初仕事
モノクロの景色が歪み、それがうねりながら元に戻る。
僕は船酔いの感覚を思い出した。揺られ、平衡感覚のない中で吐き気を催す。船の縁に身体を預けながら嘔吐く感じ。
似たような酔いの感覚に気分が悪くなりながらも、僕は手にした鎌をしっかりと握り締め、その場で立ち続けた。
うねり歪んでいた景色はやがてもとに戻る。一度深く呼吸をした僕は顔を上げ、場所の確認をした。
相変わらず白黒の風景だが、ここはどうやら病室であることが分かる。僕の立っている窓際の位置からは、五ヶ所にカーテンで覆われたスペースが確認できたことから、広さは六床室だと分かった。
窓の外へ視線を向けると、暗い街の風景の中に、所々街灯らしき白い色が混じっている。しばらくの間、僕は夜の闇色が大半を占める外の景色を眺めていたが、ふと目の焦点が窓ガラスに合うと、改めて自分に起こった事態を認識する。
後ろから淡い逆光に照らされて、窓に映る僕の顔は人のそれではない。
ゲームで言うところの骸骨の戦士、スケルトン。タロットカードで言うならば、まさに正真正銘の死神だ。
鎌を携えた黒衣に包まれた身体。闇の中にいた時は見えなかった全容が明らかとなった。フード付きのローブのようなものを頭からすっぽりと被り、フードが包む頭は真っ白の髑髏。
長大な鎌の柄を握り締める手は、昔理科室で見た人骨模型に似たような、いくつもの関節が組み合わされた骨格だった。
しかしおかしな感覚だ。僕はこの死神の目のない眼窩、脳の無い頭で、皮膚の無い肌で、様々なものを感じることが出来る。
あたかも生きていた時のように、だ。分かりやすく例えるならば、死神の着ぐるみを着た生身の僕が、中から外を眺めているような感覚。
全ての五感が生きていた時と同様、正常に機能している。僕は不思議で仕方が無い。
ガラスに映った自分を見つめ、戸惑いながらも納得し、再び外へ視線を移した、その時――――。
「あ~、マジ最悪だわ」
僕の耳に男の声が聞こえてきた。それは僕の左――――つまりは病室再奥の窓際に覆われたカーテンの一つ――――から聞こえてきた。
男は時折相づちを打ちながら、ベッドを叩いては自分の状況を誰かに話しているようだった。その声のトーンから、怒りと呆れ、後悔のようなものが感じ取れた。
しかしはた迷惑な奴だ。ここは病室、しかも深夜だぞ。周りにはほかの入院患者もいるだろう。電話なんか明日でも出来るだろうが。
僕はカーテン越しから聞こえる非常識男の顔でも拝んでやろうと、カーテンに手を伸ばした。しかし僕の手はカーテンに触れることなくすり抜ける。まるで霞に手を入れたかのように。
これなら壁抜けなんかも難なく出来そうだな。どうせ僕の存在は人には見えないんだ。
僕は構わずカーテンをすり抜け中に進み入る。ギプスをはめた足を吊り、青い病衣に身を包んだ男。携帯を片手に笑みを浮かべながら、電話の向こうの相手と会話を交わす男。頭部に包帯を巻き、いかにも軽そうで頭の悪そうな顔をしている、チャラそうな茶髪の男。
僕はこの男に見覚えがあった。見覚えといっても、つい先刻見た、あの赤いスポーツカーの運転手だ。
僕を轢き殺した張本人。大した怪我もなく、笑みを浮かべ話せるほどの軽傷患者。僕はふつふつと自然と怒りが込み上げてきた。醜い負の感情が、僕の胸の奥で鎌首をもたげる。
「ん? ああ、轢いた奴? もう死んだんじゃね? 知らねえけど、ギャハハッ!」
轢いた奴……。そうか、僕のことだな。お前が轢き殺したのは、間違いなく僕だよ。
悲しさからか、怒りからかは分からない。だがはっきりと分かる。僕の心が、泣いている。
僕はノルマ達成への第一歩、最初に殺す人間を、僕の目の前で馬鹿笑いをする、僕の命を奪った男に決めた。
すると目の奥が急激に熱くなるのを感じるとともに、男の心臓付近に砂時計のような物が出現し確認できた。三本の柱に囲まれるようにして取り付けられた、瓢箪のような形をしたガラスの中に、まるで血の色のように真っ赤な砂が入れられている。
砂時計。……たしか掟にもあったな。『五つ、砂時計を逆さにしてはならない』
男の砂時計は上から下へ、さらさらと静かに砂が流れ落ちる。上部に残る砂は、まだ半分近くあるようだが……。
もしかすると、これが人間の寿命なのか? しかし運命の寿命とは一体……。
この砂時計を逆さにすること……それは寿命を延ばす、ということになるのだろうか? 運命というのが少し気がかりだ。
だが、思慮する間も頭に響く男の声が、僕に冷静な判断を下させない。怒りは込み上げるばかりで、僕は醜い感情のままに、このまま男を殺してしまいそうだった。
自分でも分かる。いま僕は、今までしたことのないほど冷たい視線を、目の前にいる男に注いでいることを。
すると視線を感じたのか、男はギョッとして僕を見上げた。しかしどうも様子がおかしい。
白黒の風景の中で唯一のカラー人間。その男は未だに電話に夢中だ。しかし、男と重なるようにして存在するもう一つの身体? 薄い緑色をした希薄な発光体のような身体の男は、僕を見て目を見開いている。
僕はベッドに上り、男の膝元に立つ。しかし、やはり彩色のある男は僕の姿が見えないようで、苛つくほどのにやけ面で電話の相手と会話を続けている。
だが発光体の男は僕の存在に気づいているようで、この世のものとは思えない物を見た、そんな時のような驚愕の表情に恐怖の色を浮かべながら、僕から目を離せないでいる。
そして気づいたことに、その発光体の男の胸元にも、同じように砂時計が見て取れた。
僕は二つの砂時計を注視し見比べてみる。すると砂の量が、発光体の方が彩色体に比べ少ないことが分かった。量としてはごく僅か。実際の砂時計にすると20秒ほどしか残っていないように見える。
これが死神が言っていた掟の、『運命の寿命』という奴か?
だとするならば、この男の運命の時は近いということになる。そして同時に、僕が殺してもいい人間……。
僕は心が打ち震えるのを感じた。自分を殺した人間を殺せる。こんなに嬉しい事が、生きていた時に一度でも感じられただろうか。
僕は口端を上げてほくそ笑む。死神としての顔は変化がないだろうが。
雰囲気で感じたのだろうか、緑の希薄な男は僕を見るなり恐怖に顔を引きつらせ、ぶるぶると震えだす。
ははっ…………いい気味だ。もっと恐怖に顔を歪めてくれ。お前の運命の時は、もう直ぐそこまで迫っているのだから。
僕は今一度、カラーに映る男に焦点を合わせる。相も変わらず電話に夢中だ。大口を開け、人の迷惑も考えずに馬鹿笑いを上げる声……。いい加減耳障りだな。
(ふふっ…………。今から、殺してやる。僕の命を奪った犯人。人の命を奪った者は……のうのうと生きてちゃいけないんだよ。分かるか? ……言っても聞こえないか。声は発していないのだから)
信じられないほどどすの利いた声を心の中で発し、僕は視線を発光体に移す。すると、微かだがそいつの口から声が漏れるのが聞こえた。
『許してくれ』
空耳かとも思ったが、どうやらそうではないらしい。涙を流しながら必死の形相で僕に懇願してくる。本物の命乞い……。
僕は笑いが止まらなかった。口から漏れ出るのは冷たい吐息。煙のように噴き出ては、更なる恐怖を演出する。まるでホラー映画のようだ。それもB級の……。
しかし収穫だった。彩色体の人間は僕の存在を感知できないが、層のように重なる発光体には、僕の姿が認識できることがこれで分かったのだから。
ただの役立たずで終わらなくて、よかったな。
男にそう心で話しかけ、僕は手にした大鎌の柄を両手で持つ。少しでも長く恐怖を味わえるよう、僕はゆっくりと、まるでスロー再生をしているかのようなゆったりとしたモーションで鎌を振り上げると、刃が頭上に来たところで動きを止めた。
柄を持つ手に力が入る。見下ろす男は、一方は笑いこけ、もう片方は首を振りこの場から逃げ出したそうな苦悶の表情を浮かべている。
僕は死ぬ時、どんな顔をしていただろうか。笑っていたか? 苦しんでいたか? この男のような顔をしていたのかもしれないな。
『助けてくれ』
必死に許しを乞う男。もう聞き飽きたその声を断ち切らんと、僕は鎌を――――振り下ろした。
白刃はちょうど袈裟掛けに弧を描いて男に伸びていく。滑らかな曲線が鎌の刃に軌跡となり追随し、男の発光体の左肩口から骨盤までを一気に切り裂いた。
発光体は最期、耳を劈くような断末魔の叫びを上げながら血飛沫を撒き散らす。それと同時に緑色の砂時計も破壊され、それらは時間の経過とともに、何事もなかったかのように消え去った。
大鎌を肩に担ぎ直すと、僕は色のある男を見下ろす。しかし特に変わった様子はない。砂時計は――――ん?
改めて見た砂時計。その砂は落ちるスピードを加速していた。上部に残存する寿命の砂は、どんどんと下部の砂溜りを嵩増ししてゆく。
そして――――。
全ての砂が落ちきった頃、男の様子が急変した。息苦しそうに悶え、まるで首でも吊ったのかと見紛うほどの顔面蒼白。
空気を求めるように手を伸ばし、その瞬間、膝の上に立つ僕と目が合った。
涙と涎、そして鼻水を垂れ流して身悶える男。
僕はその様子を薄ら笑いを浮かべ、男が絶命するまでずっと見下ろしていた。




