番外編 メロディアは今宵、ディートリヒの寝室をのぞき見る
つい先日、ディートリヒ様と婚約を正式に結んだのだが、生活は驚くほど変わらない。
結婚は一年後となっている。それまでの間に、最低限の貴族のしきたりやマナーを勉強しているのだ。
ディートリヒ様は、「そんなの覚えなくてもよい!」と言っていた。だが、私のふるまいが原因で「礼儀知らずの娘を娶って……」などと陰口をたたかれるのは他でもない、ディートリヒ様なのだ。
人前に出るような催しには積極的に参加しないものの、誰とも会わないという生活は生きている限り難しいだろう。
だから、貴族について学ぼうと思ったわけだ。
これらの知識やふるまいを身に着けることは、私のためにもなる。
もしも、ディートリヒ様から愛想を尽かされたとき、貴族の家でメイドをすることもできるだろう。そんな、保身もあるのだ。
貴族のしきたりやマナーは、私が想像していた以上にいろいろあった。
女性は足首を見せてはいけないとか、短時間の茶会に参加するさいは帽子を脱いではいけないとか。
その中に、結婚するまで男女はたとえ婚約者同士であっても、ふたりきりで会ってはいけないとあった。
そんな知識を叩き込まれていたので、夜に会いたいというディートリヒ様のお願いをはね除ける。
「メロディア、なぜ、夜私と過ごせないのだ!?」
「結婚前の男女が、ふたりきりになってはいけないのですよ」
「だ、誰だ! メロディアにそんなことを教えたのは!?」
「私が、自分で学びたいと望んだことです」
「ぐぬう!」
ディートリヒ様は膝の力が抜けたのか、その場にくずおれる。そんなにショックなのか。一瞬可哀想になったが、同情したら負けだ。そう、心の中で強く念じておく。
「っていうか、私、夜になったら狼の姿になるじゃないですか。話せないし、一緒にいる意味あります?」
「ある! 私は、メロディアがどんな姿であれ、隣にいたらたちまち踊り出したくなるほど嬉しいのだ」
「ちなみに、私がいない場合、ディートリヒ様はどうなるのですか?」
「悲しみの踊りをするしかない」
どちらにしろ、踊るようだ。その辺は深く突っ込まないでおく。
「夜、ふたりきりで過ごすのは、結婚するまで我慢してください」
「わかった。今宵は、悲しみの舞を踊ろう……」
だんだん、ディートリヒ様の舞が気になってきた。顔はきれいなので、きっと絵になるのだろうが。
◇◇◇
夜――私はいつも通り狼化した。この状態となれば、喋ることはできない上に、ペンを持つことすらできない。
さっさと眠ろう。そう思って、ふかふかの布団へと飛び乗った。
目を閉じたが、脳裏に浮かぶのは昼間のディートリヒ様の発言である。
――今宵は、悲しみの舞を踊ろう……。
悲しみの舞とはいったい!?
気になって、なかなか眠りに就けない。
いったい、どういう踊りなのだろうか。
ゆったり踊るのか、激しく踊るのか。
いや、冗談なのだろうが、本当に踊っている可能性もある。
ディートリヒ様の冗談と本気は、わかりにくいのだ。
眠れないので、むくりと起き上がる。
ディートリヒ様の部屋は隣だ。露台を伝って行ったら、窓から様子が見えるかもしれない。
さっそく、行動に移す。
露台へ続く窓から外に出る。隣の部屋へ繋がる露台へは、一米突くらいか。
軽々と、跳び越える。
肉球がクッション代わりになるので、足音は鳴らない。
今日は暑いので、窓は微妙に開いていた。少しだけ開いて、中を覗き込む。
ディートリヒ様は、いた! ギルバート様もいる。
ふたりで、いったい何をしているのか。様子を窺う。
ディートリヒ様は突然動き始める。手足をしなやかに動かし、ステップを踏んでいた。
憂いの表情で、くるくる回っている。
……うわ、本当に踊っている。
椅子に座ったギルバート様は、実に悲しげな表情でディートリヒ様を見つめていた。
あれは、かわいそうな生き物を見る目ではなく、心から同情し、気の毒に思っている人の表情である。
さすが、兄大好き人間。何をしても、ドン引かないのだろう。
ちなみに私は今、全力でドン引いている。
……帰ろう。
そう思って踵を返したら、足の爪がカチャ……と鳴ってしまった。
「誰だ!!」
ギルバート様が鋭く叫んだ。
窓を開き、剣を抜いた状態で覗き込む。
「わ、わうう……」
私だとわかった瞬間、いたたまれないような表情となった。
「ギルバート、誰だ?」
ディートリヒ様には言わないでくれと、首を横に振る。
どうかお願いしますと、手に手を合わせて懇願した。
「あ、いや、すみません。猫でした」
「そうか、猫か。これも何かの縁。招待しようか」
「あの、もう、逃げてしまいました」
「そうか……。猫にまで、逃げられてしまうとはな」
「兄上、私が、お付き合いしますので」
「ギルバート、感謝する」
ギルバート様は背中に回した手で、早く行けと指示を出してくれる。
心の中で感謝したのは言うまでもない。
そんなわけで、ディートリヒ様は有言実行の男だった。
知らなくてもいい情報だったな……というのが本音である。
私は今宵も、ディートリヒ様が悲しみの舞を踊っているのをわかっていながら、眠りに就くのだった。