蝙蝠
原稿用紙五枚、現代。
私の人生において、書くこととは全てと言っていい。それは自分という不確定な何かを表現するという行為であり、人生を賭して追いかけるものだった。
私は当初、ただ只管に書きたいものを書き綴っていた。それはとても自由で夢見心地であった。私はただ自分の中に思い浮かぶ物語を表現し続け、満足していた。
それを誰かに読んで貰うということは全く考えていなかった。私はただ、己の内面を表現したいだけだったからだ。誰かの意見に束縛されるのは堪らない苦痛であることを、私はそれまでの人生で良く知っていた。
それは唐突に訪れた。私を良く知る友人の一人が、興味本位で私の作品に目を通したのだ。じっくり二日掛けて読んだ友人は、私に向かって笑いながら続きを催促した。
それは私にとっての一つ目の転機となった。自分の表現した何かを誰かに認めて貰うというそれは強い快感を伴い、私に新たな欲求を齎したのだ。
私は書いた作品を世の人々の目に晒すことにした。勿論、認められることだけではなく、否定されることも多々あることだろう。だがそれでも私は内に芽生えた欲求を抑えられなかった。
作品に目を通した人物からは、様々な言葉が聞けた。同じ作品でも好意的に見てくれる方もいれば、納得がいかないと憤る方もいて、その方々との対話には妙に熱が篭る。だがひとつひとつの作品に込めた想いが明確に伝わったことはまずなく、いつしかそれが正しいのだと悟った。
だが気付いた時、私は本来の目的が歪みつつあることを知った。ただ自分の内面を表現したかっただけであるはずなのに、いつの間にか評価される為に作品を書いていた。それはある意味で正しいのかもしれないが、私にとっては明確な間違いであった。
だが、私はその愚行を止めることが出来なかった。愚かだと知りながら、評価されたい欲求を捨て去ることができずにいたのだ。間違いではないという肯定的な思いが、その愚行に理由を与えてしまっていたのだ。
だがある日、これまで書き上げてきた作品群を全て読み返してみたその時、自分の愚かさを認めざるを得なくなった。
私は一体、誰に対してこんなに媚を売り愛嬌を振りまいていたのか。愚かだ、愚か過ぎる。私はいつの間にか、読み手の誰かを意識し、内面の表現など関係なくなっていた。心のどこかで気付いていたが、それを押し殺していただけだったのだ。
孤高の存在とは常に、周囲を斬り捨て只管に上だけを目指す。無論それだけが正しい道ではないだろう。自分の内面をただ表現するだけだとすれば、そんな無駄な行為をすべきではないだろう。
ただ、表現した何かを誰かに評価されるということは、間違いではない。己に一片の才能があれば、そんな行為すらも無駄なのかもしれないが、生憎私にはその才などないのが現実だ。ならば、孤高になるべく己の内面を書き続け、その評価を受け止めるしかない。
一片の才すらなくとも、進むべき道は真っ直ぐに伸びており、そしてそれを進むこととは正しい筈だ。
以来、私はただ真っ直ぐに進もうと思い願い、己の内面を書き続けている。もしかしてそれを、周囲は愚行と罵るかもしれない。だがそんな愚行でのみ、辿り着ける極地がきっとあるのだと信じている。
自由だった表現は、追い求める私に少しずつの変化と束縛、規律を齎した。それまで、考えたことすらなかったたった一文字の表現にすら拘るようになった。それは一重に、全く完成した作品を書き上げたいという想いからだった。無論、それが正しいとは限らないが、そういった束縛と規律は、私に対する重圧となり私を孤高へと導くと考えている。
己が何かを求めるというのならば、一切の妥協は捨てるべきだ。周囲がどうであれ、己の貫くべき何かは決して譲るべきではない。それを譲った時、きっと己の大切な何かを捨てたのだと考えるべきだ。
そういった拘りは、もしかすると表現の足枷にしかならないかもしれない。だが、それでも私はそれを表現し続けるのだ。
本来、進むべき道は無数にあり、真っ直ぐな一本道などありえない。だが私は私が進むべき道を、その一本だと決めたのだ。
追い求め、辿り着けたその時、私はきっと大きな何かを得て、換わりに全てを失っているだろう。それは実感としてある。
だがそれでも、私は表現する。
それが罪であれ、罰であれ、希望であれども。