死神の見初め
暗い、暗い。混沌の中。一筋の光も差さぬ奈落の底。音もなく、風もなく、匂いもなく。
僕は一体、幾年の月日をここで過ごしただろうか――――いや、体感的に長く感じるだけで、実はそれほど経ってはいないのかも知れない。し、もしかすると永年この常闇の世界にいるのかも知れない。
それは定かではないが、言える事が二つある。
まず一つは……僕はもう人間ではないこと。そして――――後悔の念に押し潰されそうで、でもここで懺悔の気持ちを胸に、ノルマをまた一からクリアしていかなければならないことだ。それは絶望でもある。
細身で真っ白な身体に頭巾と一体になっている黒の衣を纏い、長大な柄の中ほどに手を添え、僕は何処とも知れぬ暗黒の世界の、ただ一点を見つめている。
そこに何があるわけでもない。むしろ何もない、何も聞こえない、何も感じられない。ただ呆然と立ち尽くし、自分の行動により招かれた結果に悔恨すると共に、長きに渡る意識的な生への鬼胎を抱いている。
僕――――神谷隼人は元々――――人間だった。
都内某大学文化部歴史文化学科に籍を置く三年生。身長は百七十五センチ。一度たりと染めたことのない髪は黒色で短く、光に当たると微かに茶色を映す。いたって普通の顔造形だと自分では思っているが、友人からはそれは謙虚だと言われる。
幼少の頃から世界の歴史や建造物に興味があった僕は考古学を勉強したいと思い、高校の時脇目も振らず専心努力した結果として、偏差値も倍率も高いこの大学に進学を果たす事が出来たことを、今でも誇りに思っている。
考古学とは、人類が残してきた数々の痕跡を研究し、人類の活動及びそれに伴う変化を思想し紐解き、明らかにすることを目的とした学問だ。人間の歩んできた歴史は様々な物となり形を現在に残している。
文書や美術品、考古資料として残る遺物や遺構がそれだ。死人に口なしとはよく言うが、それらの遺構や遺物は物語る。人類が歩んできた歴史を、思いと願いを刻んで。
考古学はまさに、悠久の時へ想いを馳せるロマンだと言えるだろう。
二年次までは漠然と目の前の日常を流されるままに過ごしていたが、三年生になって、周りが焦りだすと同時に、僕も就職先やら将来の事などを少し真面目に考えるようになった。ちなみに成績は悪くない。悪くないといっても中の上くらい。他人からすれば悪いと言う人もいるだろうが、僕は現状に満足していた。
就職難なこの時代。有名大卒でもなかなか大手に採ってもらえない今、就職を考えるより、大学院にでも進んでもっと考古を学び、分野のエキスパートにでもなった方が将来性もあるのではないか、と気楽に考えていた僕はそちらの方向で調整しようと決意を新たにしたものだ。
友達もそれなりに多く、比較的楽しいキャンパスライフを送れていたと思う。友人達との何気ない日常。馬鹿騒ぎしたり、合コンしたり、彼女と遊んだり……。
彼女がいるのに合コンしてるのか? とよく言われるが、これは仕方のないことだ。僕も出来れば断りたかったが、人数合わせに呼ばれたら二つ返事でOKしてしまう、そんな意志薄弱で優柔不断な人間なのだから。
そんな僕を、彼女――――霧城美月はいつも笑って許してくれた。美月とは大学に入ってから知り合ったまだ浅い間柄だ。浅いと言っても一年以上の付き合いはあるが……互いにそれほど踏み込んだ関係か、と聞かれれば、そこまで深くもなく、かといって浅すぎると言うこともない。互いに両親の顔は知っているし、性交の経験も幾度となくある。が、付かず離れず、束縛し合うこともなく、気の置ける相手ではあるが置き過ぎず、気楽な間柄だと言えよう。恋人だが友達、と言った方が早いだろうか。
美月は茶色に染めた背中まで伸びるストレートの髪。を今時の女の子らしくアイロンで巻き髪にしていて、不揃いな前髪から覗くくりくりの瞳は目尻を少し垂れ、穏やかな笑みを湛える口元は、それだけで安心感を覚えるような不思議な魅力を持った女性だ。
講義の時たまたま隣に相席した事がきっかけで、僕達は会話を交わすようになった。互いに似たような思想と趣味を持っていた事も、それに大きく関係しているであろうことは間違いない。容姿もさることながら、誰からも好かれるような明るく社交的な性格で、人見知りする僕には少し羨ましくも思えた。
休みは二人で骨董屋からインテリアショップへと出かけたりお茶したり、美術館巡りや図書館での調べ物。テニスコートへ赴いてはスポーツに汗を流したりした……。
なんとも奇遇なことに美月も、高校の時はテニス部だったという事実には驚いた。なにより美月は全国に行くほどの腕前で、その見た目からは――――失礼な話だが、運動が得意そうにはまるで見えないにもかかわらず、インターハイで5位と言うなかなかの好成績を修めている。
一方の僕はというと、万年補欠要因だ。高校三年間で、何かいい成績を残せるほどにテニスの腕前は成長しなかった。
美月や友人達と過ごす大学生活は楽しく、僕の日常に適度な刺激と潤いを与えてくれていた。
そんなある日、僕はまた合コンに誘われたのだ。断ろうと思いながらも僕は、いつものように承諾してしまった。
……今になって思えば、この性格が災いし現在のこの状況を作り出したことに、僕は苛立ちを覚えると共に辟易する。
いつもなら居酒屋に集合をかける友人は、この日は珍しくカラオケにしようと言い出した。飲み放で料理も出て歌も歌えて馬鹿騒ぎ出来る、「金のない学生なら一石四鳥だろ」と友人はにやけながら言った。
あまり乗り気じゃなかったが、いくら数合わせで呼ばれているからと言って、場の楽しい雰囲気を僕一人の浮かない顔で白けさせるのも気の毒だ。ということで、僕もそれなりに気を使い、場を盛り上げることに専念した。
カラオケ合コンは思いの外盛り上がりを見せ、僕自身、その日はいつも以上に酒を飲み、大分酔っ払ってしまっていた。しかし酒の勢いに任せて――――だのそういった低俗なことは特にせず、アドレスを聞かれても、彼女がいると言って全て丁重にお断りした。更に誘われた二次会も断り僕は友人や集まった女性達と別れ一人寂しく帰路につく。
そうしてぼやける視界の中、交差点で信号待ちをしている時だった。深夜と言うこともあり、車も人もそれほど往来があるわけではなく、街の明かりも光量を落としている。
酔いが大分回って平衡感覚が鈍り、千鳥足になりながらも、電信柱に手を付きもたれ掛かったその時――――。僕の三半規管に轟音が響いてきた。
僕は音の聞こえて来た方向へ何と無しに顔を向けると、僕のいる側とは反対の車線から、こちらへ猛スピードで向かってくるスポーツカーらしき物が目に付いた。エンジンを乗せ変えているんだろうか……まるでテレビで見たF1のような騒音と、急ブレーキをかけた時のような耳をつんざく様な音。そして摩擦するタイヤから煙を上げながらそれは僕に近づいてくる。
相当に酔っているため、その場から条件反射的に逃げるという思考も働かず、朦朧とする意識の中――――僕は車に轢かれた。
不思議と痛みはなかった……いや、ほんの一瞬、痛みを感じたようにも思えたが、少しの浮遊感を味わった後、僕の意識はその一瞬で途切れる。
まるで海の上を漂流しているような感覚。しかし手足が水に触れているような感触はなく、ただ浮力に身を任せているような――――意識だけが表層に浮かび、それが流れているような感覚だ。
力なく無意識の波に身を委ねる僕の意識を、微かに呼び戻すような声が聞こえた。それは聞きなれた声。いつも聞いている声。両親の声、美月の声、友人の声……。
それに気付き、ほんの僅かに開いた瞼から、外の世界を窺い見る。すると、まるで暗闇からカーテン開け放った時のような眩い光が僕の目に注ぎ込んだ。だが不思議と眩しくはなかった。
微かに見える視界を遮る黒い影。集まっている人の影が、天井の照明から照らされて出来たものだと思っていた。
母の顔、美月の顔、友の顔――――切迫した場の空気感から、最後になるかも知れないことを自ずと悟った僕の二つの瞳は、無意識に彼らの顔をフォーカスしていく。
しかしそんな中、中空を漂う僕の視線が捕らえた者に、僕自身驚きと動揺を隠せなかった。声も出せない、指一本動かせない身体で、今にも途絶えそうな意識の中、僕はそれを注視した。
所々ボロボロに解れた漆黒の闇のようなローブで身を包み、目深に被った大きなフード。顔を少し上げたことで見えたその下の素顔は白骨だ。形の良さそうな頭蓋骨、歯並びはとても綺麗で、大きく窪んだ眼窩から覗く暗闇には、灯火のような、はたまたルビーの輝きのような赤い光が左右共に浮かんでいる。
肩には巨大な鎌を担いでおり、そいつは僕の膝の上から、僕の目を静かに見つめている。『死神』だ。ゲームやCG、タロットカードの図柄でしか見たことのない、死神。そいつが今、僕の目の前にいる。
時が止まった……いや、凍りつくかのような冷たい視線を浴びせられ、僕は息をすることさえも出来なくなった。
微かに聞こえる機械音――――心電図の電子音のようだ――――は、次第にその心拍を刻む音を緩やかなものへと変化させる。
未だ僕を見つめたままの『死神』。あまりの息苦しさで涙目になる僕を、冷笑を口元に浮かべ蔑むように直視しながら肩を震わせ――――笑っているようだ。
……何がそんなに面白いんだ! 人間の死様が、お前達にとってそんなに愉快なものなのか!?
僕は声にならない思念で以って、目の前で不気味な笑みを浮かべ顎を打ち鳴らす白骨に、呪い殺さんとするほどの憎悪の感情を向ける。
しかし笑う死神はまったく気にも留めない体で、肩に鎌の柄を当て心電図の音に被せるようにコツコツと音を鳴らしながら、コントラバスのような重々しく響く声で、意識の切れそうな、今にも心停止しそうな僕に声をかけた。
『ようやく開放される。跡は頼んだぜ』
その言葉と同時に死神は鎌を振り下ろし、僕の身体を切り裂いた。だがそれは肉体的にではない。星幽体と呼ばれるものだ。
すると今まで辛うじて現世に繋ぎ止めていた僕の意識の糸はプツリと音をたてて切れ、その瞬間微かに聞こえたのは、僕の最期を知らせる心拍停止音と、泣き叫ぶ母、そして美月の声だった。
暗闇に溶けていく意識の中、頬を伝う涙の温かさが、妙に僕の頭に残っている――――。




