暗闇の中の少女
序章
人の気配が感じられない深夜の路地裏。建物と建物の間の、この細い路地には街灯はもちろん一つもなく、路地のつながる大通りから漏れた光がわずかに差し込んでいるだけだ。近くの居酒屋から出た生ゴミを入れたダストボックスからは、生臭さが漂っている。
午前一時。この路地に、二人の若者が入ってきた。いわゆる彼らは不良で、人通りの少ないこの場所を好んでいるようだ。二人のうち身長の高い男が、地面に腰を下ろす。もう一人の太い男も同じく隣に腰を下ろした。太い男はポケットからタバコを取り出し、慣れた手つきで火を付ける。身長の高い男に薦めたが、それを彼は断った。吐き出された煙草の煙が、路地の薄暗い空気に溶け込むように淀んだ。
「お前、金あるか」
身長の高い男は、財布の中身を確認して、わずかな額しかないことに気が付いた。
「全然ないっすよ。そろそろ盗らないといけないと思っていたところっす」
すると、太い男が、煙草をくわえながら言った。
それからしばらくして、二人はあまり人目を気にしなくていい深夜のうちに金を誰かから巻き上げようと決め、重たそうに腰を上げた。午前二時頃のことだった。比較的人を見つけやすい大通りに狙いを定め、大通りに出ようとした、その時。
路地の向こうから、何やら人の影のシルエットがぼんやりと浮かび上がった。それはこちらに向かって、影を大きくして近づいてくる。
しめた! わざわざ路地に迷い込んできてくれるなんて、探す手間が省けるし、不審な行動を捉えられる心配もない。二人は急いで、ダッシュボックスの物陰に身を潜め、様子を伺いだす。
そのシルエットが少し解けたのは、大通りから漏れるわずかな光がそれを照らした時だった。それは足がすっぽり隠れる丈の、長袖のフードを目元まで深く被っていて、顔全体を確認することはできない。しかし、肩まで伸びた長い髪が、フードからはみ出していて、女性であることを物語っていた。彼女が近づくたびに、ブーツのコツコツという音が反響して、まるで水滴が滴った後みたいに波紋のように路地に広がった。
「女だな、あれは」
「無用心っすねー、こんな遅くに一人で出歩くなんて」
太い男はニヤリと笑みを作り、のっそりと彼女がダッシュボックスを通過する間際まで息を潜めていた。そして、ダッシュボックスに差し掛かるその時になって、彼女の前に立ち塞がった。彼女は進めていた足を止める。
「こんばんは、お嬢ちゃん。どうしたんっすか、こんな遅くに。危ないよー。俺たちがおうちまで送ってあげるから、お嬢ちゃんは付いて来なよ、な?」
と、彼女のフードを覗き込む。でも彼女はさっきから顔を上げずに、ずっと目元を明らかにしない。そして、黙っていて何も答えなかった。
「……………」
「どうしたんっすかぁ。そんな怖がることはないんすよ。ほら早く早く」
太い男は彼女の手をとり、強引に連れて行こうとする。それは小さく柔らかい、しなやかな手だった。しかし、彼女はその場を動こうとはしない。まして、頰の動きや口元も、何も物語る様子もなく無表情のほかない。全く怯えているという仕草もなく、まるで目の前に壁があって、ただその前で立ち止まっているような一人の女性の姿がそこにはあった。
「……金持ってないか?」
背の高い男は、落ち着いた静かな声で言う。
「……ない」彼女は、息を吐くぐらい小さな声で答えた。
「……そうか。ならいいだろう。気をつけて帰れ」
と、太い男がつかんでいた手を引き離そうとした。しかし、太い男はそれを振り払う。
「ちょっと何言ってるんすか! もうしょうがないっすねー。このまま返すなんて甘いんすよ。お嬢ちゃん、持っていないのなら、それに合った対価として……ふふふ」
と、今度は太い男が撫でるように肩に腕を回し始めた。
「おい、何してるんだよ」
身長の高い男は、それを制する。しかし、太い男は無視してにたっと笑いながら、彼女の耳元に向かって囁いた。
「ちょっといいことやらないっすか」
「ちょっと待て。俺たちの目的は金を取ること。そんな身体目的じゃないだろ。おい、やめ……」
「どうせ犯罪を冒すのには変わりないんすよ」
太い男は鋭い目つきで、身長の高い男を睨む。身長の高い男は、反論できなかった。たしかに筋は通っている。でも、なぜか彼女の体で遊ぶのだけはゆるせなかったのだ。体格的に見ても、まだ若い。身長の高い男は、彼女を何とかして逃がしてやろうと考えた。今に仲間である太い男を殴ってでも、それを止めようと。
――でも、そんなことを考える必要はなかった。無意味だった。次に起こる出来事があまりにも、不条理だったから。
「……邪魔だ、死ね」
一瞬それは、二人には誰の声だか分からなかった。二人のどちらかの声でもなく、かといって、「ない」と答えたさっきの少女の声でもなかったからだ。
でもそれは、少女の声だった。怒りに満ち、声の奥が深く唸るような響きを持っていた。
彼女全身を覆っていたフードが、風もないのになびき始めた。見ると、暗紫色の光がもやもやと彼女を覆い出していた。路地には薄暗い光が差し込んでいただけで、彼女の発するオーラのような明るい光は、奇妙でもあって、それに美しくなかったといえば嘘になる。
その時、彼女はフードの帽をゆっくりと後ろに下ろす。目元を覆い隠していた暗闇が消え、初めてここで男二人は顔を伺えることになる。
彼女は、紅い瞳をしていた。透き通るまでのルビー色だ。それでもって、美しいまでのシルクのような白い長い髪。その髪が、オーラの光によってなびいている。
まるで、人間じゃない。何かの人形のようだ……二人はそう感じた。目の前のことがうまく把握出来ずにぽかんと口を開けて、ただ状況を眺めていた。
……でも眺めることができたのは、ほんの数秒だったけれど。
瞬間、彼女は体全体をジャンプして宙に浮かせ、壁を蹴って一回転した反動をつけて思いっきり太い男の脇腹目掛けて強烈な蹴りを入れたのだ。
「ぐわっ……うう」
太い男は吹き飛ばされ、物凄い音と同時に路地の壁に背中から強打する。たぶん内臓がやられたのか、口から血が溢れ出していた。
さらに彼女は、太い男に歩み寄り、そこで不敵な笑みを浮かべた。彼女の見下ろすその目は、軽蔑の色さえも伺わせていた。すると、彼女の右手から紫色の輝きと共に、剣が現れた。そう、剣がどこからともなく現れたのだ。
「あ、悪魔だ……」
かすれかすれの声が虚しく太い男から発せられる。彼女の笑みはしっかりと男の方を向いていた。そしてゆっくりと、剣をふりかぶる。
「死ね」
彼女は勢いよく剣を振り下ろした。刃先が胸をえぐって切り裂く。途端、血が辺りに飛沫をあげる。当然ながら、すぐに太い男の息の根は途絶えた。
次の彼女の視線は、身長の高い男に向けられた。顔から笑みは消え、無表情のまま見つめている。でもそれは殺意を持った目だった。まるで残り物のゴミを最終処分するみたいな、冷淡な目つきだ。彼女は剣を、ゆっくりと男の喉先に近づける。
「おい、確かに悪かった……。何でもする。頼むから殺すのはやめてくれ……」
男の声は縮こまっていた。命乞いというやつだろう。でも、男は殺されてもおかしくない、仕方ない、と少しは思ったりもした。もう逃げられないのだから。
「…………」
彼女の紅い瞳は、身長の高いその男の目を鋭い刃のごとく睨みつけている。そして、少しだけ刃先を喉先に触れさせる。男の喉から、血がにじみ出た。
「……っ」
男は強く眼を閉じた。そして歯をくいしばった。喉元が熱く感じられ、温かい血が喉を滴っているのが分かる。殺される。そう覚悟した。
「何でもするのだな?」
もしかしたら、彼女はこの時も不敵な笑みを浮かべていたのかもしれない。
「……あ、あぁ」
うなずくと、刃先が食い込むことになり頷けなかった男は、それこそ擦れる声で答えた。
それからどれくらい経っただろう。知らぬ間に男の体中から冷汗が噴き出して、ぐっしょりとシャツを濡らしていた。気づけば、男から刃先の触れる感触がなくなっていた。息が少ししやすくなる。……あれ、死んでない? 男は恐る恐る目を開けると、そこには剣を右手に降ろし、じっと男の表情を見つめる少女の姿があった。
「……ついてこい」
「え?」
「……同じことは二度言わない」
と、彼女は男の襟元を強く握りしめた。瞬間、彼女を取り巻くオーラの光はさらに紫を強め、勢いよく彼女は飛んだ。尋常ではないぐらいの高さまで飛んだ。ゆうにビルを次から次へと、飛び越して、深夜の街を駆け抜けた――。
気づかぬ間に、男は失神していたようだった。まだ意識がはっきりとしない中で、うっすらと重たい瞼を開けた。視界がうまく定まらないで、世界が歪んで見える。しかし、そこに何があるかぐらいは感覚で把握できた。
(なんなんだ……ここは)
いろんな薬品のビーカー、得体のしれない黄色の液体の入った水槽……
無限に連なる何かの波長を示した機器……
そして男は、両腕をずっしりとした鎖で縛られて、拘束されていた。
「研究所へようこそ」
そのとき何者かが男の後ろから語り掛ける。あの少女の声ではない。姿が見えない分、男は不安に駆られる。
「今から君は生まれ変わる。覚悟はいいね?」
男は何も答えない。聞いた途端、不安が恐怖に変貌し、口元をふさいでしまっていたのだ。
すると、目の前に、ある老人がやってきた。白髪に、白鬚、そして白衣を身にまとっていて、ここの研究者なのだろう。手には注射器が握られていた。その先端は、男にとって異常に鋭利なものに見えて、思わず筋肉が強張る。
そして、その針が肌に触れるとき、その老人は、静かにこう言ったのだった。
「すまない。私を許してくれ……」、と。
長身の男はぎゅっと目をつむる。体内に注入される液体が、全身を駆けまわるような不気味な感覚がまもなく彼を襲った。縛られていた身体が拒絶反応を起こしたのか、大きく震え、もがきだす。
(「悪魔……」)
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。死んだ太い男の最後の言葉……。
「ゔわぁ!!」
耐えがたい痛みと苦しみ。稲妻が走ったかのような男の呻く声は、己の肉体を引き裂くかの如く体全体から発せられているようだった。
「ははは! これで揃う……! 人工魔法科学の確立だ……!」
甲高く、不気味なまでのその声は、この建物の隅々にまで響く。
そして……ここで行われた実験が、とある悲惨な物語の渦を搔き回し始めるなんて、まだ誰も知らなかった。