肆
彼女の家に着いたとき、すでに時刻は深夜零時を回っていた。時期が夏前だからといっても、やはりこの時間になると少し肌寒い。白い息が出るとまではいかないまでも、薄着でくるべきではなかった。横にいる彼を見れば、それが勝負服と言わんばかりに学生服を着ていた。というよりは着替えていないのだろう。
ぼくと彼は一度喫茶店で別れた。時間と場所を決めて待ち合わせをすることになり、このご時世では珍しいかたちの約束をした。
ぼくは家に帰り、一先ず着替えることにした。いくら深夜だからといって人がいないわけじゃない。制服で行くのは危険だと思ったのだ。それに、深夜の街を制服で歩くというのは、全身で身分証明をしているようなものだ。警察に見つかれば、間違いなく補導されるだろう。
何をするのかわからないし、何が起こるかわからないため、ぼくはシャツとジャージに着替えた。これなら少しくらいの言い訳ができそうだったからだ。それに不祥事が起きたときに動きやすい。
約束通り、あの喫茶店近くにあった公園に彼はいた。そのとき彼に、
「きみはそんな服装をするんだ」
と言われたが特に気にしなかった。褒められるような服装だとは自分でも思っていないし、この服装が褒められることなど自分にはないと思っている。もう少し体型のいい人が着れば見栄えも変わるのだろうけれど、そんなこともぼくには関係なかった。
放課後のように彼のあとを追うように歩いた。深夜に外を出歩くことをしないので、昼間よりも透き通っている空気に少し驚いた。
彼女の家に着くまでに人と遭遇することはなかった。ぼくはただ彼の後ろを歩いているだけなのでわからないが、もしかしたら彼が人通りの少ない道を選んでいるのかもしれないと思った。もちろんこんなことで会話をするような仲ではないので、ぼくたちは彼女の家に着くまで、無言のままだった。
目的の場所に着いたことはすぐにわかった。約束通り家の前に彼女が立っていたからだ。彼女によれば未成年のはずなのだが、見た目がそうは思わせないため警察も補導なんてしないだろうと勝手に思った。
彼女の家は周りの家よりも少しばかり大きな家だった。豪邸というほどではないが、平均より上なのは確実だろう。少なくともぼくの家よりは大きい。門の横には『木下』と表札が掲げられていた。
「こんばんは、チルチルさん。少し遅くなってしまったけど、始めようと思う」
「ええ、構わないわ」
彼女の服装は先刻に会ったときとは違い、地味なスウェット姿だった。
「ぼくは依頼通りのことを済ませるけど、チルチルさんは死ぬ瞬間を見たい? それとも死んだことを確認できればいい?」
「私は……死んだ姿を見られればいい。死ぬ瞬間が脳裏に焼きつかれても困るし」
彼女は少し震えているようだった。
ぼくはこれから彼がすることのおおよその推測が付いていた。いや、最初からわかっていたのかもしれない。彼の口からそれを言わせようとして失敗しただけだ。ぼくの口から言ってしまえば一線を踏み越えることになる。ぼくと彼の立ち位置はそれほどまでに絶対的だ。ぼくが一線を越えることは、彼の計画に加担することを意味する。
ぼくの異常性が彼に露見するわけにはいかないのだ。
だが、ぼくには興味のあるものができた。その点については彼に感謝している。しかしそれを彼に告げる気はない。それもやはり彼と同等になってしまうからだ。
「それじゃあ、行こうか」
彼女によって玄関の扉が開かれる。彼はいつの間にか薄く、そして白いビニール手袋をしていた。抜け目ないと思いながらも、一応用意してきた彼の手袋と同じタイプのものを身に付けた。
家の中はすでに暗闇でいっぱいになっていた。微かな光しか頼りになるものがなく、ぼくたちは目を暗闇に慣らせるために、少しの間その場に立ち止まった。これを暗順応というのであったか、それとも明順応だったか憶えてはない。試験のために憶えたはずなのだが、あれは付け焼刃に過ぎなかったようだ。
ほんの数秒でぼくの目は暗闇に対応し、どこに何があるのか、ある程度区別ができるようになった。他の二人を見てみると、まだ慣れていないようだった。いくら暗いとはいえ、先ほどまで深夜の外にいたのだ。これくらいの順応くらいすぐにできそうだと思ったが、そこは個人差というものだろう。
「寝室はどこ? というか今更だけど二人ともいる?」
彼は風が吹けば聞こえなくなってしまうような声で彼女に訊ねた。
「そこの階段を上がって左側の奥の部屋よ」
玄関のすぐ近くに二階へと続く階段があった。手前のほうは見ることができるが、奥のほうともなると暗闇の濃さが増し、先を見ることはできなかった。
「二人とも帰ってきてるわ。昔から変わってない。いつもこの時間には眠っている」
「……わかった。じゃあ僕は行ってくるよ」
彼の言葉に誰も反応しなかった。
「すんなりと死んでくれると大助かりなんだけどなぁ」
そう呟きながら、彼は一歩一歩着実に階段を上って行った。
残されたぼくたちは無言のまま、彼の背を見送った。彼がこれから二人ほど人間を殺すことになっている。ぼくは一向に構わないが、隣に立っている彼女はどう思っているのだろう。そんなことを思っていると、彼女が口を開いた。
「私ね、昔は結構真面目な子だったんだ。昔と言ってもほんの二、三年までのことなんだけど」
ぼくは黙って彼女の話を聞くことにした。
「だけど、高校で勉強についていけなくなってね。よくある話でしょ?」
彼女の通っている高校は、誰もが一度は聞いたことのある有名な進学校だった。彼女の容姿からは想像もできない名前が出てきて、ぼくは少し驚いた。人は見た目では判断できないとはこのことだろう。
勉強についていけなくなっただけで、彼女が今のようになったわけではなかった。中学生のときに勉強ができた優等生だったせいで、彼女には両親や周囲の人間からの期待が重くのしかかっていた。彼女はそれに応えようとしたが、できなかった。応えようとした期待に押し潰されてしまったのだ。
「それで私がこうなったわけじゃないの。決定的だったのが、両親の言葉」
二度も挫折しかけた彼女は今までにない感情を抱いた。それをどんな言葉で表わしたらいいのか、わからないほどのものだ。執念と呼ぶべきなのか、執着と呼ぶべきなのか、ぼくにはどんなに時間を掛けたところで、判断することはできない。
彼女はすべての時間を勉学のために消費した。二度と訪れることのない時間を、ただそのことだけに使ったのだ。部活も、交友も、恋愛も、すべてを投げ捨てた。
その結果、彼女は少しだけだが成績が戻った。底が見えてしまうほどの順位だった試験も、上位とまではいかないまでも、中の下くらいまでは昇りつめた。
彼女は喜んだ。これで両親の期待にも周囲の期待にも応えられる日がくるかもしれない、と。そのときはまだ高一の秋だったそうだ。充分に巻き返す時間はある。
その喜びを彼女は両親に伝えた。これで両親に心配させることも、不安にさせることなくなる。そうなるはずだった。
しかし彼女の両親は自分の娘を見て、ただ一言――。
「お前のような娘は知らない」
そう言ったらしい。そのときの彼女にはあまりにも重く、そして致命的な一言だった。期待に応えようと努力した結果が、娘ではないと告げられることだと知っていたのなら、彼女は勉強などせずに別のことに打ち込めただろう。
彼女は翼をもがれ、地に落ちた。高く飛ぼうと、必死に動かしていたその翼を失ってしまった。
「それで私は今まで勉強で捨ててきたものを拾うことにしたの。部活には入らなかったけど、友達を作って、恋をして、勉強のことを忘れるくらい遊んだ」
両親はそのことについて、何も言わなかったそうだ。娘の急変にも無関心。それはたぶん彼女のことを娘ではなく、関係のない一人の女性として見ていたからだろう。
彼女の父親はとある会社の重役らしい。そのためお小遣いやお年玉は近所の子供たちよりも圧倒的に金額が大きかった。彼女はそれを使う機会がなかったため、そのことがあるまで貯金をしていた。だから生活が急変しても、金銭面には困らなかったそうだ。
「私は家に帰らなくなった。友達の家に泊まることもあったし、カラオケで一晩明かすこともあった。今日は久しぶりに帰ってきたんだ」
「話はしたんですか?」
ぼくが初めて口を開いたためか、彼女は少し目を丸くした。そのあとすぐにその目は細まった。それはぼくが見る彼女の最初の笑顔だった。少し辛そうな笑顔だった。
「してない。私が帰ってきたのは両親が寝る頃だったし……」
「そうですか」
家の中は静寂が広がっていた。ぼくたちが声を発したとき以外は、何も空気を響かすものはない。ぼくは下駄箱の上に置かれているものに視線を送った。花の活けられた花瓶、空っぽになった水槽、なにかの鍵がまとめて置いてある入れもの。特に変わったものはない、と思ったが、ぼくはあるものに興味を持った。俯いたそれをぼくは手に取った。
彼は今、なにをしているのだろうか? 二階へ上がってから十数分は経っているはずなのだが、一向に下りてくる気配はない。なにも問題は起きていないことは、物音の有無で容易にわかる。考えられるとすれば、彼がまだ行動に移っていないか、それとも行動を終えているが下りてこないかのどちらかだ。
どちらにしたところで、ぼくには関係ない。
ぼくはぼくのやるべきことをやるだけだ。
「今頃、ご両親は彼に殺されているでしょうね」
「……そうね」
「えーと……チルチルさんでしたっけ? どうして彼に依頼したんですか? 自分の手でやったほうが、解放感があると思いますけれど」
「あなたは怖いことを平気で言うのね」
「依頼者に言われると照れます」
ぼくは横目で彼女の表情を確認したが、無表情を無理矢理作っているようであった。それがひどくつまらなかった。
「……彼に依頼したのは、きっと両親の存在が邪魔だったからだと思う。そばにいても苦痛だったし、そばにいなくても同じなら、いなくなってもらったほうがいいじゃない」
「否定はしません」
「私にとって両親は害でしかなかったのよ。人生のほとんどを勉強で費やしてしまったんだからね。あったかもしれない楽しい人生を思うと辛くて」
彼女は天井を見上げた。たぶん、その先には、両親の寝ている――いや、両親が死んでいるはずの寝室があるのだろう。なにを思って見上げているのか、ぼくにはわからない。
ぼくはそんな彼女に言葉をかける。
「ご両親は死ぬときなんて思うんでしょうね」
彼女は肩を震わした。
「自分たちの娘に殺されるのなら、思うこともあるでしょう。ご両親だって思うことがないわけじゃない。たぶんですけど、あなたに殺されるのなら、まず謝罪をするでしょうね。ろくに会話もできなかったのだから、その機会もなかったはずですし」
「…………ないなら作ればいいじゃない」
静かにそう言った彼女を無視した。
「これはぼくの推測ですけど、もしかしたら、ご両親は機会を作ろうとしたんだと思います。あなたはケータイの番号をご両親には教えていないですよね。そもそも持っていないか、持っていたとしてもう別の機種に変えてしまっているとも考えられます。それに学校にも行っていない。どこに連絡をすべきかわからない。だから連絡をとるのを諦めた」
彼女が今、何を思って見上げているのか、ぼくにはわからない。
「なら、娘が帰ってくるのを待てばいい。だからご両親は昔と同じ就寝時間なんですね、きっと。娘なら、いつ自分たちが起きているかわかるだろうと。ずっと起きていることも考えたでしょう。おそらくですが、思い至ってからの数日はそうしていたと思います」
「……なにを根拠に」
「根拠なんてありません。ぼくには親の気持ちなんてまったくわからないですし。だからこれはただの推測ですよ」
ぼくはそう言って、また独り言を呟いた。
「話を聞いた限りでは、相当真面目な人たちなんでしょうね。そしてその娘であるあなたもまた真面目だ。ご両親の知っているあなたは、真面目であることに変わりない。そういう娘だったはずなんです。だから以前のあなたなら、深夜に帰ってくるようなことはない。そう思ったんじゃないですか?」
「そんなのおかしいじゃない。私は変わったのよ? 変わってから家を出た。あいつらが私を真面目だと思っているほうがおかしい」
「違いますよ。あなたが変わったのは家を出たときじゃないです。いえ、あなたからしてみれば変わったのはあの言葉を言われてからなんでしょうけど」
「なにが言いたいの?」
彼女は天井からぼくに、視線を切り替えた。その目はひどく困惑している目だった。彼女は今、危ない場所にいる。ぼくは彼女をそこから突き落とすことも、救いだすこともできる。
「ご両親はそう思ってないってことですよ。あなたのご両親は、あなたが家を出るずっと前からあなたのことを娘だとは思ってなかった」
ぼくの話は、あくまでもただの推測でしかない。いつもの彼女なら、ただの作り話だと切り捨てたかもしれない。けれど今の彼女にはそれができない。それは彼女の精神が、不安定な場所に立っているからだ。断崖絶壁に命綱なしで立っているような精神状態。両親が殺害されているという日常から脱却したこの空間だからこそ、彼女はいつも通りを保てない。
ぼくの些細な一言ですら、親身に受け止めてしまう。たとえそれが真実でなくても、もう戻れない場所にいる彼女には、それを確かめるすべはない。
「あなたのご両親は、あなたが授業についていけなくなったことを知ったそのときから、あなたのことを娘だとは思っていなかった」
「……ならどうして、どうしてもっと早く切り捨ててくれなかったの? そうしたら私はあんな無駄な時間を過ごすことはなかった。両親のことだって、こんなに邪魔だとは思わなかった……」
「そんなこと、ぼくは知りませんよ。ぼくはあなたのご両親じゃない」
ぼくはその理由もなんとなくわかっていたが、わからない振りをした。それはやはり、ぼくには彼女の両親の主観的な気持ちがわからなかったからだ。一つでもわかることがあれば、そこから推測を生み出すこともできる。親の気持ちを少しでも知っていてもまた、できただろう。
彼女の瞳には、ぼくが映っている。なぜだろうと疑問に思ったが、まだ話していないことがあった――話している途中だったことを思い出す。
「あなたのご両親の話の続きをしますね。ぼくがあなたのご両親が機会を作ろうとしていたのではないかと考えたのには理由があります」
「理由?」
「あなたの話では、ご両親はあなたのことを娘だとは思っていなかったと言っていました。ぼくはこの家の事情なんて知りませんから、そこから想像することしかできません。だけどそれだけでは、あなたの主観性があまりにも強過ぎる」
見たもの、感じたものというのは、そのときの状態、状況で、認識が変わってしまうものだ。情に流される、というのはその一例である。
「ところで、あなただったら家に家族の写真とか飾りますか? ぼくはあまり興味とか関心がないので飾りませんけど」
ぼくの唐突な質問に、彼女は鳩が豆鉄砲をくらったように目を丸くした。なにを言われたのか理解するのに時間が掛かりそうだった。
「……飾る、と思う」
「どうしてですか?」
「その写真を見て、家族のことを思ったり、懐かしんだりできるじゃない」
「じゃあ、あなたから見て、家族写真を飾っている家はどうですか?」
「円満なんじゃないかしら」
私には縁のない話よ、と彼女は自虐気味に言った。
「そうですか。それじゃあ、話を変えますけど、あなたはこの家に帰ってきましたけど、中には入りましたか? あ、もちろん玄関より先のことです。リビングとか、自分の部屋とか」
「行ってないわ。この格好だって、友達の家で着替えてきたんだから」
彼女は不満そうに吐き捨てるようにそう言った。
精神状態が、相当不安定になってきている証拠だ。
「わかりました。ぼくの言いたいことは終わりです。まあ、欲を言えばもう一つあるんですけど、それは心に留めておきます」
本当のことを言えば、言いたいことなどなに一つとして言っていない。ここまではあくまで外堀を埋めるための作業だ。もうそのほとんどが埋まったと言ってもいいだろう。
あとは彼女次第。
彼女が――どうなるのか。
ぼくが押し黙って、再び二階まで続く階段を眺めていると、彼女は居心地の悪そうな顔をしていた。この異常な空間がどういうものなのかを理解し始めているのだろう。ここはさっきまでの彼女が思っていた空間とはまったく違う空間になっている。先ほどまでは、邪魔な存在が住んでいた空間だったのが、今ではそれが揺らいでしまっている。ぼくの話を少しでも信じてしまえば、そうなるのは至極当然のことだった。
彼女が両親に対して抱いていた感情は、積み上げられた砂山のように、少しの風が吹けば崩壊していく。自分のことを娘ではないと言った両親を、恨むことはあるだろう。それを変えることはできない。それは間違っていない感情なのだから。
問題は、その感情を向けるべき両親だ。彼女が恨んでいた両親は、娘ではないと告げた両親で、決して彼女に謝ろうとした両親ではない。
まあ、それもぼくからすれば間違いなんだけれど。
居心地の悪さといえば、ぼくもそれを感じていた。この家には合計で五人いるはずなのだが、そのうち一人は二階で作業中、二人は死人だ、一階にいるのはぼくと彼女だけ。もし彼の存在を意識していなかったら、ここから逃げ出している。
二人だけの空間というのは、本当に気持ち悪い。
「あなたは――」
ふと、彼女がぼくに向けて言った。
「あなたはなにが言いたいの? 私の気持ちを揺さぶって、結果、なにも言ってないじゃない。推測ばかりで、まるで本心を隠しているようだわ」
それは的を射ていた。
なるほど、彼女の頭の良さは本物だったらしい。
彼女にぼくの言いたいことを告げようとしたとき、階段を下りてくる足音が家中に響き渡った。さすがに外まで響いていることはないが、そんなに足音を立てて下りてくる必要はないと思った。
暗闇から姿を現した彼はひどく疲れているようだった。血の付着した手袋をはずしながら、彼は笑顔を見せた。
「ただいま」
「意外と長かったね。ぼくはてっきり、きみがいなくなったのかと思ったよ」
「ははは、それは面白いかもしれないね」
彼は、ぼくから彼女のほうに目を向けた。
「ぼくは依頼通りのことをしたよ。もう帰って寝ようと思う。あまり遅くまで起きてると明日の授業が辛いからね」
「…………そう」
彼女の気迫のない返事に彼は首を傾げた。
それもそうだろう。彼はここでなにがあったのかを知らない。
「チルチルさんは確認に行っていいよ」
もちろんきみもね、と彼は楽しそうに言った。
常人が今の彼を見たら、どう思うのだろうか?
そもそも彼を直視することなどできるのかさえ、疑問に思えた。人を二人殺して、心配することは見つかることではなく、次の日の授業のことだ。どんな思考回路を持てば、そこへ行きつくことができるのだろう。初めから見つかることを前提に入れていないとしか思えない。
ぼくと彼女は、彼の言葉に頷き、二階に足を運んだ。
二階に着いて、まず感じたことは一階よりもあきらかに空気が淀んでいることだった。暗闇の濃さがさらに、それに拍車をかけていた。
案の定、彼女の足取りが重くなっていた。
彼女のあとをついて行くと、扉の開いたままの部屋に辿り着いた。この淀んだ空気が流れている根源は明らかにこの部屋であることがわかった。
彼女のあとに、ぼくも入って行く。
そこにはシングルベッドが二つ並んでおり、その上には赤い液体を流している人間の姿が二つあった。白いシーツは二人の血で染まっており、見る限りでは抵抗した形跡はなかった。
心臓を一突き――というわけはなく、血が溢れている個所は二つ、首と胸だった。
ぼくは、二つの死体に近づき、観察した。
傷口はどれも十字になっていた。どれが決定的になったのか判断するのは困難に思えた。しかし、それだけで時間がかかるとは思えなかった。このくらいなら、すぐにできてしまいそうだけれど、経験のないぼくがどうこう言える立場ではない。目は不自然に閉められていて、その反対に口は大きく開いていた。
彼は、この二人と言葉を交わしたのだろうか。冷静に、どこの常識かわからない常識で考えて、その可能性は高いだろう。不審者を発見すれば、抵抗なり、声を出すなりするはずだ。自らの身の危険を感じれば、それは当然。しかし、それはないと断言できる。少しでも抵抗があれば、物音の一つや二つ、聞こえてもいいものだ。たとえ一階にいようとも、二階の物音は聞こえてくる。だが、それはなかった。だとすると、考えられるのは、眠ったままの二人を殺したか、あるいは二人が死を受け入れたかだ。
「………………」
ぼくは考えることをやめた。それがあまりにも無意味だと察したからだ。
まあ、彼にいつか訊いてみよう。
他に調べてみても、特に面白いものは発見することはできなかった。彼のことだから、もう少し猟奇的なことをすると思っていたが、どうやら思い違いだったようだ。
母親が死んでいるベッドの枕元には、写真があった。裏返しになっているそれを、表にする。そこにはチルチルさんの姿があった。いつのものかわからないけれど、写っている彼女はとても幼い容姿をしていた。
ぼくは観察を止め、彼女の様子を窺った。彼女はほとんど放心状態だった。
そんな彼女に、ぼくは別れの言葉を言う。
「さっきぼくが言ったことですけど、あれは玄関で写真立てを見つけたからなんです。見た感じでは、高校の入学式のときだったようですね。とても素晴らしい家族写真でした」
靴箱の上で写真立てを見つけなければ、ぼくはあんな推測を言うことはなかっただろう。思いつきもしなかった。それにあの推測もほとんどが妄言に過ぎない。写真一枚でなにかがわかるわけではないのだ。そこまでぼくは人間ができていない。
ただ、そこに写っている家族はとても幸せそうに見えた。桜の花びらが舞い散る中で取られたその一枚を見る限りでは、とても不仲になる関係とは思えない。
そんな写真を飾ることがあるだろうか、とぼくは思った。飾ったままの状態だと言うのなら、埃を被っていなかったのはおかしい。つまり、写真立ては少なくとも手入れはされている。もしくは最近飾られたのだと考えることができる。
「あなたのご両親は、あなたが思っているほど、憎むべき存在ではないと思います。よく考えてみれば、喧嘩の一つもしていませんよね。ぼくにはそれが不思議でならないんです。たった一言告げられただけで、そこまで家族というものは簡単に壊れてしまうのかって」
彼女はなにも話さない。
話すことをしないだろう。
「これはぼくの個人的な感想ですけれど、あなたが一番悪いと思うんです。こういう問題では大抵子供のほうが悪いって相場が決まってますよね。ぼくが親の気持ちがわからないように、ほとんどの子供はそうだと思うんです」
一人で話し続けるのは、意外と気力を消費するものだと知った。ぼくとしては彼女に話しているつもりなのだが、これではそこにいない誰かに話しているようだ。
「あなたが彼に依頼したのは間違いだったんですよ。いや、早かったんですかね。家族と話し合ってから、依頼すべきだった。手が先に出るタイプなんですね、あなたは」
ぼくは部屋から出るために、扉へと向かって行く。その際に、ポケットから手袋と同じように用意してきたものを取り出し、彼女に渡す。しかし彼女は手には力が入らなかった。困ったぼくは、彼女のスウェットのポケットにそれを入れた。
そしてぼくは、部屋から出て扉に手をかける。家族の団欒を邪魔するわけにはいかなかったからだ。あとはこの家族の問題で、彼女の問題だ。
彼女は、二つの死体を見ながら動こうとしない。
「それじゃあ、ぼくは帰りますね」
彼女の姿を捉えつつ、扉をゆっくり閉めていく。
「そうそう。もしよかったら、今の気持ちをいつか教えてくださいね。殺す必要のない唯一無二の存在である両親を殺す依頼をしてしまった今のあなたの気持ちを――」
ぼくはそれに興味があります、と扉を閉めた。
たぶんそれは、ぼくだけでなく、その辺に住んでいる無意味に両親に死んで欲しいと願っている子供たちも知りたいはずだ。
経験者には是非、語って欲しいものだ。




