伍
ぼくは、いつも通り、午前五時に目を覚ました。習慣となってしまったそれは、もうどうにもならないようだと半ば諦めながらも、朝刊を取りに行く。外はまだ少し肌寒かった。
リビングに朝刊を投げ捨て、部屋に戻り、制服に着替える。着替えてから朝刊を取りに行けばいいのにとよく思うが、これもどうにもならないようだ。
早起きをしてもすることがないので、いつものように自室で適当に時間を潰し、程よい時間になったらリビングへ行き、投げ捨てた朝刊を拾い上げ、そして広げる。まずは一面を読むのが基本だが、ぼくとしてはあまり興味がなかった。
ぼくの興味があるのは、地方欄だ。あれくらいの事件ならば、新聞に載っていてもおかしくはない。
目を滑らすように記事を読み漁り、そしてそこに辿り着く。真ん中より少し下にその記事はあった。『両親を殺害し、娘は自殺』と少し太めのフォントで書かれていたそれを見て、やっとかという気持ちが滲み出てきた。
記事によると、昨日の夕方に、その家族の死体が寝室で見つかったらしい。見つけたのは近所に住んでいるその一家と仲の良かった主婦。回覧板を渡しに行ったときのことだった。
両親の死体には、首と胸が十字に切られていて、娘の死体には十字はなく、包丁が胸に刺さっていたとのことだ。そして寝室には、娘が書いたと思われる遺書が残っており、そのことから警察は娘の犯行であると断定した。その先を読み進めても、遺書の内容は書かれていなかった。
ぼくは一昨日のことを思い出しつつ、朝刊をたたんだ。
大体六時半ごろになると、姉も起床してくる。いつものように、かなり眠そうなまなざしで「おはよう」とぼくに挨拶をした。ぼくも姉に「おはよう」と返した。
姉はじっとぼくのことを見ていた。より詳しく説明するのなら、主に頭部を凝視しているようだった。
「どうしたの、姉さん」
「あんたまたそんな頭してるの?」
まったく……、と姉は半ば呆れながらも、ぼくの髪に触れた。
「いい加減寝ぐせくらい直すようにしなさいよ。その凛々しい顔が台無しじゃない」
「ぼくは気にしないけど」
「私が気にするの。ちょっと動くんじゃないわよ」
そう言って姉はリビングから出ていき、そして出ていくときには持っていなかったブラシを持って戻ってきた。姉のお気に入りの赤色のブラシだ。その赤色はなんとなく一昨日のことを連想させた。
「姉さんは、誰かを殺したいと思ったことある?」
髪を梳かされながら、訊ねた。髪を梳かされているとき、ぼくはいつも黙っているので、姉は少し驚いていた。それがぼくの思い違いで、そんなことを訊かれて驚いたのだとしても、どちらでもよかった。
「どうしてそんなこと訊くの?」
「新聞に子供が親を殺したっていう記事が載っていたんだよ。ぼくにはどうしてそんなことをしたのかわからなかったから、他の人ならどうかなって」
「ふうん? まあ、生きてれば二人や三人くらい殺したいほど憎むことはあるんじゃない? 友達でも、クラスメイトでも、上司でも、部下でも、恋人でも、両親でも。あとはなにがあるかなぁ」
姉は具体例を上げようとしていたが、想定できる関係をすべて挙げていくのはキリがないことには気付いていないようだ。三つもあれば充分なのだ。姉のこういうところは抜けているな、と思う。普段の学校の成績の良さからは考えられない。
「ちなみにどんな内容だったの?」
「んっと……」
少し言葉を選んだ。
選んでいる振りだったのかもしれない。
「不良の女子高生が両親を嫌悪して殺害。両親の体には十字の裂き傷があったんだって」
「うへぇ……。それはまあ、なんというか、相当だね」
姉は心底気持ち悪いといった表情を見せた。ぼくと違い感情表現が豊富なのだ。逆に言えば、ぼくはあまり感情を表に出すことがない、表現が不自由な子供だった。だからよく「機嫌悪いの?」と訊かれることがある。それが誰だったかは憶えていないけれど、もしかしたら浮輪ちゃんかもしれない。それ以外の人物に心当たりはなかった。
「でもそれって、今話題の切り裂き魔と手口が同じじゃん」
「そうなの?」
「そうなのってあんた、新聞」
そこまで言って、姉は少しの間、黙った。
「……そうか、これは新聞には載らない話だったね。忘れてた」
「どういうこと?」
おおよその予測はついていたが、ぼくはあえて訊いてみた。
姉は言うか言うまいか悩んだ末に、その重い口を開く。
「あんたが今言った事件みたいに、十字架の裂き傷のある死体が、ここ最近よく見つかってるらしいのよ。私は人伝いに聞いた話だから、実物を見たわけじゃないんだけどね」
まあ、なんにしても、と姉さんは、梳かし終わったぼくの髪を撫でながら言った。
「子供が親を殺す事件ってのは、大抵は親が悪いのよ。そういう風に育てたのは親なんだから自業自得。自分たちを恨まないように育てなければ、よかったのにね。と言っても、子供が躾のことを理解してなければ、意味ないんだけど。子供にはまず『教育とはなにか』を教えるべきよね。でも、これは最近のモンスターなんちゃらにも言えることか」
姉さんの意見は、ぼくと反対のようで同じことを言っていて、けれど最終的にその家族全体が悪く、育てた環境も悪かったと言っているようだ。
「今朝の新聞読んだ?」
「読んでないよ。でもわかってる。あれのことだろ?」
「そう、それ」
「あれは、きみがやったんだろう?」
ぼくと彼は、その日の放課後に、いつもの教室にいた。もちろん二人だけである。ぼくが今日もこうして夕焼けを眺めているのを知っていたのか、彼はいつの間にか背後に立っていた。わざわざ振り向いて確認をとらなくても、彼がそこにいるのがわかってしまうのは、自分でも不思議だった。
ぼくは彼を見ずに、空を眺め続けている。
「僕はきみに渡すものがあるんだ」
「なに?」
「きみが死に陥れた人からの手紙。遺書ともいうね。警察が発見したものとは別のものだよ。あの人は本来、死ぬ人じゃなかった。そういう風に僕が計算していたからね。だから彼女が死んだのはおかしいと思ったよ」
「そんなことまでしてたんだ。きみ、結構凄い人なんだね。どうして彼女が死んだことに気付いたの? 警察よりも見つけるのが早かった――いや、第一発見者よりも早くないといけないよね」
ぼくの言葉にも、彼の言葉にも、まったくと言って感情が籠っていない。ただ事務的に話しているだけ。
「僕が階段から下りてきたとき、彼女の様子がおかしかったのに気付かないと思った? 予定では多少なりの恐怖を感じる程度だったのに、あれは違っていた。根底から覆されたような顔をして、多少どころじゃなく、恐怖が彼女を支配していた」
「ぼくは少し話をしただけだよ。他にはなにもしていない。なにが彼女を追いつめたのか知らないけど、まあ、彼女自身なんじゃないかなぁ」
「なにもしていない、ね。まあいいよ。僕も怒ってるとかじゃないし。ただ気になっただけなんだ。深い意味はない。僕はきみと別れた後、もう一度あの家を訪ねて、そしたら死んでただけなんだ」
ぼくは思い出したように言う。
「あれは? あの十字傷はきみがやってることなの?」
「違うよ。ただ今回は、その犯人に罪をなすりつけただけに過ぎないよ。公表はされないけれど、彼女が犯人ってことになってるはずだ」
「どうして?」
「公表されていない事件の特徴が残っているんだから、彼女が犯人であってもおかしくないだろう?」
「そうかな? 警察はそんなに甘くないと思うけど」
「得体の知れない犯人を探している場合、それっぽい人が見つかると、その人を犯人と仕立てることはよくあることだよ。だから冤罪は消えないんだね」
「じゃあ、またその十字傷の死体が見つかったら?」
「模倣犯として扱われるね。どこかで情報を仕入れた人物による犯行とされる。情報なんてものは漏洩して当たり前のものだし」
ぼくは適当に相槌を打って、ようやく彼を見る。いつも通りの学生服。この間のものとは、もちろん違うだろう。
彼は学生服のポケットから、手紙を取り出した。封筒に入れられているわけではなく、一枚の紙を折り畳んだものだ。ところどころ赤くなっているのは、彼女の血なのかもしれない。できれば触りたくなかった。
彼から手紙を受け取り、開く。そこにはボールペンで書かれた文章があった。一つ一つの文字を丁寧に書こうとしていたが、手が震えていたのか、線がぶれている。
私はあなたに言われて、自分のしたことの愚かしさに気付きました。
きちんと話し合うことをせず、目の前に突如として現れた壁を恐れ、
その場から逃げ出してしまいました。
今思えば、お前のような娘は知らない、と言われたのは、
私の勘違いだったのかもしれません。
私が勉強についていけなかったのは、それまで勉強をせずに生きて
きたからです。
勉強をしなくても、授業を聞いているだけで、テストでいい点が取れ
てしまう人間っているでしょう?
私も、その類でした。
今となってはわからないですけど、両親が言った、お前のような娘は
知らない、という言葉は、努力した私のことを言っていたのだと思い
ます。
あくまで推測ですけど。
あなたは私に、今の気持ちを教えて欲しいと言いました。
後悔と懺悔。
私の中で生まれたのはこの二つです。
どんなに後悔しても、どんなに謝罪しても、両親が返ってくることは
ありません。
どうして憎んでしまったのだろう。
どうして彼に依頼してしまったのだろう。
どうして自分のことばかり考えてしまったのだろう。
私というものは、どんなに愚かだったのだろう。
私は、両親のせいで道を外したことにしてしまった。
両親は悪くなかった。
悪かったのは、私。
どこまでも弱かった、私のせい。
お父さん、お母さん。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
それから後は『ごめんなさい』という言葉で埋め尽くされていた。初めは一列に並んでいた言葉も、中盤に差し掛かるに連れ、列を乱し、字が乱れ、内心を吐露するように、自分の今抱いている感情を確かめるように、強く刻まれていた。終盤は、それは文字として認識するのは難しいくらい、同じ言葉が重なり合って、紙を黒く染め上げてしまっていた。謝罪の言葉で白い紙が黒くなっていた。どのくらいの『ごめんなさい』を書けばこうなるのか、ぼくには想像できない。
そして最後に、一文だけ綺麗に書いてあった。ぼくはそれを見て、体が震えてしまった。嵐のような謝罪の気持ちが過ぎ去るとこうなってしまうのか、と。
私も、今から行きます。
その一文にどれだけの感情が籠っているのか測り知れなかった。
あまりの静かな文に素直に感動した。
どんな謝罪の言葉も呑み込んでしまうほどの、一文。
ぼくはこの一文を読めて本当に良かった、と思う。
手紙を折り畳み、ポケットにしまう。
「どんなことが書いてあったの?」
彼は、訊いた。それと同時に放課後の鐘が鳴る。
「興味あるの?」
「ないよ。僕は死んだ後の人間に興味ないんだ。そこに命はないからね。そして同様に遺された手紙にも興味ない。そこに価値を見出せないからね」
彼は首を振って、微笑みながら言った。




