少年と景色と変化
あらすじから読む気が起きないならごめんなさい。
一つ一つ手厳しい意見をくださると幸いです。
俺は一人の人間だ。一人では生きていけない、牢獄と同意義のあの部屋の中で決められた筋書きの中を歩かされる、ある意味哀れである意味幸福な人間。
だが、俺は決められた人生を喜んで送るような人間ではない。自由を求める自由人、そんな人間が束縛を好むはずがない。
ある日、牢屋と同じ役割を果たす豪華な檻の中から青空を見上げていた。広さが取り柄の私有地の中心に位置する建物から覗いているから、外に知らない人間は一人もいない。
何の罪も犯していないのになぜ俺が囚人のような生活を送らなければならない? 代わりはいくらでも、むしろ望んでいる人間もいるというのにわざわざ望んでいない俺を選ぶ必要があるのか? だが理不尽とは言わない、親には親なりの理由がある。これは俺個人の我が侭に過ぎないのは解っている。
しかし不愉快だ、俺に全てを押し付けないで望む者にくれてやったらどうだ。俺が何をしようが俺の勝手だ、今まで俺に好き勝手してきたお前等が偉そうに説教ができる立場なのか? 俺にお前等の都合を押し付けるな、自分で言うのも何だがこちとら年端もいかない子供だ。どうかしてる、どうしてお前等は自分の幸せにしか興味を示さない?
不愉快だ、子には子の人生があるというのにお前等はそれをことごとく邪魔してくれる。不愉快だ、人間というのはこうも自分勝手なのか。不愉快だ、ならば同じ人間である俺も如何なる勝手をしようが誰も文句は言わない、言えないだろう。不愉快だ、俺は誰かの玩具じゃない――――
青空を見て、大空を自由に羽ばたく鳥を見て……自由が欲しいと、そんな考えがゆっくりと俺の頭の中で再生された。
暑い暑い真夏の昼下がり、俺は刑務所に等しい豪邸を抜け出した。
逃げるのは容易い事だ、不測の事態に慣れていない者の行動力や統一性といったら、言ってしまえば卓上のゲーム程度のものだから。奴等を欺く事など朝飯前、追手を撒く事など昼飯前。ただ、俺専用のキャッシュカードや通帳などが使えなくなるまでに金を下ろして着ている服を変える事だけは夕飯後だった。
俺は半分だけ勝ち誇った、残りの半分は住む場所を決めてそこを新たな家とするまでに取っておいた。
小さな宿の小さな部屋の中でこれからの事を考えると、さっきまでの余裕は無い事に気付く。どれだけ頭が良くて運動神経が卓越していても所詮は酒の味も知らない一人の子供、あの豪邸に住む人間達が財力や権力という本気を出してしまえばあっという間に見つかって連れ戻されるだろう。
だから俺は笑わなかった。どれだけ有利な状況でも、油断すればすぐに逆転する現実の厳しさはあの豪邸の人間達を見ていてよく解っているから。相手が負けを宣告するその時まで本心で笑うのは愚かな事なのだ。
そして、緊張したまま一夜を過ごす。そのせいもあって少しだけ寝不足だったが、目の下にクマができる事といえばこれが初めての体験なので逆に寝不足の感覚を楽しんでいた。
昨日よりも更に暑さが増した真夏の昼下がり、駅のホームで電車を待つ。昨日まで俺が住んでいた豪邸は田舎近くにあり、そこから数キロ程離れた駅も田舎の駅なので電車の来る間隔がとても長い。待っている時間はとても退屈だが、あの牢屋にいるより遥かに有意義に感じられた。
全てが新鮮に見えて、これからどこへ行こうかを思考して……何気なく顔を横に向けて、俺の中の時が止まった。
数メートル先に立っていたのは、大きな麦わら帽子を目深にかぶり、真っ白いワンピースに真っ白いストールを合わせた真っ白い肌の女の子だった。顔がよく見えないので同い年かも判断する事ができないが、ただ儚く美しい女性だという事だけは解る。
触れるのも躊躇われるような細い両腕で持っているのは彼女には大きすぎる旅行鞄。代わりに持ってあげたくなる、そんな衝動に駆られてしまうくらい見ていて不安になる。
俺は彼女に見惚れていたのだろう、彼女が俺の視線に気付きこっちに顔を向けるまで身動き一つ、それどころかまともな思考すらできなかった。視線が合うと思わず顔を逸らしてしまう、なにか悪い事をした気分だった。それと同時に顔がいつもより熱くなり、今の俺が彼女に見られているかと思うと恥ずかしくて、それこそ穴があったら入りたい気分になる。
彼女は今どんな事を思って、どんな風に俺を見ているのだろう? 頬を伝う汗を感じながらそう思った。変な人だと思われているんじゃないのか、訝しげに見ているんじゃないのか……
「こんにちは、これから旅行ですか?」
「……え?」
彼女の言葉は、俺が考えていた事と著しく違っていた。まるで知り合いと偶然会ったように、ただの世間話をしているような軽い口調。
その意外性もあるが、俺は彼女の声を聞いてまともな返答ができなかった。数メートルは離れているというのにハッキリと聞こえてきて、透き通るようなその声は耳に触れている空気のようにすんなりと収まる。
「えぇ、まぁ。当ての無い旅です」
「当ての無い旅、ですか?」
彼女は俺の返答に対して不思議そうな顔をして首を傾げ、何かを考えていた。その一連の動作を見て、俺はしまったと内心焦る。
どこかへ行くと言うのならともかく、当ての無い旅なんてそのまま家出した人間が言うようなセリフじゃないか。見知らぬ他人が相手とはいえ、気を抜きすぎている自分をどこか人の見ていない所で叱りたい衝動に駆られた。
「お連れの人はいない、ということは一人旅ですか……かっこいいですね」
俺が一人だけで旅をするのかを確認して、そう言って、彼女は微笑む。
その微笑んだ顔が可愛くて、少し前に見た大空を飛ぶ鳥のように輝いていて見えて。気が付けば俺はまた彼女に見惚れていた。
遠くから、テレビでしか見たことのなかった大きな箱が線路を走る音が聞こえてくる。ようやく電車が到着するらしい。
電車の到着を誰よりも待ちわびていたのか、彼女は線路を走る音を聞くとすぐにそっちの方へ体を向けて背伸びした。その、子供のような仕草がまた俺の思考回路を止める。
「電車、好きなんですね」
うまく考えがまとまらないというのに、俺の口は勝手に動いていた。
「はい、大好きです」
彼女はどういう時にどういう行動を取るのか、彼女はどういう人なのかが気になっている。彼女が俺にもう一回微笑む笑顔を向けてきた時、その事にようやく気付く。
もっと彼女の事を知りたい……俺は一目惚れしていた。
電車がホームに到着し、自動ドアが開かれる。彼女はすぐに電車の中へ入っていこうとするが、思う所あって呼び止めた。
「あ、あのっ……よ、よかったら、同席しても、いいでしょうか?」
一言一言噛まないように丁寧に、一つ一つの言葉を確かめるように言う。会って間もない人間がいきなり同席していいか訊くなんておかしいだろうけど、話をするキッカケが欲しかった。とにかく彼女と話がしたい、ここ数年間閉ざしていたはずの本心が自分を動かしていた。
彼女はきょとんとした顔をこちらに向けたまま動かなかったが、すぐにさっきの笑顔に戻って頷く。
「はい、よろしくお願いします」
その答えにホッとして、俺は彼女の後を追うように電車の中へ入った。
ドアが閉まって少し経つと自分の立っている場所が大きく揺れて、その突然の出来事に抵抗できず尻餅をついてしまう。どうも浮かれて電車の中は揺れる事を忘れてしまっていたらしい。それは無様な転び方だった。
恥ずかしくなって顔を下に向けて目を合わせないようにしていたが、彼女はそんな俺の失敗を笑う事はなかった。
「初めて電車に乗るんですね、大丈夫ですか?」
むしろ、俺が電車に乗った事がないのを見抜いた上で心配そうな顔をする。それを見て、一つの行動でどういう人間なのかが解る人なんだな、と素直に感心していた。
差し伸べられた手を掴んで、今度は体勢を崩さないようにしっかりと立って車窓から流れる景色を見ると、俺の知っていた世界とはかけ離れている光景が次々と流れていくのに驚かされた。
数え切れないくらいの山や森、川に田んぼ、そして民家が右から左へ流れ、一つ一つ形の違うそれらが現れては消えていく。
あの場所の窓から見える景色はいつも同じ物しか映さなかったのに、この電車という狭い空間から映し出される景色は全てが違う物に変化している。流れる景色は空も同じで、地上とは違ってゆっくりとした動きだが少しずつ景色を変えていく。
風のように流れるその景色を見ていて、やがて頬を伝う物に気が付いた。
豪邸を抜けた先の小さな田舎町、その駅を通る電車。
その電車の中から見える物はこんなにも世界が違っていて、何もかもが新鮮で。
何よりも、初めて外の世界というモノを目にして感動していた。
ふと、ハンカチが差し出されているのに気付く。彼女の物らしい、可愛らしい花の刺繍が施されてる白いハンカチだ。
それを受け取って涙を拭う。彼女は何も言わずにただ微笑みかけている。彼女もこの景色が好きなのだろうか、そんな事を思った。
「こっちに来てください、もっとよく見える場所を知ってるんです」
返されたハンカチをしまって、転んだ時のように俺に手を差し伸べて言う。俺は一言「はい」と言って彼女の手を取る。
彼女に手を引かれて行く中、ある疑問が浮かぶ。
この先、見知らぬ土地に足を踏み入れた時も今と同じく違った景色が見えるのだろうか? 今と同じ感動を秘めた世界が広がっているのだろうか?
もしもそうだとしたら、これからが楽しみでしょうがない。どういう景色が現れるのか、それはどういう景色なのか、考えるだけでも胸が躍る。
(その景色を、この人と一緒に見たらもっと良く見えるかな)
唐突にそう思った。まだお互いに自己紹介もしてない赤の他人という間柄だが、これから仲良くなって一緒に色々な景色を見に行く事になったらとても素晴らしい事だろう。そうだ、俺は今そうしたいと心の底から思っている。
「あの……」
その願いを叶えるために、俺は口を動かす。さっきまで重く開きたがらなかった口は、今度はすんなりと、簡単に動いてくれた。
「あなたの、お名前は?」
今まで閉じこもって動こうとしなかった自分の中の何かが動いている。
次々と流れていく周りの景色達に囲まれながら……俺は自分の中の世界が変わっていくのを感じていた。