女の人で、研究をしていらしたの」
「……お前」
つかつかと早足で詰めてきたズヤウに顔を両手で掴まれた。手袋の感触が頬を撫でて、しっかりと固定された。
「体調は」
「えっ、だ、大丈夫」
「顔色が悪く見えるが」
「あまり楽しい記憶じゃなかったから、かも」
医術師や薬師に診察されているみたいだ。ミレイスの受け答えに、本当か、と言いたげにズヤウが観察している。
きまりが悪くて、視線をうろつかせる。ズヤウの後ろに、こそこそと話すイマチとカイハンの姿が見える。カイハンはミレイスと目が合うとそれは良い笑顔で手を振ってくれた。
「とにかく。私は大丈夫です。あの、情報、役に立ちますか?」
「まあ、いや、すこしは……どちらにせよ、ここの執政官に一度目通りしないといけないだろうな。あの御方の道具とやらもやみくもに探すにも無理がある」
両手を外して距離を置いてから、ズヤウは後ろを振り向いた。途端、ぴしっと綺麗な姿勢を取ったカイハンが答えた。
「では私に良い考えがあります。もうイマチ殿下には話を通していますので、すぐにでも」
「うむ。まずはばーちゃんが最近困っている、街のごろつきに関することを解決したい」
「ごろつき?」
「抵抗軍か」
ミレイスが疑問に首をかしげれば、ズヤウが言う。
「風の国の末裔を名乗る輩の集まりだったか?」
「うむ、そうなのだ。水の国ではなく風の国の復興といいながら、貴族街で暴れているやつらのことだな。弱きを助けて強きをくじくならまだいいんだが、最近窃盗も多くなってきていて、ばーちゃんが困っているのだ。なんとかしてやりたい」
「末裔が窃盗……」
なんともいえない調子のズヤウは、頭を抱えていた。まるで知っているかのような反応である。
「ズヤウ、何か知っているの?」
「いや、まあ、そいつらは知らないが、ちょっとな」
にごされた。カイハンも乾いた笑い声を上げている。有名税ってやつですね、とも言っている。
「知っているなら早い。おれも責任ある立場だ。だから、上に立つ者として、なんだってやる。覚悟は出来ているぞ」
人懐こい少年の顔ではなく、しっかりとした立場ある者の顔をして、イマチははっきりと言い切った。
「まあ、追っ手がくるまえに、色々済ませてしまいましょう」
それに満足そうにうなずいて、カイハンはしなやかに人差し指を立てて説明を始めた。




