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君主と歌姫

作者: miette

シャンデリアの煌めきの中で、大きな丸い輪を描いて大勢の賓客がうきうきと行き交わしていた。料理の匂い、客たちのおしゃべり、笑い声、オーケストラの演奏が作るざわめきが高く天井の伸びた大広間に楽しげに響いていた。その奥では一番の上座に騎士団長、次いで副団長、さらに騎士の面々が並んで晩餐会の行方を見守っていた。

戦力で国や市民から恐怖を取り除くことを仕事とし、日々鍛錬やロストとの闘争を行っている騎士団や武骨な騎士にとって華やかな晩餐会の主催というのはまさに畑違いの仕事である。だが、戦々恐々とした生活に疲弊し、負の情に侵されていく騎士や市民の様子に心を痛めていたある時、市井では娯楽による楽しみが人々を楽しませ、苦痛や心労を慰めているという話を聞いたのだ。

騎士の務めとは剣を取って戦うことでなく、大衆の生活を苦しみから守り、祖国から戦禍を打ち払って活気づけることにある。戦いは手段のひとつに過ぎない。人々を癒す力があるならば、軍事力と同様、娯楽の力も人民や国に役立てるのが騎士団の使命なのだ。そこで暁の騎士団はソレイユ一の社交場を借り上げ、心を楽しませる大規模な晩餐会を開催した。そこには騎士も市民も関係なく参加できる。国中から人々を楽しませる芸人や音楽家、旅劇団を呼び寄せ、客は心ゆくまで楽しい時間を過ごせる。戦火の中にある全ての人が招待されている。大いに楽しんでもらい、傷ついたその心を慰めてもらいたいのだ。

立派な上座に座った騎士団長のルーテルは、楽しげに浮かれた客たちを満たされた顔で見ていた。

その傍らには彼の親族である娘、アナスタシアという名前の若い騎士が控えていた。アナスタシアは宝石のような美貌に冷ややかな凛然とした顔立ちをたたえ、若者ながらに支配者然とした威厳を持つ王族の少女だった。立ち姿からは一市民には決してない圧力が醸し出されており、容姿は極めて美しく怜悧だった。

「こんなご時世だ。束の間でも皆が楽しい思いをしてくれるのなら、晩餐会を開いてこんなに嬉しいことはない」

「勉強になりますわ」

アナスタシアは鈴のような声で言った。

「私は人々の感情や不安だけでなく、希望や楽しみも理解したいのです。大勢の民衆の未来を担う人間には民衆を知ることが必要ですもの。騎士として、王族として、私には彼らのこれからの未来を背負う責任があります。彼らを知り、彼らの心を支える術を学ばなければいけません。そしてそれは必ずしも騎士の剣だけではないはずですわ」

「戦いを招いたのは人の怒りや悲しみだからな。解決するのもまた人の心ということかもしれない。騎士の剣が心の支えになっているのはほんのおまけさ」

アナスタシアは真剣な眼差しでルーテルに頷いた。王族の自覚と崇高な野心を持ち、熱心に自らを磨き上げることを義務としている彼女にとっては見聞きするものの全てが自らの目を高める糧であり、価値があった。

その時、不意に一人の侍従が声を掛けてきた。

「アナスタシア殿下、今度の出し物は期待できますぞ。ソレイユの劇場からオペラ歌手を呼び寄せました」

真剣に引き締まったアナスタシアの顔を見て気を遣ったのか、唐突にそのようなことを明るく言う侍従にアナスタシアは沈着に問い返した。

「オペラ歌手?」

「なんでもまだ18歳ですが、ソレイユでは大人気だそうで。類い稀な歌声を持つ花のごとき歌姫だと評判です」

「才能豊かな人ね」

「巷ではエリーという呼び名で通ってらっしゃり、市民に愛されている娘だそうですがーーー」

不意に場内が静まり返り、侍従もお喋りを止めた。

舞台の上に裾の広がった白いドレスを着た少女が立っていた。輝くばかりの優美な姿に、可憐な微笑みを浮かべ、優しげな白い手を体の前に組んでいた。その姿はまるでこの世の人間ではないように清らかで美しかった。アナスタシアは少女の自信に満ちた立ち姿に思わず見入り、視線を釘付けにした。

「ご来場の皆様、どうぞご覧ください。ソレイユ一のオペラ歌手、ガブリエーレ・ファスビンダーです。どうぞお静かに。ただいま彼女の歌をお聞かせします」

司会役の係員が高らかに宣言すると、楽士たちは一斉に演奏を始めた。可憐な前奏が流れ、続いて、ガブリエーレはまるで天上から降りてきたかのような澄んだ声でアリアを歌い出した。

観客はその歌声を聴いて息を飲んだ。

そのアリアの軽やかなことは、まるで飛ぶ鳥のようだった。そして素晴らしい声だった。天使のように楽しく、優しい歌声で、豊かな響きが心を満たして全てのしがらみを忘れさせてしまうようだった。アナスタシアは息を詰めて魅入った。人々は咳さえ憚ってアリアに神経を集中させていた。広間中にその豊かな美しい声が響いていた。アリアが軽やかに流れていく。ガブリエーレの歌は今まで聞いたこともないアリアだった。軽やかで、華やかで、まさに聞き惚れるうちに心の傷さえ消えてしまう美しい歌声のアリアだった。アナスタシアは自分が目にしているものが信じられない気がした。こんな歌を歌ってしまう人が、今、実際に自分の前に存在しているのだということが不思議だった。幻のような少女だった。

呆気に取られて聴いているうちに楽隊の演奏がしめやかになり、曲は静かに終わった。途端、会場からは割れんばかりの拍手と喝采の騒音が発された。頭が割れそうなほどの騒ぎだった。アナスタシアは我に帰ると、慌てて立ち上がり、自分も手を叩いて「ブラボー!」と叫んだ。

大騒ぎの中で、ガブリエーレは少しも心を乱さずに優雅にスカートを広げてお辞儀をすると、案内役の楽士の一人が差し出した手を優しく取って幕へと消えていった。まるで夢のように歌い、去っていってしまった。アナスタシアはなぜか感傷的な気持ちになった。

客たちはまだ興奮して、昂ぶった調子の声でざわめきを交わしていた。

「素晴らしいわね」

アナスタシアが恍惚と呟くと、

「よろしければ、お呼び致しましょうか」

侍従の提案に彼女はにわかに色気立った。

「お会いできるの?」

「お色直しがあるので長居は出来ないでしょうが、喜んで会うことでしょう」

「ならばぜひお願い」

侍従はさっと人を割って歩き出した。アナスタシアがついていこうとすると、

「殿下はこちらでお待ちください」

「良いのよ、私が行くわ。出番が終わって安心なさっているでしょうに、もう一度呼び戻してはかわいそうよ」

言い放つと、「案内しなさい」と凛然と告げた。

押し合う人波の中を侍従について歩き行くと、熱気が肌に伝わってくるようだった。距離にしてはあまりないはずだが、客たちに押し込まれないようかきわけるために、前進にひどく手こずった。苦労して少し歩くと、その先にいかにも興味を引かれるようなぽつりと一つで伸びた扉があった。その先が楽屋口である。

「どうぞ」と扉を開いてもらって中に入ると、小さい廊下に出た。広間の煌びやかなシャンデリアではなく、もっと実用的な白いランプが明るい光を浴びせてきた。その別世界感がかえって特別な空間であることを感じさせ、アナスタシアの好奇心を刺激した。

「ガブリエーレ・ファスビンダーの楽屋はこちらです」

侍従はそう言うと一つの扉を叩いた。

アナスタシアはそのいきなりの展開に密かに狼狽した。しかし、すぐに中から「どなた?」と返すあの声が聞こえると、彼女の心臓はいよいよ縮み上がった。

「ファスビンダー様、お取り込み中失礼致します。実はアナスタシア殿下があなたに興味をお持ちになり、直々にお話がしてみたいと殿下自らこちらへ足をお運びになられました」

扉の向こう側は黙り込んでしまった。ガブリエーレがまさにそこにいることはわかっているが、彼女が何を考えているかは皆目分からず、アナスタシアは焦れったかった。

「お疲れでしたらどうぞ気にしないで。いきなり訪ねたのは私の方ですもの」

黙っていられずに声を張り上げると、すぐに扉の向こうから返事が来た。

「いいえ、喜んで、ぜひお目にかかりたいですわ。光栄です、殿下」

そして扉が開かれた。

そこにいたのは、まるで花のような妖精のような、輝くばかりの美しい娘だった。彼女は深く頭を下げ、敬意をもって丁重にアナスタシアを出迎えた。アナスタシアは女神のように見えたオペラ歌手が自分を丁寧に扱ってくれることに深く感激した。

「お初にお目にかかります、殿下。ガブリエーレ・ファスビンダーでございます」

舞台で見たままに美しい声で優しい挨拶の言葉をかけられると、いよいよ対面しているのが自分でも信じられず、夢でも見ているのかという気にされた。思いがけぬ対面がこの上なく嬉しいものの、頭が回らなくなるほど緊張していた。だが、才能への尊敬を彼女に深く示さねばならないとも強く感じていた。アナスタシアにとって彼女は賞賛すべき相手であり、身分を理由に軽薄な感覚で尊大に振舞って良い相手ではなかった。

アナスタシアはかける言葉に迷いつつも丁重に話しかけた。

「よく歌いに来てくれたわね。素晴らしい歌だったわ」

内心の緊張を隠して柔らかな手を差し出すと、ガブリエーレは有難そうに握手を返してくれた。アナスタシアは密かに喜びで心臓が跳ね上がった。

「光栄でございます」

「私こそ、貴方のような方と直接話せて光栄よ」

「嬉しいお言葉でございます、殿下。道半ばの私にはもったいないですわ」

「遠慮することなどないわ。貴方はその歌で人を元気づけている。素晴らしいことだわ」

ガブリエーレは光栄そうに微笑を浮かべて立っていた。

「今夜のように、素晴らしい芸術には人を感動させて心の苦しみを癒す力があるのね。戦いで疲弊している市民や騎士の生活に楽しみを与えている貴方には本当に敬意を払うわ。怒りや悲しみに侵されている人々を助けるために力を尽くすのは私達騎士の大切な義務だもの」

「ご立派な心がけですわ」

「当たり前のことよ。力や才能があるのならば、磨いて役立てなければいけない。持っている者は、持っていない人のために分け与えるのが使命なの。だから私達の役目は、持って生まれた財産を使って戦いの苦しみから人々を救い、楽しく平穏に暮らしてもらうために尽力することよ。それが王族に生まれた私の義務でもあるの。そんなことも分からない私ではないわ」

アナスタシアは凛と言い切った。その言葉には17歳の未熟な心がけも、矮小な人間の偉そうな演説もなかった。気位が高く、高貴で、聡明に物事の本質を見抜いているアナスタシアであるからこそ自然に出た言葉だった。

「だからね、人に夢と愛情を与え、生きる力を与える貴方のことは本当に尊敬しているの」

「私の歌が聴いた方の力になっているならば、これほどの喜びはありませんわ。有難いことです」

ガブリエーレは嬉しそうに華やいだ微笑を見せた。

「間違いないわ。貴方の才能は必ず、戦禍の中の人々の支えになっているはずよ。そして貴方の笑顔は、まさに戦いの中に咲いた花のように周りを和やかにしているわ。花のような歌姫という貴方の呼び名は本当のことね」

「嬉しいお言葉です」

ガブリエーレは静かに言った。

「花というものは、折ろうとする手に抗う力はございません。大勢の手に守られて初めて花は美しく咲くのです。ですから、傷も汚れもなく育ったことを恥じたり情けなく思うのではなく、愛し守ってくれた大勢の人に報いるためにも、目一杯大きく美しく咲き、境遇が辛くあろうともたくさんの人の安らぎを導き、他者を苦しみから救い幸福にする存在であることこそが私の務めだと決めているのです。ですから今宵、お客様が私の歌で楽しんでくれたのならばこの上ない喜びです。それこそが私の本望ですわ」

穏やかに、落ち着きのある様子でオペラ歌手は申し上げた。

アナスタシアは王族という身分も忘れ、すっかりこの芸術家の吟持と知性に畏敬の念を抱いていた。深い学びを得たことがとても幸せだった。

「私も貴方のように、弱い人を辛い境遇から守ってあげる力を持っていたいものだわ」

「あら、私はいつも殿下の行いに敬意を払い申し上げていますわ」

「本当に?」

「私は殿下の誇り高い行動にいつも感銘を受けております。殿下のような気高く聡明な方が私たちについていてくださるのは本当に心強い限りです。どうぞこれからも私ども民衆に勇気をお与えください」

アナスタシアはガブリエーレから受ける言葉を誇り高く嬉しく聞いていた。

「もちろんそうするわよ。騎士団や戦えない民衆の未来を担う責任を怠るつもりはないわ。私がいる限りは余計な心配などしなくて良いように、さらに己を鍛え続けるわ」

アナスタシアは自信と自負に満ちて言った。まさに天から授かった崇高な精神が、優秀な才知を余さず糧にしているような姿だった。誇りと知恵を得てますます鋭利になった魅力と君主に相応しい格調高い美しさに輝いていた。ガブリエーレは力強い女騎士の言葉を恭しく聞きとめた。

だが、その時、楽しいお喋りをそろそろ終わらせねばならないほど長い時間を過ごしていたことに、彼女は唐突に気がついた。

「あら、殿下」ガブリエーレは囀るような声を上げた。

「どうかしたの?」

「私は行かなければならないようですわ。きっともう迎えが表まで来ていることでしょう。お話しできて本当に嬉しゅうございましたわ」

アナスタシアは名残惜しげに言った。

「普段はどちらにいらっしゃるの?」

「アン・デア・ソレイユ劇場でいつでも歌っています。父の劇場ですわ」

「では、私いつか行くわ。また貴方の歌が聴けるのが楽しみよ。お父様にもよろしくお伝えして」

「喜びますわ」

ガブリエーレは花のように嬉しそうに笑いかけた。その時、楽しい雰囲気に割って入るように扉を叩く濁った高い音が聞こえた。ガブリエーレはすぐに扉を開けて、外に控えている楽士を迎えた。

「着替えてないのかい」

「ええ、まあ。だけどたまにはシンデレラになった気持ちで意外な登場をしてみせるのも悪くないかもね」

ガブリエーレはくすくすと悪戯そうな笑い声を上げて楽士の出した手を取った。アナスタシアが追おうとすると、彼女はくるりと振り向いてはもう一度微笑んだ。

「それでは。殿下、お会いできて光栄でしたわ」

「こちらこそ。貴方のますますの活躍を願うわ」

ガブリエーレは可憐に笑うと、楽士に手を引かれて足早に消えてしまった。彼女がいなくなると、いつでも呆気なさが残るのが寂しかった。アナスタシアは神々しいものを見たような余韻に少しだけ浸された。まるで夢でも見ていてたった今目が覚めたように、ガブリエーレの知性ある顔立ちが蘇るのがどうにも切なかった。本当にこの世の人間ではない者と会ってしまった気分だった。

だが、彼女の心はまたひとつの財産を得た満足を感じていた。アナスタシアは少女らしい興奮を心に、騎士らしい叡智を顔に持って、客たちが楽しく騒ぐ大広間へと踵を返した。どこまでも響き渡る客たちの歓声が楽しげに耳に残った。

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