十一話
それは、天井、あるいは壁、あるいは床。ここの建物からどこからともなく鳴っている。
卵が落ちて割れる音に近い。徐々に亀裂が入って、さらに割れて、開く。
「幸へ給へ」
声を出すことを止められない。
混乱して体を動かそうとしても上手くいかない。視線は左手に固定されたように動かせない。
(手に)
指輪。
木の指輪が嵌まっていた。
夢で見たものと全く同じ光景に恐ろしさがわいた。指輪の側面に掘られた文字がうっすら光る。そのたびに、周囲に響く音が大きくなっていった。
「幸へ給――」
「ミレイス嬢!」
ドン、と体に固いものが当たる。
左手から視線は動かせないが、声でカイハンだとわかった。ぐりぐりと腰の辺りを押している。
だがそれでも口は絶え間なく動く。歌を口ずさむように、何度も、何度も同じ言葉を繰り返す。
(痛い、いたい、いたい)
息が苦しい。周囲の乾いた音が増していく度に、何かがミレイスに入り込んでくる。
爪の先から鋭い針が刺す感覚がする。細かな稲妻が皮膚から入り込んでくるような。痛みが走るというのに、声は揺らがず続いた。
「カイハン、離れていろ」
続いて前に影が差した。使い古したブーツを履いた足先が見える。ズヤウだ。
目の前に跪いて、左手を見るばかりのミレイスを下から見上げてズヤウが言う。すう、と息を吸って吐く音。躊躇いがちに届く声が耳朶を震わせる。
「僕が、見えるか」
視界に割り込む形でズヤウの顔が迫る。
静かに言い聞かせるように。落ち着かせるように。ミレイスに語りかけるズヤウと視線が合う。
(目……)
夜明けの色だ。
暗い空の下から朝日が昇る。それを思わせる瞳が、ミレイスを見ていた。
瞳孔は黒く縦に伸び、整った顔立ちの中、そこだけ人ならざる瞳だとすぐにわかった。だがそれを恐ろしいと思うよりも先に、美しいとミレイスは感じた。
痛みは、じわじわと遠のいて、ゆっくりと目蓋が動く。
(動く? 動くなら)
あの夢と同じだというのなら、急いで指輪を外さなければ。意識を集中して水の魔法を使おうと試みる。
(どうして?)
だができない。徐々に動くようになってきた体で、左手に向けて何度も魔法を使おうとして、失敗する。
「ズヤウが見ている間は、魔法が上手く使えなくなるのです」
遠い場所からカイハンが言う。声の在処を探れば、天上の隅に避難したカイハンが見えた。ずいぶんと遠い。
ではどうすればいいのだろう。途方に暮れて、ようやく出せるようになった声を咳き込みながら出して訴える。
「っ……あ、ぐ……っえ、でも、指輪」
「指輪? 外せば良いのか」
目を伏せたズヤウが、ミレイスの左手を取る。手を添えて、親指から木の指輪をつまんだ。
光っていた側面の彫り物は黒ずみ、ミレイスから離れるのを拒むようにブスブスと煙った音を立てている。
「……呪い? 加護? なんでこんなもの」
忌々しそうに呟いて、丁寧な仕草でズヤウは抜き取った。パチリと紫電が走るが、お構いなしだ。
取った指輪を手に、検分をした後、静かに自分の鞄へとズヤウは入れていった。
しばらく待ってから、床に落ちている布きれを拾って手慣れた仕草で目元に巻いた。すべて巻き終わるのを確認して、カイハンが近寄ってくる。
「ミレイス嬢! ご無事ですか? ズヤウ、大義である!」
「素が出ているぞ、鳥頭」
「おや。いけない。それだけ心配したってことさ」
くるくるとミレイスの周りを飛んで、カイハンは心配そうに告げる。
「そして続けての悪い報告です、ミレイス嬢。先のミレイス嬢の歌で仮宿の結界が綻んだようだ。魔物が寄ってきます、早く出立を」
「なるほど。西の御方の加護が途切れたのもそのせいか」
「わ、私のせい? アセンシャ様の家を、私」
「お前がしたのは確かだが……いや、ともかく移動するぞ」
立ち上がらせてから、ズヤウは腕を引っ張った。たたらを踏んでミレイスがよろける。先ほどの痛みからのしびれがまだ残っているのだ。
「ズヤウ、丁重に運ぶのです」
「……はあ」
疲れた息をついて、ズヤウにミレイスは抱え上げられた。荷物運び再びだ。
「そして人目がくるといけません。ズヤウ、ミレイス嬢に目くらましを。私は隠れてついていきます。指示は風で示します」
「わかった」
言うなりカイハンは空気に溶けていった。同時に建物の入り口が揺れる。どん、どん、と重たい体がぶつかる音だ。
「お前、よく今まで無事だったな。西の御方に感謝しろよ」
「アセンシャ様には、ずっと感謝をしています」
すかさず返せば、そうか、と言われズヤウは魔法で荷物を浮かして、ミレイスに「持っていろ」と渡す。それから、おもむろに入り口に向かって駆けだした。
「ズヤウ、あの飛ぶ魔法は?」
「僕はお前の姿をごまかす魔法を使っているんだ。そんな暇あるか」
「でもアセンシャ様は」
「桁違いの相手と比べるなよ。それにこれほど近づかれたらまた追いつかれる。行くぞ」
言われて口を閉じる。間もなく、ズヤウは入り口を蹴飛ばした。
重たい扉が勢いよく開いて、外に居る物ごと吹き飛ぶ。魔法も駆使したのだろうか。風がびゅうびゅうと追い風のように吹いた。
抱えられながらも、何が来たのかと首を動かして確認する。
(魔物? これが?)
ミレイスが見たことのある魔物とは思えない。
いや、確かに魔物ではある。精霊の感覚で、捻れたような魔力がするもの、それが魔物だ。
アセンシャのところで学んだ知識では、精霊も魔物も等しく神の副産物らしいので根っこは同じだという存在。魔力が悪い場所、例えば悪念が強い場所であったりその場にいた死体につけば魔物になる。
ミレイスも同じ死体が基となっているが、精霊だ。ただし、それは例外中の例外で、これまでにないくらいの稀少例とアセンシャから聞いている。
基本、死体に憑いた場合は、生命力を魔力で動かすために常に飢餓感に襲われる。そのため周囲に害をまき散らしていくのだ。
だから、魔物といえば何かの形を基にしたものか、モヤのようなもの――いわゆるレイス――悪霊のような存在になるのである。
だが、これは見た目が常の魔物と違う。
不定形。
一部の体は残っているが、どろりと輪郭を溶かして崩れ落ちた何か。
それは動物の足だったり、羽根だったりとまばらだ。大きさは昆虫ほどの小さなものから大きい動物まで。数は数体かと思えば、すこしずつ後続が集まってくっついていく。溶けた場所が重なって嵩が増して大きく育った異形。
「……まだいたのか」
吐き捨てたように呟いたズヤウは、ミレイスを片手でしっかり抱えたまま空いた手を振りかぶった。
様々な物が混じった手が伸びて、こちらに手を伸ばしてきたと思えば、ズヤウが空を切って勢いよく振り下ろした。空気が震えて、魔物の体がばらばらと分かれる。
「カイハン」
また風が渦巻いて、形を戻そうとする物体を吹き飛ばす。どこかからカイハンも手助けしているのだ。
(私も、何か)
魔物や魔法は、流れる水に弱い。ミレイスも外で魔物に出くわしたことはゼロではない。そのときの対処は、水で流し弱ったところを倒すか逃げるかだった。
それがこれに効くかは不明だが、自分だけ何もしないわけにはいかない。抱えられながらではあるが、ミレイスは荷物をしっかりと抱いて手先をどうにか魔物のほうへと向けた。
洗い流すイメージで。意識を集中させる。
「水よ、流れて!」
空気中に水の粒を集め、膨らませ、勢いを付けて相手へ押しつける。
ごう、と音を立てた水がぶち当たると、魔物はどろりとさらに形を崩して溶けていった。
ほ、と息を吐く。
「手出しはいらなかった」
不機嫌そうにズヤウが言う。顔は見えないが、口もへの字に曲がっていそうだ。だがそれでもと、ミレイスは反論する。
「私だって、頼りないかもしれないけれど精霊です。あなたたちの力になりたいんです」
「なんと慈悲深い! 西の御方の善きところが似たのですね。素晴らしい行いです、ミレイス嬢。ズヤウったら、心配性なのですから」
「黙れ鳥頭」
すかさずどこからともなくカイハンの声がして賞賛を送ってきた。ズヤウは辛辣に返したが少し黙ってまた駆けだした。
「……先のこともある。すこしは控えていろ」
腹部の圧迫でよく聞こえなかったが、気遣う言葉だとわかった。
肩の上で揺られながら、ミレイスは口を綻ばせて首を振った。
「いやです」
途端、不機嫌そうに黙るズヤウとはやし立てるカイハンがおかしくて、笑ってしまった。




