第二章 - 初陣は、理屈どおりにいかない -
北境の朝は、思っていたよりも静かだった。
城壁の上に立つグリンドは、薄く白んだ地平線を見下ろしながら、ゆっくりと息を吐く。
冷たい空気が肺に入り、はっきりと“現実”であることを主張してきた。
(……夢じゃないな、これは)
昨夜、玉座の間で目覚めてから数時間。
最低限の説明と確認を終え、彼は今、北境防衛の要となる前線都市に来ていた。
――ここも、知っている。
石造りの城壁。
外周を取り囲む粗末だが活気ある城下町。
そしてさらに外側に点在する小さな村々。
配信で何度も見下ろしたマップそのままだ。
「閣下」
横から声をかけてきたのは、ベルモットだった。
銀髪を束ね、いつも通りの執事服姿。
だが、城壁の上という場所でも一切動じていない。
「北境守備隊、第一・第二中隊が予定通り集結しました。補給物資も、本日中に半数が到着予定です」
「……予定より早いな」
「村側の緊張感が高まっております。自発的な協力が多く、輸送の遅延が出ておりません」
淡々とした報告。
だが、その裏にある“空気”は、グリンドにも分かった。
――魔物が来る。
それだけで、人はここまで動く。
(配信で見てたときより、生々しいな……)
遠くで、農民たちが荷を運ぶ姿が見える。
兵士たちは鎧の継ぎ目を確かめ、槍の穂先を磨いている。
音。
金属が擦れる高い音。
土を踏みしめる重い足音。
視覚だけで構成されていたゲームとは違う。
「閣下、村の代表が面会を求めています」
「……もう来たか」
グリンドは城壁から視線を外し、階段へと向かう。
準備段階。
戦闘はまだ起きていない。
だが――
(ここが、一番失敗できない)
魔物との戦闘よりも、
人との調整のほうが、犠牲を生むことを彼は知っている。
広場に設けられた簡易の詰所。
中には、年老いた村長と、数名の若者が立っていた。
彼らはグリンドの姿を見るなり、慌てて頭を下げる。
「お、お初にお目にかかります……! 最高司令官閣下……!」
「頭を上げてください。今日は状況確認に来ただけです」
自分の声が、自然に“それらしく”出たことに、内心で驚く。
配信で何百回も言ってきた台詞。
それが今は、現実の人間に向けられている。
「魔物の目撃情報、詳しく教えてください」
「は、はい……三日前の夜、森の外れで……」
村長の声は震えている。
若者の一人は、拳を握りしめ、歯を食いしばっていた。
恐怖。
焦り。
それでも、助けを求める理性。
(……これも、ゲームじゃない)
グリンドは一つ一つ頷きながら、話を聞く。
数。
種類。
出現時間帯。
頭の中で、自然と“いつもの処理”が始まる。
(まだ小規模。だが、放置すれば増える。
討伐部隊は――)
「閣下」
ベルモットが、わずかに声を落として耳打ちする。
「魔力の流れが、森の奥で歪んでいます。緑の気配が……濁っている」
グリンドは、内心で小さく息を呑んだ。
――魔法。
彼自身は、まだ自覚的に使えない。
だが、ベルモットの言葉は“設定”ではなく、感覚として響く。
「……増殖型か」
「その可能性が高いかと」
村長たちには聞こえないよう、声を低くする。
この段階では、恐怖を煽る必要はない。
「安心してください。準備は整っています」
グリンドは、村長に向き直った。
「討伐は、こちらで行います。村の方々は、今夜は外に出ないように」
「ほ、本当に……よろしいのですか……?」
「はい。犠牲は出させません」
――出させない。
その言葉を、軽く言ってはいけないことを知っている。
だが、今はそれを言う役目だ。
村長は、深く、何度も頭を下げた。
詰所を出ると、ベルモットが静かに並ぶ。
「……閣下」
「なんだ」
「以前より、判断に迷いがなくなったようにお見受けします」
「……当たり前だろ」
苦笑しそうになって、やめた。
ここは現実だ。
だが同時に――
(配信で準備していた“続き”でもある)
違うのは、リセットがないこと。
失敗すれば、誰かが死ぬ。
グリンドは、遠くの森を見据えた。
「今夜だな」
「はい。魔物は、準備が整った頃を狙ってきます」
戦闘は、まだ始まっていない。
だがこの北境は、すでに戦場だった。
――準備という名の。
― 初陣は、理屈どおりにいかない ―
夜は、音を連れてきた。
森の奥から響く、低く湿った鳴き声。
枝が折れる乾いた音。
そして、規則性のない足音。
(……来たな)
グリンドは、簡易指揮所の外に立ち、闇に沈む森を見据えていた。
焚き火の光が、兵士たちの鎧を赤く照らす。
緊張で強張った顔。
浅く、早い呼吸。
誰もが、これから起きることを理解している。
「最終確認を行う」
声を張ると、兵士たちの視線が集まった。
「第一陣は防衛線を維持。
第二陣は村落側へ回り、住民の誘導を最優先」
地図を指でなぞる。
「魔法部隊は、前線固定。
無理な出力は出すな。持久を優先しろ」
――理屈は、完璧だ。
敵の規模。
魔力の流れ。
地形。
すべて、想定内。
(……のはずだった)
森が、揺れた。
闇の中から、黒い影がいくつも這い出てくる。
「……数が、多い」
誰かが呟いた。
狼に似た体躯。
だが、毛皮の隙間から覗くのは、濁った緑色の光。
「魔力反応、複数! 想定の……一・五倍です!」
(増殖、早すぎる……)
ベルモットの報告が、遅れて届く。
「閣下。森の奥で、緑属性が暴走しています」
「……やっぱりか」
討伐対象は、小規模な魔物の群れ。
そう、設定していた。
だが現実は、
「設定どおりに動かない」
最初の衝突。
前線の槍兵が、魔物を突き止める。
手応えはあった。
だが――
「っ! 止まらない!?」
刺し貫かれたはずの魔物が、地面に崩れながらも、 別の個体がその肉体を踏み越えてくる。
血。
土。
獣臭。
(HPゼロで即消滅……じゃない)
当たり前だ。
これは、現実だ。
「魔法部隊、前へ!」
火球が放たれる。
炎が闇を裂き、魔物を焼く。
――だが。
「……浅い!」
焼け焦げながらも、魔物はなお前進する。
「出力を上げろ!」
次の瞬間、
「ぐっ……!」
一人の魔導士が、地面に崩れ落ちた。
「魔力逆流です!」
(くそ……!)
頭では分かっている。
緑属性が濁れば、
周囲の魔力循環が乱れる。
結果、詠唱効率が落ち、
無理に出力を上げれば――身体が耐えられない。
「……下げろ! 魔法部隊、後退!」
命令を出した瞬間、
「ですが、前線が――!」
「分かってる!」
歯を食いしばる。
判断が、遅れている。
知識はある。
だが、現場の速度に、思考が追いついていない。
(……俺が出るしかない)
グリンドは、一歩、前に出た。
兵士たちの視線が集まる。
「閣下!?」
「防衛線を維持しろ。
俺が、流れを切る」
腰に下げた短杖を握る。
――使えるかどうかは、分からない。
だが。
(理屈は、知ってる)
魔力を感じ取る。
空気の流れ。
地脈の脈動。
そして、森の奥で蠢く“濁り”。
緑。
本来は、修復と循環の色。
だが今は――
(……詰まってる)
だから、流す。
放出しない。
破壊もしない。
――整える。
グリンドは、短く息を吸い、 地面に杖を突いた。
音は、ほとんどなかった。
だが、
森の空気が、ふっと軽くなる。
「……?」
魔物の動きが、わずかに鈍った。
「今だ!」
兵士たちが、一斉に動く。
槍が、剣が、確かな手応えを伴って突き刺さる。
今度は、
魔物は、起き上がらなかった。
戦闘は、長くは続かなかった。
最後の一体が倒れたとき、 夜の森に、静寂が戻る。
「……終わった、のか」
誰かが、呟いた。
グリンドは、杖から手を離し、 大きく息を吐いた。
膝が、少し震えている。
(……成功、か)
だが――
胸の奥に残るのは、達成感ではない。
怖さだ。
ほんの一歩、判断を誤れば、 誰かが死んでいた。
「閣下」
ベルモットが、近づいてくる。
「負傷者は軽傷のみ。死者は……出ていません」
その言葉に、 ようやく、力が抜けた。
「……そうか」
夜空を見上げる。
星は、配信で見ていたものと同じ配置だ。
だが。
(同じじゃない)
ここには、リトライも、 カット編集もない。
あるのは、 選択と、その結果だけだ。
グリンドは、 静かに拳を握った。
(……次は、もっと上手くやる)
それは、 最高司令官としての誓いであり、
同時に――
生き残るための、 自分自身への約束だった。
-戦いのあとに残るもの-
夜明け前、北境の森は異様な静けさに包まれていた。
戦闘の喧騒が嘘だったかのように、霧が地を這い、折れた枝と踏み荒らされた草だけが、確かに“何かがあった”ことを物語っている。
「……以上で、確認は終了です」
ベルモットの低い声が、冷えた空気を震わせた。
魔物の死骸はすでに回収され、森の縁には結界術式が簡易的に張られている。
兵士たちは交代で警戒につき、負傷者は数名――いずれも軽傷。
犠牲者は、ゼロ。
それがどれほど異常な結果かを、ここにいる全員が理解していた。
「第一中隊、被害なし。第二中隊も同様です」
「討伐数は想定より少なめ……ですが、増殖核は完全に破壊されています」
報告を受けながら、グリンドは静かに頷いた。
(……最悪の分岐は、回避できた)
だが安堵より先に、別の感覚が胸に残る。
――ズレ。
自分が“想定していた戦場”と、実際に踏みしめた地面との間にある、決定的な差。
血の匂い。
兵士の荒い呼吸。
魔物が消える瞬間の、嫌な手応え。
(配信じゃ、ここまで感じなかった)
勝利条件を満たせば終わり。
数値が揃えば成功。
そんな単純な世界では、なかった。
「閣下」
一人の若い兵士が、恐る恐る近づいてきた。
顔には疲労が色濃く出ているが、瞳には奇妙な光が宿っている。
「その……どうやって、魔物の動きを……」
言葉を選び、途中で口を閉ざした。
周囲の兵士たちも、さりげなく耳を澄ませている。
グリンドは、一瞬だけ考え――首を横に振った。
「偶然だ」
「……え?」
「魔力の流れが乱れていた。あとは、運が良かっただけだ」
嘘ではない。
だが、真実でもない。
兵士は戸惑いながらも、やがて深く頭を下げた。
「……失礼しました。ですが、その……助かりました」
彼が去ると、別の場所から小さな囁きが聞こえてくる。
「何をしたのか、分からなかったな……」
「魔法、使ったのか?」
「いや……使ってないように見えたが……」
誰も、答えを持っていない。
それが、今のグリンドの立場だった。
城下町では、すでに動きが始まっていた。
夜を越えた村人たちが、恐る恐る家の外に出てくる。
森の方角を見つめ、煙も悲鳴もないことを確認すると、安堵の声が広がった。
「……終わった、のか?」
「魔物は……?」
詰所の前に集まった人々を前に、ベルモットが一歩前に出る。
「討伐は完了しました。危険は去っています」
その言葉が伝わると、空気が一気に緩んだ。
誰かが膝をつき、誰かが泣き、誰かが笑う。
「ありがとう……」
「本当に……助かりました……」
感謝の言葉が、次々と向けられる。
だが、その中心に立つグリンドは、ただ静かに頭を下げるだけだった。
(……俺がやった、わけじゃない)
兵が動き、現場が耐え、運が重なった。
彼は“最適解を選んだ”だけだ。
それでも――
「閣下」
村長が、震える声で呼びかける。
「昨夜……あなた様が来てくださらなければ、我々は……」
「役目を果たしただけです」
それ以上の言葉を、グリンドは許さなかった。
英雄になるには、まだ早い。
いや――なってはいけない。
詰所に戻ると、ようやく一息つける静けさが訪れた。
ベルモットが、温い茶を差し出す。
「……無事で何よりです」
「ああ」
短く答え、湯気を見つめる。
手が、わずかに震えていることに気づいた。
(……緊張、してたのか)
自覚は、後から来る。
「閣下」
ベルモットは、いつもより少しだけ柔らかい声で続けた。
「今回の件、王都にはすでに報告が上がっています」
「……そうか」
「王女殿下からも、使いが来るでしょう」
グリンドは、視線を上げた。
(……もう、動くか)
北境は、ひとまず守れた。
だが、この世界全体を見れば――まだ序章にすぎない。
「ベルモット」
「はい」
「次は、王都だな」
「ええ。いよいよ“中央”が、閣下を正面から見始めます」
その言葉には、わずかな警戒が滲んでいた。
グリンドは、窓の外を見る。
夜明けの光が、北境の城壁を照らし始めている。
(……戻れない夜は、もう終わった)
だが同時に、思う。
(ここからが、本番だ)
戦いは、魔物だけじゃない。
評価、政治、期待、そして――誤解。
それらすべてを背負って、彼は進まなければならない。
第二章は、静かに幕を閉じる。
次に待つのは、
王都という名の戦場だった。




