最後の戦い その二
ガチャン! という音でハッとなる。右手で口元まで上げていたカップを、左手で持っていたソーサーに打ち付けてしまったのだ。
紅茶がぴちゃんと跳ね、頬に飛んでくる。
「あ、熱っ!」
すぐさまルリさんは私の手から紅茶を取り上げ、顔を洗うために置いていた桶の水に手巾を浸し絞ったものを頬に当ててくれた。
「す、すみません」
夢だと思っていたことは、すべて現実だった。
本当にディートリヒ様は、人の姿に戻っているようだ。
「メロディア様、もう、お一人だけの体ではないので、ご自愛を」
「一人だけの体じゃないって……」
「旦那様は人の姿に戻りましたから、あとは、メロディア様と結婚するばかりです」
「そ、それは!」
「覚悟はお決めになっておりますよね?」
ディートリヒ様の呪いを解けたら考えようと後回し、後回しにしていた問題である。
面と向かって話をしなければならない。
「あの、ディートリヒ様と朝食はご一緒できるでしょうか?」
「伺ってまいります」
すぐに、答えは帰ってきた。「もちろん、大歓迎だ」と。
「メロディア様が目覚めたと聞いた旦那様が逢いに行こうとおっしゃっておりましたが、丁重にお断りをしました」
「ありがとうございます」
私は三日間、寝込んでいたらしい。まずは、お風呂に入りたい。
できる侍女ルリさんはお風呂を準備してくれていたようだ。
「あ、そういえば、私、手に怪我をしていたのですが」
「旦那様が、国一番の回復魔法の使い手を呼び寄せ、魔法で治してもらったようです」
「そ、そうだったのですね」
おかげさまで、痛みから解放されている。あとで、お礼を言わなければならないだろう。
ただ、筋肉痛だけは治せなかったようだ。歩くだけで、体が痛い。
「うう、そんなに運動していないのに」
魔力を使い果たした弊害なのか。人の姿では初めて、ルリさんに入浴の手伝いをさせてしまった。
「す、すみません」
「お世話は、私の仕事ですので」
「本当に、心から感謝しています」
その後、丁寧に体を拭いてもらい、髪の毛も乾かしてもらった。
ドレスはライラックカラーの、胸に薔薇のボタンが連なったデイタイム・ドレスを纏った。化粧を施し、髪の毛はハーフアップにしてもらう。天鵞絨のリボンを結んだら身支度は完成。
ディートリヒ様が人の姿に戻ったと聞いているので、いつも以上に緊張している。
一回目覚めた時に顔を見たけれど、恐ろしいほど顔が整っていた。
ギルバート様は精悍な感じだけれど、ディートリヒ様は麗しいと表現したほうがいいのか。兄弟で雰囲気はちょっぴり似ているものの、容貌はまったく異なる。
食堂の扉の前で胸に手を当てて深呼吸していたら、いきなり扉が開かれた。
自分だけの宝物を発見した少年ような、キラキラの笑顔を浮かべるディートリヒ様である。
「メロディア! よかった。起き上がれるようになったのだな!」
「わっと!」
ディートリヒ様は私を見つけるなり、抱きしめてきた。
声はいつものディートリヒ様なのに、姿が違うから動揺してしまう。
「兄上、朝から何をしているのですか!」
「ギルバート、メロディアが目覚めたぞ」
「見ればわかります」
「ああ、よかった。私はメロディアがこうして元気なことが、何よりも嬉しい!」
「わかったので、メロディアさんを解放してあげてください。困っているでしょう」
「そ、そうか。すまなかった」
ディートリヒ様はしょぼんとした様子で、私から離れる。
なぜだろうか。人の姿に戻ったのに、垂れた耳とだらんと下を向いた尻尾が見えた。
目の前の男性は、確かにディートリヒ様なのだ。
やっと、ディートリヒ様が無事だったのだと実感することができた。
「ディートリヒ様……」
「ん?」
「よく、ご無事で」
「メロディアのおかげだろう」
ディートリヒ様は私にそっと手を差し伸べる。恐る恐る伸ばした指先を重ねたら、触れた手はとても温かかった。
朝食はチョコレートを溶かした温かい飲み物『ショコラ・ショー』に、三日月パン、茹でたソーセージに、根菜の温サラダ。
ショコラ・ショーはカフェボウルいっぱいに満たされていて、甘い香りを漂わせている。こんな贅沢な飲み物は、初めてだ。湖を覗き込むように、見下ろしてしまう。
「メロディア、ショコラ・ショーに三日月パンを浸して食べてみろ。おいしいぞ」
「え、そんなこと、してもいいのですか?」
「いい。私が許す」
そう言って、ディートリヒ様は優雅な手つきで三日月パンを千切り、ショコラ・ショーに浸して食べる。
「ふむ、うまい」
ギルバート様も、平然とした表情で、ショコラ・ショーに三日月パンを浸して食べていた。
どうやら、本当にそういう食べ方がフェンリル家では許されているようだ。
私も真似して、三日月パンを千切ってショコラ・ショーに浸す。零れないよう、素早く口に運んだ。
「んんっ!」
三日月パンの層になった生地に、ショコラ・ショーが染み込んで豊かな甘みをもたらしてくれる。三日月パンの薄いパリパリの皮と、チョコレートの相性は抜群なのだ。
「メロディア、おいしいか?」
「はい、とっても!」
「そうか」
ディートリヒ様の眼差しは、とろんと蕩けるように細められた。それは、孫を目に入れても痛くないお爺さんのよう……。いや、ちょっと違うか。
ショコラ・ショーは私を元気つけるために、用意されていたのか。
世界一おいしい飲み物だと思った。