序章 別れ
眩しい。
昨日のバイトの疲れが取れない所為なのか、いつもより眩しく感じる太陽を手で遮りる。
目的地は日の下にあり、日に向かって歩かなければいけないその状況は苦行の様である。
然れど、時折顔を掠める僅かな風が、滝の様に流れる汗を通じて新鮮な冷気を落としていくため、まだ幾分かはマシであった。
「どうせなら、この追い風が絶え間なく在ればもっと嬉しいのに。」
らしくない。己の望みを呟くなど不自然極まりない。
今の今まで、他人の望みは叶えた事はあっても、他人に望みを言ったことは無かったというのに。
「何を言ってるのだ。…誰もいないではないか!」
少し戯けて一人で呟く。これは自分に向けたセリフだ。
これで俺は、他人には望みを言っていない。
人では無い何かに、自然とかカミサマとか、そういうのに言ったのだ。
言い聞かせるように、何度も心の中で復唱する。
自分は他人に頼ってなどいない。
自分は他人に望みなど言ってない。
些細な事であるが、自分のアイデンティティを守るためである。
下手に信念を持って生きれば、それに殉じて生きる事以外を己が許さなくなるのだ。
冷静を取り戻し、溜めた息を吐き出そうとすと、「ぴゅうっ」と風が吹いた。
その風は次々と、継続的に彼に向けて吹いてきた。
「…ハハッ!珍しい事もあるもんだな。…
こうなると少し寒いが。」
すると風は「ピタッ」と止んだ。
家に着いた。
結局風はアレから止んだままだった故に、汗は止めどなく溢れていた。
あの後、「風よ吹け」とでも言えば再び涼しさを取り戻したかも知れないが、そうだとしたら余りにも不気味で、言う気が起きなかったのだ。
「ただいま。」
静かに家に上がった。この家の主である育て親の祖父は、寝ている事が多いためである。
然れど今日は起きていた。
「…」
祖父は何も言わない。目を見開き、帰ってきた孫である自分を観察するように眺めていた。
瞬きすらしないその様子に、思わずたじろいでしまう。
「…どうしたん?」
祖父は何もしていない。ただ此方を見ているだけである。
されど其処には、人ならざる何かの様な、先程の風の様な不気味さが存在していた。
「…いえ、なんでも」
長年暮らしてきた相手とは思えない他人行儀な返事であった。
今日は不気味な日であった。
この世界に、誰かに観察されつつたった一人で生きている気分だった。
今日だけは、親しかった祖父も、まるで観察者が用意したカメラの様であった。
「バイトに行ってくる!」
嘘である。
今さっきバイトから帰って来たばかりであり、普段の祖父であれば必ず疑問に思う筈である。
祖父とはいえ、まだ定年退職して1年。
もし気付かないとしたら…呆けるには早すぎる歳であるし、あり得ない事である。
「そう。いってらっしゃい。」
猫撫で声で発せられたその一言は、己の全身を即座に凍らせた。
試して正解であった。
この男は祖父では無い。
今それは確定してしまったのだ。
そうなると、祖父のフリをしたナニカに恐怖を感じずに居られなかった。
幸い、ドアに手はかかっている。
急いで勢いよくドアを開けると、出来るだけ早く外の世界へと逃げ出そうとした。
然れど、それを許さないとばかりに激しい光が視界を覆った。
太陽にしては眩し過ぎる。
帰りに浴びた時のそれを、遥かに超えていた。
まるで目が焼け焦げるほどの光である。
「あ、ああ、熱いっ!」
目が開かない。その激痛は耐えられる類いのモノでは無かった。
そうしている間に、この世界は光で充満してしまっていた。