雨と別れとカタツムリ
今日は、何かとついてない。朝目覚ましが壊れるし、購買のカツサンドも目の前で売り切れ、コンビニに入ったら傘立てに置いておいた傘が盗まれていた。踏んだり蹴ったりとはこの事だろう。居残り練習終わりで一人で帰っているため、誰かの傘に入れてもらうこともできない。
でも、俺はこんな時、必要以上に落ち込んだりはしない。運は良い時もあれば悪い時もある。必ずプラスマイナスゼロに収束すると思っているからだ。だから、多分明日は良いことがある。そう思って生きていけば、意外と気楽だ。
「とは言ったものの……」
傘を失った俺は、ただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。左手には、コッペパンと紙パックのミルクティーを入れた、小さなコンビニ袋をぶら下げている。ビニール傘を買おうかと思ったが、流石に勿体ない。家まで10分だし、だったら雨脚が弱まってきた時にダッシュで帰るべきだ。
しかし、スマホで天気予報を見ているが、どうやらこの後さらに強くなるらしい。俺はどうしたものかと頭を掻きながらも、スマホをポケットにしまう。とりあえず、部活後の腹ごしらえをすることにした。袋からコッペパンを取り出し、開けようとしたその時――
「ん、どうしたの? 一輝」
「! 葵……」
不意に、名前を呼ばれた。声の主は幼馴染である【望月 葵】。家が隣で、幼稚園から高校までずっと同じ学校に通ってきた腐れ縁だ。とはいえ、高校に入ってからは中々話すことも少なくなってしまった。いや、どっちかと言えば中学の途中から既にあんま話してなかったかな?
とにかく、これはチャンスだった。やはり人生、悪いことばかりじゃないな。
「丁度いいや、傘入れてくれ」
「は?」
は? と申されましても。
◇◇◇
必死に懇願した結果、渋々入れてくれた。ありがたい。まあ、実際言うほど懇願してないけど。普通の女子なら言い出しづらいが、葵なら大した抵抗はない。こういうところが幼馴染の良いところだろう。当然、傘は俺持ちだ。
「…………」
「…………」
しかし、どうにも会話が弾まない。どころか、言葉が出てこない。俺たち、今までどんな話してたっけか?
このままじゃイマイチ気まずいので、なんでも良いから話題を出そうと頭をひねった。
「……最近、部活どう?」
結果、口を突いて出たのはそんな不器用な質問だった。それに反応した葵は、すぐさま口を開く。
「お、それは、部活動とかけたダジャレですかね?」
「うわ、つまんな」
本当に下らない返しだったが、お陰で二人の間の空気は少しだけ和んだ。気がする。
「冗談冗談。えーと、もうすぐコンクールがあってね、みんな一生懸命練習してる」
葵は左の人差し指を顎に当て、思い出すように呟いた。
「そういえば、吹奏楽部だったっけか」
「そっからー?」
「む……じゃあ、俺の部活はわかる?」
「サッカー部でしょ。てか一輝ずっとサッカーしかやってないじゃん」
「そりゃそうか」
少しずつ、自分達のテンポが戻ってきた。何気ないやり取りのはずだけど、ちょっと懐かしい。なんだかんだ話し始めればつながっていくのが幼馴染の良いところだ。
「コンクールっていつ?」
「今週末」
「早いなおい」
「……そだね」
俺のツッコミに、一瞬間が空いてから返事が返ってきた。俺は、その間が少し気になって横を見る。そこにあった彼女の横顔は、楽しみにしているようでもなく、かと言って緊張しているようでもなかった。幼馴染の勘だが、なにかを隠してるような、そんな雰囲気だった。そう思った途端、心なしか雨が強まり、傘を叩く音が大きくなる。
「……どうしたんだよ」
「え、なにが?」
俺の問いに反応し、葵は笑顔を咲かせてこちらを向いた。一見なんの問題もなさそうだが、俺に遠い方の右手では、肩まで伸びた艶やかな黒髪を指に絡めている。そして、その姿を見て確信した。こいつは昔から、自分の弱みを他の人に見せたがらないのだ。
「お前、不安な時に髪の毛先をいじる癖、変わってねーな」
「嘘!? そんな癖あったの?」
「気づいてないのかよ……」
俺はちょっと呆れた。いつから気づいたのかは自分でも忘れていたが、それくらい昔からの癖なのだ。てっきり、自分でも理解しているのかと思っていたけれど。
「……で、なんだよ?」
「う、うーん……そう、ね……」
葵はモゴモゴと口を動かしながら、傘から右手を出して雨の強さを確認する。だが、あまりに雨が強かったため、すぐに手を引っ込めた。その動きから、明らかに動揺していることが見て取れる。
「……でもまあ、一輝ならいいかな」
右手をスナップし、付着した雨粒を振り払いながら、葵は迷いを消し去ったように頷いた。
「実はね、転校するんだ。私」
瞬間、雨の音が消失する。停止しかけた俺の脳は、彼女の言葉の意味を理解するのに時間を要した。これ以上なくシンプルな言葉の意味を汲み取るだけに精一杯で、他の情報は全て遮断してしまう。でも実際のところ、自分がなんでこんなに動揺しているのかわからない。
「…………どこに?」
俺は気持ちの落ち着かないままに、そんな質問をなんとか口に出した。その声は、少し震えていたと思う。
「ホッカイドー」
エセ外人風に発音したそれを、北海道だと認識するまで、また数秒かかった。そして、何か考える前に「遠いな」と口を突いて出る。「だね」と葵は頷いた。その笑顔は、やっぱり少しだけ寂しそうだ。
「いつ行っちゃうんだ?」
「今週末。コンクールが終わったらすぐに」
「はあ? 急すぎるだろ」
あっさりと言ってのけた葵に向け、つい不満げな声を上げてしまう。だが、よく考えると、最近は葵と会話すること自体全く無かったので、仕方ないといえば仕方ない。
「そうだね……でも、これ言ったの一輝が初めてなんだ」
「! 誰にも言ってないのか?」
またしても衝撃を受けた。と同時に、何故か少しだけ嬉しくなる。人が秘密にしていることを自分一人が知ってるという事実に、なんだか胸の奥がくすぐったくなった。
「コンクール前に部活の皆に言って、変に余計なこと考えて欲しくないし。クラスの友達に言わないのも、寂しがられたらちょっと行きにくくなるかなって」
葵は苦笑いで、「まあ、寂しがられないかもしれないけど」と付け加えた。だが、そんなことはないだろう。葵は昔から男女問わず友達が多い。持ち前の明るさで、自分のペースに持っていってしまうのだ。もし俺と葵の家が隣じゃなけりゃ、人付き合いが苦手な俺は子供時代にもっと苦労してたと思う。そういう意味では本当に感謝している。
「絶対寂しがるよ、皆」
「え? そ、そう? それは、ありがとう……」
俺が率直な言葉を口にすると、葵は目を逸らして口ごもる。普段は能天気な明るい性格だが、意外と褒められるのは得意ではないのだ。こういうところも変わってないなと思い、安心する。
「……」
「……」
葵は気恥ずかしさからか、黙りこくってしまい、再びの沈黙タイムが訪れた。ただ、強く降り注ぐ雨音が騒がしいため、耳が寂しくなることもなく、あまり気まずくもならない。
「……親にさ、私だけでもここに残りたいって言ったんだ」
「一人暮らしってことか?」
「うん、でもダメだって。何回もお願いしたんだけどなー」
葵は俯いているため、どんな表情をしているかはわかりづらい。判断材料の一つとなる声のトーンは、いつもと同じくらいの気軽な感じに聞こえた。ただ、微妙に震えている。ほんの、少しだけ。その震えはここを離れる悲しさからか、親を説得できなかった悔しさからか、それとも――
「こういう時、女子って不利だよねー」
そう言いながら、やっと葵は顔を上げる。その表情はやっぱり笑顔だった。それは、まるで全てを振り払ったような。悪く言えば、諦めたような。そんな、良くも悪くも吹っ切った表情に、幼馴染である俺の目には映った。
「あ、家着いたね」
「……もうか」
顔を上げると、俺たちは家のすぐ側まで来ていた。雨のせいか、あるいは話のショックのせいか、葵に言われるまでは全く気がつかなかった。
「じゃあ、またね」
「ん、サンキューな」
俺は傘を出て、慌てて家の門を開ける。軒下に入るまでたった数秒なのに、割と濡れた。寒い。
葵は隣の家のインターホンを押し、「ただいまー」とだけ言って門を開けた。軒下に入ると、傘を閉じて地面を二、三回突き、雨粒を落とす。その途中でガチャ、と鍵の開く音が低く鳴った。
ちなみに、俺の両親は共働きで今家には誰もいない。なのでさっきから鍵を取り出して鍵穴に嵌めているのだが、葵の方が無性に気になって、中々スムーズにいかない。そんな俺を少々疑問に思ったのか、葵は傘を巻き終わると、チラッとこっちを見た。だが、すぐに目線を戻し、ドアを開ける。右側から見ているため、ドアが完全に開かれると、葵の顔は見えなくなってしまった。
あと一、二秒で、葵は家の中に入ってしまい、ドアは閉じられる。そうしたら、もう二度と会えないような、そんな不安が脳裏をよぎった。別に、隣なんだからまだ会いに行こうと思えば行けるはずなのに。自分でも理解できないが、どうしようもなく息苦しくなった。まるで、海の中で急に酸素ボンベを取り上げられたような。目の前の絶景の珊瑚礁が、急に地獄の針山に変わってしまったような。強く軒を打ち付ける雨が、自分の鼓動をさらに加速させていた。
泥で塗り固められた喉をなんとかパクパク動かして、本能だけで空気の通り道を探した。何秒、何分、何時間かかっただろう。いや、本当は一瞬にも満たない出来事だったのかもしれない。それでも、必死に生を求めて、自分の答えを求めて、そしてやっと、ずっと溜め込んできた思いを、見つけた。
「行かないでほしい」
意識せずに出たその言葉が、どれくらいの声量だったかは全くわからなかった。しっかりと言った気もするし、呟いただけの気もする。ただ、葵はドアを閉めかけている手を、途中で止めた。一瞬固まった後、葵はドアを少しだけ開けて、顔をひょこっと出した。
「今、何か言った?」
いつもと変わらないトーンの葵の言葉に、俺はガッカリしたような、ホッとしたような、何とも言えない気分になった。雨も激しく降っているし、自分の声もやはりそこまで大きくなかったのだろう。ここでもう一度言うのは簡単だが、妙な気恥ずかしさから、どうしてもそういう気分にはなれず、俺はノータイムで別の言葉を投げかけていた。
「あ、えと……コンクール、見に行くよ」
「えっ……本当?」
葵は目を見開いて驚いていた。それが喜びからなのかどうかはわからないが。
「うん、ダメかな?」
「ううん、全然! 急に言うから驚いちゃって……嬉しい!」
未だドアに隠れながら顔だけ出している葵だが、その目はキラキラと輝いていた。どうやら、迷惑では無かったらしい。そう思うと、少しだけ胸が軽くなった。
「じゃあ、今度時間とか教えるねー!」
「さんきゅ」
そう言って顔を引っ込めた葵は、ドアの向こうから手だけひらひらとさせて、その後にドアを閉じた。結局、想いは伝えられなかった。俺はしばらく立ち尽くし、冷たく広がる灰色の空を見上げていた。雨は止む気配がない。
ふと目線を堀に向けると、カタツムリがいた。雨が降ったので、ご機嫌に散歩しているように見えるが、こいつは雨の日以外は一体どこにいるのだろうか。なんて、どうでもいい事を考えるくらいには現実逃避をしたかった。
俺はカタツムリを見つめながら、呟く。
「本当に、遅すぎだっつーの」
今日は、やっぱりついてない。
◇◇◇
そこから先はあっという間だった。一週間はあれよあれよと言う間に終わってしまい、コンクールには部活の練習をサボって行った。後日走らされた。
俺は音楽に関して全くの素人なので、正直どの学校が上手いとか全然分からなかった。どれもめちゃくちゃ上手いな、としか思わない。ただ、どうしても贔屓目線で見てしまうのか、うちの学校が一番美しい音色を奏でているような気がした。
うちの高校が演奏していた曲は、音楽に疎い俺でも知っているような、有名な曲だった。確か、ちょっと前に流行っていて、テレビなんかでもよく流れていた。手紙を題材にした楽曲で、自分と同じ歳くらいの人は、ちょうどグッとくる歌詞とメロディーだ。気づけば、自分や葵を曲に重ねて聴き入ってしまっていた。だからだろうか、葵の演奏は誰よりも感情がこもっているように思えた。
そして、その点が評価されたのか、はたまた俺の理解出来ないくらい、繊細な技術が評価されたのか、うちの学校は金賞を取った。要するに金メダル、優勝という事らしい。発表された瞬間、会場は大歓声と拍手に包まれ、葵は同じ楽器の女の子と抱き合い、泣いていた。
単純に凄いと思ったし、おめでとうと言いたかった。ただ、自分の知らないうちに、葵は既に遠くに行ってしまったような気がする。この雰囲気で声をかけようとも思えず、俺は一人会場を後にした。
そして翌日、葵はこの町を離れた。
彼女がいなくなっても、俺の学校生活は残酷なくらい何も変わらなかったが、俺は決して、葵を忘れることは出来なかった。
◇◇◇
あれから二年近くが経ち、俺は東京の大学に進学して一人暮らしを始めた。広くはないが、安くて近いアパートだ。荷物は全部運び終わり、一段落ついた。と思ったのだが、今日は隣の部屋の引っ越しを手伝うことになってしまった。まあ、そこの住居人はあいつだから仕方ない。
「葵ー、これはどこに置けばいい?」
「あーっと……奥の部屋にお願い!」
「はいよ」
俺は宅急便のマークが入った段ボール箱を、二段重ねで運んでいた。洋服が入っているようで、なかなか重い。膝もうまく使いながら、何とかバランスをとる。
「どっこらせ」
一応人の物なので、注意を払いながらゆっくりと下ろした。一息ついて顔を上げると、窓の外ではあの日のように雨が降っていた。あの時は本当に驚いたが、今となってはいい思い出だ。
「よーし、休憩しよー」
葵はほぼ空っぽの冷蔵庫を開けて、1,5リットルペットボトルに入ったお茶を取り出した。ダンボールから出しておいたコップを水洗いし、そこに注いでいく。
「はい、一輝の」
「どーも」
コップを受け取り、口につける。さっき買ったばかりなので完全に冷えてはいなかったが、ほどほどに乾いた喉を潤すには十分だった。
葵は自分の分を注いだ後、勉強机の前に置かれたダンボールから、一つの箱を取り出した。鼻歌交じりで、ニヤニヤしながらこちらに持ってくるのを見て、なぜか少し悪寒がする。
「なにそれ」
「宝物だよ」
そう言ってはにかむ葵だったが、それでも俺の中のモヤモヤは晴れない。
「宝物?」
「ふふっ、ジャーン!」
マジシャンのように大げさな手つきで、葵は箱を開封した。そこに入っていたのは、手紙の山。それも、全て見覚えのあるやつばかり。悲しいことに、俺の悪い予感は的中した。
「俺の送った手紙じゃねーか……」
「そうだよ、宝物!」
「取っとかなくていいっつーの、捨てろよ」
「そんなこと出来ないよー」
俺が奪い取ろうとすると、葵は箱ごとヒョイっとかわした。俺は恥ずかしさからか、いつのまにか顔が赤くなっているのを感じた。
「それにしても、最初に手紙送ってきてくれた時は本当に驚いたよ」
「悪かったな、急に」
「いやいや、本当に嬉しかったよ!」
葵は満面の笑みで応える。この顔が見れただけでも、送った甲斐があったのかもな。
「でも手紙なんて意外とロマンチストだよねー。ラインや電話でも良かったのに」
「うっせーな、ちょっと面白そうだと思っただけだよ」
俺は恥ずかしさに耐えきれずそっぽを向いた。葵達が演奏していた楽曲に影響を受けたなんて、言えるわけがない。
「まあ、私達がコンクールで演奏した曲に影響されたんだろうけど?」
「っ……!」
バレとんのかい!
「ははっ、図星だ。昔からほーんと影響されやすいんだからー」
ニヤニヤしながら俺の後ろに回り込んでくる葵が、今はウザくてしょうがなかった。俺を茶化すように後ろから首筋を突いてくる。
「やめい! だったらお前こそ、なんで急に俺と同じ大学に行きたいって言ったんだよ?」
「えっ、それは……一輝が言ってくれたから、かな」
背後にいるので表情は読めないが、何故だか葵は恥ずかしがっているような声色だった。突然様子が変わったので、多少不思議に思ったが、そのまま会話を続ける。
「言ったって、俺何か言った?」
「…………『行かないでほしい』って」
その言葉を聞いたとき、全身から温度が無くなった。というより、世界から隔離されたように感じた。だがその後に、今までにないスピードで心臓が動き出し、噴き上げるように血が逆流する。その血はグツグツと沸騰していて、俺は耳までゆでダコのように赤くなっていた。もっとも、そんなことを気にする余裕などなかったが。
「お前っ……聞こえてたのかよっ!!」
「あっははははははっ!」
俺が振り向く前に、既に葵は爆笑しながら逃げ出していた。狭い部屋での追いかけっこが始まる。そういえば、小学生の時は、こんな風に葵と追いかけっこをよくしたものだった。そんな事を思い出し、ちょっと懐かしくなる。
「おらっ!」
「きゃー」
捕まえた。この年になれば男女の身体能力の差は圧倒的だ。葵は既に息が少し上がっていて、顔も火照っていた。
「あっ、雨上がってるよ!」
葵は、窓の向こうの空を指差して言った。たしかに、さっきまで聞こえていたはずの雨音はいつのまにか消えている。
窓を開けて空を仰ぐと、そこには一面の青空に、七色の橋が架かっていた。
「虹……久しぶりに見た!」
「……あぁ」
葵は子供の頃と変わらない輝く瞳で、子供の頃と変わらない虹を見上げていた。
雨が降っても虹がかかったり、葵が一度離れても戻ってきたように、やっぱり悪いことの後には良いことがある。そう思えば、雨も別れも嫌いじゃないな。
誰もが見上げる美しい虹の下では、二匹のカタツムリがゆっくりと、ゆっくりと近づいている。
それに気づく人は、いない。