二話
*
『神は言った。愛あれかし』
星を創った天の男神と地の女神は、たまたま生まれた生物をそれはそれは面白おかしく、そして仲良く観察しているうちにお思いになられました。
我らはいついかなるときも互いを愛している。しかし、いつかは飽きがくるのではないだろうか。では、そうならないためにはどうしたらいいのか。
――そうだ。他者の愛を見ることでこの胸の高鳴りを、互いへの思いを再確認してみよう。
そうとなれば、その役目を担う者が必要になりました。
呼び出され命令を下されたのは、二柱の子、星の神マネエシヤ。
男だと男神が嫉妬して、女だと女神が嫉妬をしてしまう。そこで人の形をした光輝く姿にされた星の神マネエシヤは、一人でそれをこなすには骨だとお思いになりました。
ですから、自身の手足となる配下に、奏上させることにしたのです。
それが、神の御使い、一対の龍。アセンシャとシギでした。
*
拾われた当初、よく聞かされたのは恋物語ばかりだったことに疑問を抱いたミレイスが尋ねた結果、話してもらった昔話だ。
よくよく思えば、神々の娯楽に付き合わされ振り回されているような考えが浮かぶ。だが、アセンシャはこの仕事を嫌いではないようで、あちこちの話を時折ミレイスにも語って聞かせてくれていた。外のことを聞く機会でもあるし、何よりアセンシャが楽しそうに話すことので、退屈な時間ではなかった。
ただ、ミレイスにとって恋や愛はほどとおい感情だと思うばかりで。
素敵な話をと期待されても、期待に添えない可能性は高そうだとは言えず、曖昧にミレイスは頷いた。
機嫌よくアセンシャは言う。
「さあ、準備をしなくっちゃね」
ミレイスは言われるがままに、準備を始めた。
最初の頃は戸惑うことも多かった食事も、就寝も、今となっては慣れた。人が行うような営みは一通りできるようになったから、準備に問題はない。
とはいえ、ミレイスの場合、体の記憶とやらで人の生活を覚えているため、馴染むのも早かったのもある。不思議なことに、どこかこういうことをしたことがあるという既視感から、なんとなくここはこうなのだと解るのだ。
ただ、アセンシャ曰く、ミレイスの記憶は完全に消えたわけではない。ふとした拍子に思い出すかも知れないとのことだ。
だが、現在ここにいるのはミレイス。ちょっと変わった水精のミレイスだ。アセンシャに拾われて名付けられたときから、昔の自分だろう姿と今の自分は違う。そう思っている。
たとえ、時折何か言いたげな姿の自分を夢に見ても。
ぱしゃん。
家の裏で、両手のひらで作った器に水を満たして顔を洗う。水を自在に操れる魔力が豊富な精霊の体だから出来ることだ。
便利ね、とアセンシャに褒められた技は、今ではさらに磨きがかかった。滴り落ちる水を操り、浄化をして地面へと染みこませる。そうして一つ伸びをして、ミレイスは身支度を整えて家のなかに戻った。
家に戻ると、アセンシャがミレイスを手招いた。
「ミレイス、わたくしがお弁当を用意したわ。持っていきなさい」
そんな軽い調子言うと、ぽんと手渡された。
(アセンシャ様が作ってくださったお弁当……)
計り知れない価値があるのは間違いない。
アセンシャを信仰する場所ならば国宝にも値する代物だろう。
震えそうになりながらも受け取って、恐る恐る肩掛け鞄にしまった。この鞄もまたアセンシャからもらったもので、昨夜姿を初めて見たシギが作った鞄だ。
言うなれば神具である。恐れ多すぎて、未だに大事そうに抱えてしまって、アセンシャに笑われた。
行きの工程は一、二日程度。
帰宅までにおよそ四日ほどかかるだろうか。ミレイスならばこの弁当一つあれば十分だ。だが、万が一をかねて昨日のうちに用意した薄焼き菓子も入れている。作ってもらったお礼には足りないが、アセンシャにも渡したものだ。
食糧の準備は万端。万が一のときの救急用品も入っている。武器はお守り代わりの小刀と短い杖。魔法を使う術士と思わせておけば、人の街に紛れ込みやすいと学んだ結果である。
街中での行動はまだ慣れないところもあるが、目立つのは避けなければならない。目立ちすぎるとアセンシャの迷惑となってしまう。
気合いをいれて、ドアの前に立つ。
「忘れ物はない? 体調は万全ね? 今日は暑くなるって聞いたから、しっかりと外気を遮断して過ごしやすくするのよ」
見送りにきたアセンシャは、なおも心配そうにミレイスを見る。
形の良い柳眉を下げて、ぽってりとした色っぽい唇が憂いのため息を吐く。しなやかな指先がミレイスの頭や肌に触れると、僅かに体と空気の間に膜が張られた。
まるで心配性の親のように接するアセンシャに、くすぐったい気持ちがわく。
「大丈夫です。すでに何度か行った街ですから、ご心配には及びません」
「そうかしら? 貴女、可愛いんですもの。ああ、髪色が目立つわね。少し暗くして紛れさせましょう。あとは……やっぱり、その美しさも少々目立つわ。変な虫にたかられないように、まやかしもかけましょうね」
本当に、心配性だ。
自分には勿体ないほどの加護をかけて、ようやくアセンシャは満足したようだ。
ちら、と自分の肩まで伸びた毛先を見れば、青黒い髪色へと変化している。
家から外の街に出るときには、必ずと言って良いほどアセンシャはこうして魔法をかける。自分がかけられないときは、なるべく姿を隠すようにと言う。他ならぬアセンシャが言うので、ミレイスは従うまでだ。
実際に、見目が整っているものは、治安が悪い場所では犯罪に巻き込まれる可能性があると教わった。以前、街に出たときにも、物騒な会話をする人間を見たこともある。そう思えば心配も仕方ないのかもしれない。
(面倒ごとは避ける。避ける。うん、大丈夫)
心の内で自分に言い聞かせるように呟いて、ミレイスはアセンシャを見返して礼をした。
「それでは、そろそろ行って参ります」
「気をつけてね。シギのところのお弟子さんと会ったら、その鞄を見せれば貴女の保証になるはずよ」
「はい、アセンシャ様。心配り、ありがとうございます。早く戻れるよう、頑張ります」
もう一度深く礼をして、ドアの外へと足を進める。
ドアの先、外は朝焼けが始まった時間帯だ。早くに出ればその分早くにたどり着くはず。予定よりも随分早くに起きて準備をしていたら、張り切りすぎてしまったのだが、多少はいいだろう。
手を振るアセンシャに、振り返してまた小さく礼をして、ミレイスは小走りに駆けだした。
道中を恙なく経過して、ミレイスは走っていた。
人外の体は疲れにくい。魔素を大地から補給さえすれば、少しずつ休みをいれながら長時間速く走ることが出来る。
動きやすい旅装服にして正解だった。
長いスカートやドレスでは大地を走るのに邪魔だ。可愛くないのは良くない、とアセンシャの反対にあったが、太ももを隠す程度の長いシャツに革のベルトを巻いて武器を挟み、すっきりとしたパンツにぬかるみにも強いブーツといった装備は満足のいくものだった。
アセンシャの家は街のかなり外れに位置する。
そのため、この入り組んだ木々が阻む道を歩く人はまずいない。
水の魔法を駆使して伸びた木の枝や邪魔なものを斬って進めば、間もなく街が見える拓けた場所に出た。
今回の目的地、落ち合う場所となる街は、水の国北西部にあるナカハ街だ。
本来は風の国の所属らしいが、水の国が併呑したため、街の外観や文化は水の国に飲まれつつある。
ミレイスが習った情勢では、現在この世界における大国は水の国。他に五つの国、それぞれ火、木、土、金、風の国がある。うち、風の国は百五十年ほど昔に水の国が支配下に置いて、ほぼ国としての様相を呈していない状況だ。
地理としては、中央にある水の国、上から時計回りに土、金、木、火、風の国が囲んでいる。
地図をアセンシャに見せてもらったときには、少々突出した部位があるが、国々を俯瞰してみると五つの花弁を模した形をしていた。アセンシャ曰く、神々の遊び心らしい。
街門の前で立ち止まる。鞄からあらかじめ用意されていた身分証を取り出して、門をくぐる。
アセンシャの魔法はさすがの域で、誰一人ミレイスを怪しまないし注目も浴びない。一言二言会話して離れればミレイスの姿形を思い出せなくなる。惚れ惚れとする技術だ。
空を見上げて、時間を予測する。
ちょうど昼時ぐらいろうか。
眩い夏の日差しは、アセンシャの魔法で遮られ、汗一つかくことはない。極端な熱に弱い水精であるミレイスにとってありがたい加護だ。
そのまま、昼時の売り込みが行われている街中を歩いていく。
ナカハ街は、長閑な街と称するに相応しい街並みだ。治安もそこそこ良く、小さな子どもの姿も見えるし貧民も目立たない。貧困層もいるにはいるだろうが、スラムが形成されているだとか窃盗や強盗などの犯罪が横行しているということもない。
ミレイス以外の旅装をした人もいる。流通もそれなりに発達しているのだろう。明らかに異国の品物を陳列している店もある。数えるほどしかこの街には訪れたことがないミレイスにとって目新しいものばかりだ。
(ええと……シギ様のお弟子様を探さないと)
店を見てみたい気持ちもあるが、アセンシャからの頼みごとが先である。誘惑を振り切って、肩掛け鞄の紐を握りしめて歩く。
人、人、人。大きな街ではないものの、行き交う人の数は少なくない。怪しまれない程度にきょろきょろと見回してみる。
(確か、目に布をあてている年若い男の人)
大通りにはいないようだ。
他に人が集まる場所となると、どこだろう。
人の流れを観察して、こっそりと後をつけてみる。旅装姿のものが向かう先は大抵が道具を売る店だったり、装備をあつらえる店だったりだ。
これも違う。となると、あとは宿屋だろうか。
ミレイスは利用したことはないが、旅の道中で宿に泊まって拠点とすることは知識として知っている。
宿屋には大抵食事処や酒場が併設されている。
昼時ということもあり、賑わっているようだ。入り口をくぐれば、威勢の良い声が響いて迎え入れられた。料理の匂いが鼻腔をくすぐる。
そういえば、先を急ぎすぎて食事に手をつけていなかったとミレイスは気づいた。
それにアセンシャの用意した弁当を平らげるのも勿体なかったというのもある。食べなくても平気ではあるが、食事の習慣がついたミレイスにとって、美味しそうな匂いがするこの場所は心くすぐられるものがあった。
精霊種は快く感じるものにすぐ気移りする性質があり、ミレイスも少なからずその性質を持っていた。店先の珍しい品物はどうにか我慢できたが、こうも美味しそうに食事をする人々の様子を見てしまえば堪らない。
(食事はきちんと取りなさいとアセンシャ様も言っていたわ。だから、だから)
ごくりと唾を飲み込んで、ミレイスは食事の席を着いてしまったのだった。