六話
「起きろ」
パチン。
両頬を挟んで叩かれた。じん、と痛んだ熱に目を瞬かせる。
間近にズヤウの顔があった。暗い藍から橙へと変化した瞳と目がかち合う。視点が定まったと分かると、睨むようだった夜明けの瞳は強ばりが和らいで溶けた。
「いたい……」
「今回は早く戻ったか。なんとなくわかってきた」
「ズヤウ?」
ミレイスの両頬に手を当てたままズヤウは、整理する、と言って目を覗きこむように顔を寄せた。さらりと顔にズヤウのまばらな髪が当たる。じいっとしばらく見つめていたかと思うと、ズヤウは手を外して顔を離した。
「お前、きっかけさえあれば、たぶん記憶は戻る」
「本当!?」
「西の御方のところと、シギ様の仮宿で魔力を吸っただろう」
それはシギにも言われたことだ。こくりと肯定すれば、ズヤウは自分の鞄から包帯を取り出した。ミレイスがぼんやりしている間にしまっていたのだろう。
「それで記憶の蓋が取れたとみていい。指輪は、元々お前が思い入れのあった道具だろう。調べたが、付属していた魔法もちょっとした加護のようなものだったし、言うなれば一つのきっかけだ。それがあって次第に思い出せるようになってきたというとこか」
「きっかけ……でも、あのとき指輪が勝手に出てきたのは?」
「お前、記憶を思いだそうとするとき、いつも前後不覚だろ。お前はずっと嵌めたままだった。カイハンの姿隠しの魔法と同じ要領だ」
では記憶の少女、過去の自分が指輪を外せと言っていたのは、ずっと嵌めていたからだったのか。いつかの夢を思い出して、ズヤウに語る。
「私、夢を見たの。その指輪をズヤウが取る前。私が私を見る夢で、指輪を外せと言われて」
「記憶を戻そうとする意識が働いたんじゃないのか」
「そうかしら」
それだけではない気がするのだが、ズヤウの言うことも確かだと思って頷く。
「魔力を吸おうとすれば、あの魔物が狙って寄ってくるのもわかる。あれは、満たされたいから」
「知っているの? あの魔物は?」
「それは、また改めて言う」
歯切れが悪い。追求を避けるようにズヤウは顔を逸らした。自分にはまだ言えないことなのだろう。言葉にならずとも、察することができた。
こういうとき、まだズヤウと隔たりがあることを感じる。カイハンならばわかっていると頷くのだろうか。明るい朗々とした声を思って辺りを見回したが、まだカイハンは戻る気配はない。
ズヤウはまたゆっくりと厳重に目元を隠し、包帯を巻いていく。鼻から上、眉のあたりまでしっかりと覆ってズヤウはミレイスに振り向いた。
「多分だが、もうお前はそれがなくても魔力を吸おうと思えば吸える」
「それなら」
「するなよ。あと記憶も無理に思い出すな。お前、一度死んだと思っているだろう」
「う、うん? そうね、私は死んでアセンシャ様に拾われたわ」
「だからだよ」
ズヤウは口を曲げて、ミレイスを見た。
自分のことのように、苦々しい口調だ。何かを思い出して嫌だと言わんばかりの感情が声から聞き取れた。
「全部思い出すと、精神に引きずられるぞ。その可能性が高い。だから、やめておけ」
「そう……」
「魔力も無闇に吸うな。目の色でわかるから、本当にやめろよ」
目の色。もしかして変わったのだろうか。目元を自分で触ってみるが分からない。水の魔法で鏡で見てみようか。
ぼんやりと黙っていれば、ズヤウはしびれを切らしたように促してきた。
「おい。返事」
「あっ、はい!」
「よし」
圧を込めて聞かれて、勢いよく頷けばズヤウはミレイスの左手をとって握った。
「僕みたいになるな。そのまま生きろ」
静かに呟いて、ズヤウは手を引いて歩き出した。
*
一方。
カイハンは高く空を飛行しながら街を俯瞰していた。
姿を消したまま、風の魔法を用いて遙か上空へ。昔のままだったら、到底できない芸当だ。
五角形の城壁に囲まれた街の屋根や壁が陽の光に照らされて反射する。白く、ともすれば白銀に輝く姿に、風の国、光輝なる国と誇っていたこともあった。
(まだ、形をほぼ残しているのだな。水の国に呑まれたと思ったが)
風の国独自の建築様式は、このような白壁を多く用いたものだ。白色や銀色、そういった色合いを国の色として尊んでいた。
水の国であれば、井戸や噴水を立てたり豊富な水資源を用いたり、人口の池を家に作る。ぱっと見た感じでは、現在の街中央部には、贅沢な山河を模した池付きの庭園がある。水の国から来た執政官用の屋敷があるからだろう。
ここにズヤウたちと訪れてから何度となく見てきたが、今日も異常は特には見当たらない。
今上空に居るのは、ミレイスの様子がおかしいからと魔力の集中を隔てる目を使うために、ズヤウがカイハンを上へ逃がしたからだ。また、ミレイスが魔力を吸うときに合わせて襲来するだろう魔物の探査でもあった。重要度といえば後者が本命である。
(いない……ということは、何もなかったということか)
こうも素早く動けたのには、理由がある。
簡単に言えば、ズヤウもカイハンも経験者だからだ。経験といっても、ズヤウだが。
カイハンはただ見ていただけだ。
苦しんで、曲がって、折れそうになるズヤウを見ているだけだった。
同じように、無理に魔力を吸って、魔物と同様になる人々。それを兵器と言い張って誇る国。思い出すだけでも苦々しい。
それらはシギによって綺麗さっぱり抹殺されたはずだが、何故か時を経て形を変えてまた繰り返している。
命令されなければ、きっとズヤウもカイハンも見ないふりをしていたのかもしれない。
だが、現実は巻き込まれている。収拾をお前らがつけろと言われている気さえした。もっとも、カイハンたちを預かるシギからしたら、適当に割り振っただけかもしれないが。
三桁を超える年数を使い走りや用向きに使われたら、なんとなく思考や傾向はわかるものだ。
(しかし、彼女とはちょうど同じ立場。傷のなめ合いだろうとなんだろうと、ズヤウも素直になれば良いものを)
百五十年も経って、軽口を交えたり、カイハンを投げたり掴んだりと遠慮も大分薄くなったが、それはカイハンなりの罪滅ぼしだ。少しでも気にしないように。自分は平気なのだと励ましてきたつもりで、これまで過ごしてきた。
(まあ、大分、本当に、遠慮がなくなってきたんだが。まあ、いい)
今回の旅路では、久々に焦ったり困ったり照れたりとするズヤウが見れて、カイハンは満足だ。
自身の兄弟分が長い時間を隔てて、久方ぶりに慌てふためくのを見るのは、正直なところ、ものすごく、とても、楽しい。そんなことを伝えると、またこっぴどく怒られるのだろうが。
それに、美しいものが好きだと有名なアセンシャの気に入りという少女もカイハンの気に入った。見目はもちろんだが、心根もまっさらだ。記憶がないからというのもあるだろうが、あれは生来の性格もあるのだろう。少々自信がなさそうなのが玉に瑕だが、実直で、好意を素直に受け取ることが出来る。真面目で相手を気遣える。二人を仲良くと画策しているだろうアセンシャたちの趣味もなんとなくわかる気がした。
上空を旋回して、徐々に高度を下げていく。
(ついでに、今の執政官の顔でも拝んでみるのもよいだろう。情報は取っておいて損はないというものな)
鼻歌交じりに降りるついでに、下町の上空に向かう。手を繋いで歩く男女の姿が見えた。それを見送って、カイハンは機嫌良く上空に昇って、中心部へと飛んだ。
*
昼過ぎになった。
げんなりと疲れ切った様子を隠さず、仮宿へと戻ったズヤウは、ミレイスを手で払った後に自室へとよたよた戻っていった。
カイハンが戻ってくるかと思いきやなかなか戻らず、帰り際になってにこやかに合流したから、随分長く下町に居た。ついでに昼ご飯も外で食べてしまった。
ミレイスとしては楽しいことだったのだが、すでにそのときにはズヤウは疲れていた。
それもそのはずで、カイハンが手助けをしてくれるとズヤウは思っていたらしい。
結局帰ってこなかったために、その後、ミレイスと回る度、甘やかし溺愛する演技をこなしながら一人で補助をしていたのだ。ミレイスなりに自分は上手くできたと思っているのだが、ズヤウからすればまだまだだったらしい。帰り際に、今後の一人での外出は不可だと言われた。
疲れは相当に深かったのだろうか。
ズヤウが再び現れたのは夕方。ふらりと部屋から出てくると、黙々と主菜、副菜、汁物、甘味まで用意した後、ミレイスが食べるのを見守り、自分はすこしだけつまんでまた部屋に戻っていった。カイハンにそっとしておけと遠回しに言われたため、そのまま見送って、ミレイスは片付けをして眠りについた。
そして、翌朝。
朝日と共にミレイスは目を開けて部屋から出ると、見知らぬ少年が居間のソファでくつろいでいた。
すこしくすんだ銀糸の短髪に明るい橙の目をした色白の美しい少年だ。
およそ十より上になるくらいの年頃だろうか。真白いシャツとゆったりとしたズボンは平民のものだというのに、身分の高い者だと思わせる気品があった。
少年はミレイスを見つけると、にこりと笑った。髪に着けている羽根飾りが揺れる。
「おはようございます。ミレイス嬢。今日の貴女も美しい」
朗々と歌うような明るい声。見た目にそぐわぬ男の声に、ミレイスは目を見開いた。
「カイハン?」
「はい! 麗しき水の乙女、貴女に恋い焦がれるカイハンですとも。まあ、このなりは少々幼すぎますが」
両手をおどけた風に開いてみせたカイハンは、滑るようにミレイスの傍らに寄ってきた。
近くに寄ったカイハンを見て、ミレイスは気づいた。容姿がズヤウと似ているのだ。ズヤウの整った面影を残して、可愛らしく甘くしたような。まるで兄弟のようだった。
「カイハン、ズヤウの弟みたいね」
「あー……はい! ふふふ、そんな感じです。兄さまって呼びましょうかね」
「やめろ。寒気がする」
ぷっくりとした桃色の唇をゆるめて笑うカイハンが、茶目っ気たっぷりに言えば、自分の部屋から顔を出したズヤウが嫌そうに顔を歪めて言った。
外向きに出る服でもないのに、今日も首から下までしっかりと覆った衣服を身に纏っている。首を覆うタイプのシャツとズボンだけならまだ普通だが、手先まで隠す黒手袋は目立つ。それよりさらに目立つのは、目元の包帯だ。
「カイハン、どうだ具合は」
短く問いかけた言葉に、カイハンは上機嫌に頷いた。
「上々ですね。しかし、この姿、大丈夫です?」
「時間も経っている。色もそこまで気にする奴はいない……年齢は、一応、ミレイスの側にいるならそのくらいなら怪しまれないだろう」
「ふうん。まあ、私はそれでもいいですけどね」
「言っておくが、単なるまやかしだからな。そこはうまく取り繕え。得意だろ」
「ええ。この飾りが取れないように気をつけますよ」
そう言って、カイハンはミレイスにウインクをしてみせた。それから動きによって揺れる一枚羽根の髪飾りを指先で示す。
翡翠色の羽根で、人差し指くらいの長さだろうか。色素の薄い髪色とよく似合っていた。話を聞くに、その髪飾りは魔法がかけられた道具なのだろう。ミレイスの腕輪と同じような類いに違いない。
「そういうワケです。本当にこの姿、というわけではないのですが、貴女の騎士役を務めさせていただきます」
「そうなのね。よろしくお願いします、カイハン」
「はい、私の姫君。お任せを」
カイハンは優雅に跪いて、ウインクをしてみせた。




