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2 困惑の警備員

                ①


 ささやかな風で地面に投げかけられる木漏れ日の形を微妙に揺らす葉桜は、景気の良い陽光を背に、媚びるような美しさを顕示(けんじ)している。

 不安定な気温で理想の穏やかさを裏切る春もいよいよ後半に差し掛かってきている今日この頃。

 しかし今だけは、町行く人々の大半が束の間の春の(うら)らかさにぼんやりと気分が微睡(まどろ)みかけるのを許している。

 町は平和だった。


                ②


 それでも天原(あめはら)証史(あかし)は憂鬱だった。

 不安と疑念と緊張でピリピリしていた。

 今日は四月二十日。

 妙齢(みょうれい)に達し始めていた三毛猫のシシオーも、窓辺で後光を浴びながら気持ちよさそうに丸まってゴロゴロと喉を鳴らしていた。

 憎たらしいほどに過ごしやすい気候と、チーズみたいに緩んだこの小さな町の雰囲気に、張り詰めた心をさらに逆撫でされながら、天原は通勤していた。


 諸悪の根源は、昨日いきなりかかってきた上司の静谷(しずたに)円夏(まどか)からの電話だった。

 貴重な有給もあと数時間で終わりを迎えるというところで、突然隣町の管理営業所からの番号がギョッとする通知音を伴って液晶画面に映し出されていた。


 中規模警備会社の事務局員で警備員の指導担当でもある静谷は申し訳なさそうな口調で簡単な挨拶を済ませると、すぐさま要件を伝えた。

 どうやら詳しいことは話せないらしいが、明日の午前十一時に隣町の営業所の業務室でどうしても話しておかなければならないことがあるらしい。

 模範的な社会人然とした礼儀を(しっ)しない上品な口調でありながら、行間からは有無を言わせぬ上司からの指令を感じ取れた。


 ほとんどのシフトが深夜勤務で統一されている天原は、今の警備会社に勤め始めてからまだ四ヶ月しか経過していなかった。

 それなのに一度しか行ったことのない隣町の営業所に、上司からいきなり呼び出しをくらったら、次の日の朝に寝不足で副交感神経系が多少乱れていたとしても、誰も彼を責めることはできないだろう。


 実のところ彼としても、心当たりはあった。

 といっても、決してクビを宣告されるような心当たりではない。

 おそらく先月のことだろう。

 あの日天原が立駐蛭山(ひるやま)町パークでの通常通りの夜間勤務についてから約三十分後の満月の夜に起きた、あの飛び降り騒動に関することに違いない。

 三十路を迎えてもうすぐ一年は経つ天原が、いち警備員としてあの事件の後処理を万全にこなせていたかと問われれば、お世辞にもイエスとはいえない。

 しかしクビにされるほど無能な働きだったともいえない。

 警備の仕事について六年になる彼が、冷静さを欠いて動いてしまったのもいくつか理由があった。


 彼が勤めているあの立体駐車場は、二十二時には屋上階に通じる二階からの階段をチェーンで閉鎖し、もしそれを越えて階段を昇る者がいれば注意する決まりになっていた。

 もちろん虚ろな眼をフードで隠し、心ここにあらずな様子でエレベーターを屋上階まで登ってくる少女を監視カメラで見つけたとしたら、もしものトラブルを考慮して一応話しかけることくらいなら、天原も難なくこなせたことだろう。

 しかし騒ぎが起こった時、彼は階段にもエレベーター内にも、取り立てて怪しい者を目にしてはいなかった。

 もちろん見逃したわけではなく、後から警察と映像を確認して見落としがなかったことを確認した。

 二十二時から事件発生の約三十分間にエレベーター内に映った三人の人物は、全員本来の用途で駐車場を利用していたことが別映像からもわかっていたし、警察の聞き込み調査でそれも確認された。

 騒ぎに気付いて雪の降る戸外に出るついでに二階の外階段を見上げると、左端に南京錠のついたチェーンは当たり前ながら外れているということもなく、微動だもせずに静かに垂れていた。

 上端に沿って避雷ケーブルが伸びる屋上階のスチールメッシュフェンスは内側に傾斜しており、簡単には乗り越えられないような作りになっている。


 しかし天原は見たのだ。

 駐車場わきの幅の広い歩道の一部が血の海で途切れ、その上に二人の若者がうつ伏せで横たわる姿を。

 血の海に降る雪は溶けるのを一瞬躊躇(ためら)ってしばらくそこで揺れ動き、彼の目にはそれが透明なもずくが小気味に踊っているように映った。

 見ると駐車場の壁には真っ黒のママチャリが放り出されており、右ハンドルの先に暗赤(あんせき)色の肉片がホッピング程度にこびりついていた。

 どこの肉なのかはわからなかったが、二人の若者のうち、こちら側に頭を向けて倒れている方(おそらく天原と同世代程度の青年)の髪が同じ色に塗れていて、天原はその中にチラッと灰白(かいはく)色の(こぶ)のようなものを見とめてしまっていた。

 彼は自分の脳がこの光景に慣れようとする努力を強制的に中断させるために、棒のように固まった身体を反射的に動かそうとしたが、あまりのショッキングな状況に身体は言うことを聞かず、フリーズしたままだった。


 周囲には(まだ)らにではあるが人だかりができ始めていて、うめき声や小さな悲鳴などがあちこちから聞こえてきた。

 固まった身体を縛る見えない鎖を何とか意志の力で振りほどき動き出したはいいものの、救急車と警察を周囲の人に手配してもらってからは、彼がすることは特になかった。

 人だかりが増えてくるにつれて、悲鳴は徐々に減っていったが、それに代わり複数のえずき声、スマホのシャッター音や録画開始音が聞こえ始めるようになって来ると、天原はゆっくり二体の遺体の方に歩み出して、自身のジャケットを特に形の崩れた男の頭部にのせた。

 すぐにあたりで見守っていた者のうちの一人が駆け寄って来、滑らかなナイロンのジャンバーで比較的形を保った女の頭部を覆った。

 どす黒い雲の端に隠れかけた無慈悲な満月が、ジャンバーの上に黄色く柔らかい光を浴びせかけた。


 その後の記憶はあまりないが、あれからの日々、天原は時々夢を見た。

 側頭部から軽く出血したその少女が驚いたような心外な眼を見開いたまま、ゆっくりジャンバーで覆われていく中で、こちらにギロッと視線を向けてくる夢。

 サイレンの反響音が徐々に大きくなるにつれて内臓をえぐる痙攣(けいれん)が強くなり、ついに我慢できずに嘔吐。

 いつもここで目が覚めた。

 一度だけ本当に襟元を黄白(おうはく)色の吐瀉(としゃ)物で汚しながら起床したこともあった。

 あの何かを訴えてくるような眼を思い出すだけで、いつでもあの陰鬱(いんうつ)な気分が蘇って吐き気と闘わなければならなかった。 


 しかし天原を苦しめる架空の記憶もようやっと影を潜めつつあった。

 今日までは。

 駅のホームで柱にもたれ、生気のない視線を向かい側ホームのオレンジ色のベンチに向ける。

 空を切りながら速度を緩める車両が起こす微風を顔面で感じ、彼はもう二度と出会うことのなかったはずの嫌悪感と再び格闘していた。

 数人の乗客が降りるのを待つ間、マスクの下で歪んだ青い表情が一層険しくなっていた。


                 ③


 天原は電車の中で少し前のめりになり、つり革に体重をかけている。

 五分程度そうしてぐったりしていると、少しずつ気分がマシになっていくのが分かった。

 窓の外の風景になるべく意識を向ける努力を続けながら、彼はなんとか体調を回復させつつあり、額を流れる冷汗がこれ以上彼の気を散らせることはなさそうだった。


 静谷に聞きそびれていたが、どれくらい時間のかかる話なのだろう。

 すぐに済む話とは決して言わなかったので、半日以上縛られることも懸念した方がいいのだろうか。

 今日も二十二時から例の駐車場でのシフトが入っていた。

 この急な招集に特別手当は出るらしいが、上がりはいつも通りでよいのだろうか?

 というかなぜわざわざ隣町の営業所まで呼び出されたのだろう。

 事件が起こったのは蛭山じゃないか。

 とつとつとそんなことを考えながら、天原は車両が動き出すのを体の傾きで感じていた。

 車内アナウンスが目的駅を二回繰り返した時、彼は鞄の中のスマホの振動に気が付いた。

 見ると静谷からLINEが二件。

 えっ、交換してたっけ……?


 『今日はいきなり呼び出してしまって申し訳ないです。もし朝何も食べてなかったら、途中コンビニで何かお腹の中に入れておいた方が良いかもしれないです。多少遅れたとしても(かじ)社長は何も言わないかと』

 『ちなみに伝え忘れましたが今日と明日のシフトは田川(たがわ)さんに代わってもらうよう手配しましたのでその点はご心配なく』


 ん? 今日と明日? っていうか社長!?

 一体何があったのだろう。

 どうやら事態は天原の想像より大事らしい。

 彼は自身の認識を改め、心がまたも不安で攻撃されるに堪えなければならなかった。

 車両の速度が落ちていくのを体の傾きで感じながら。


                 ④


 駅から徒歩五分のこじんまりした細いビルの二階から三階が、コーディー警備会社照岩(てらいわ)営業所にあたる。

 時刻は十時五十八分。

 天原は右手に垂らしたビニール袋の中身をチラッと見降ろしながら三階のドアが開くのを待っていた。

 朝食は確かに抜いていたが、元々が少食で特に今朝は食欲を気にする気分にもなれなかったので、何も買わずに駅構内のコンビニを後にしようとしたが、社長がいるのを思い出して水出しコーヒーのペットボトルを三本だけすばやく購入してから向かうことにしたのだった。

 他に誰かいる可能性はあるが、もはやここまで来たら詳細を教えてくれないあちら側が悪い。

 さすがに情報が少なすぎると、天原はやや苛立ちを覚え始めていた。


 梶社長とは面接のとき会ったきりだった。

 面識の少ないトップ・中間・末端のお話に二日間も時間が必要だろうかと天原が今になって疑問に思えてきたところで、向こう側からガチャっと扉が開かれた。


「時間どおりですね。さっそくどうぞ」

 言葉少なに天原を招き入れる濃紺スーツの淑女は、内に着込んだ淡い青の質素なブラウスとスーツに合わせたストレートパンツから、絶妙な近づき難さと落ち着きを身に纏っていた。

 天原が脇の方で謙虚に立っている消毒スタンドを使って両手を擦り合わせ終わるのを見届け、

「社長はこちらに。ご案内致します」

 と、静谷は慇懃(いんぎん)無礼な物言いで前置きもなく歩き出した。

 彼女は業務室に通じる扉の方へ、ヒールの低い漆黒のパンプスをタイルカーペットに打ち付ける短いリズムを刻んだ。

 左手でつかんだドアノブを回す間のほんの一瞬に、薬指の付け根で銀色の金属が煌めくのを、天原は事も無げに見つめていた。


 中に入ると中央の小さめのデスクの向こう側でオフィスチェアに腰かけた中肉中背でやや老年に差しかかかっている風貌(ふうぼう)の男が、狭い部屋の中でぼんやりとこちらに目線を投げかけていた。

 その男はすぐに立ち上がって柔和(にゅうわ)な表情を作り直し、抑揚のある声を張り上げた。

「――おお、時間どおりだね天原君。さすがさすが。いや~わざわざこっちまで来てもらっちゃって悪いね。ささ、どうぞこちらに座ってください」


 静谷はデスク右のパーテーションの裏にそそくさと姿を消し、天原は言われたとおりに用意してあったスタッキングチェアに腰を下ろしながらビニールの中身を取り出して軽く勧めた。

 部屋にはほんのりと冷気が漂っていて、天井隅の通風孔から弱々しい風が吹き出され続けていた。

 挨拶もそこそこに固唾(かたず)を飲んで背筋を伸ばしたまま待機していた天原は、肘をたて口元に両手をあてながら一人気まずそうに会話を切り出しかねている梶を、不思議そうな目付きで見つめ始めていた。

 もともと机に二つ並べられていたお茶が入った紙コップの内の一つを、ひったくるようにして持ち上げ飲み干すと、梶はやや遠慮がちに天原の目を見つめ、いきなり話を始めた。


「……覚えているとは思うが、先月の件について天原君は何か、こう……どう思っているのかな?」


 悪い予感は的中したようだった。

 しかし、天原の不手際を責め立てるにしてはやけに歯切れが悪い。

 彼の手の届かないところで、やはり何らかの事態が進行中らしい。

 天原は慎重に切り出す。


「――いやな事件でした。もっと冷静に行動できたのにという後悔もありますが……それよりも、理由はわからないんですが、やけに現場の様子が印象に残ってしまったらしくて……正直、トラウマです」

「君の苦労に対して、会社側のその後の配慮は足りていなかったように思う。特別研修を担当した朝倉(あさくら)くんからは君の落ち度は叱るほどのものでもないし、総合的に見て十分うまく対処してくれたという報告を受けている。ショックを受けているのは聞いていたが、君が休みをあまり取りたがらなかったのをバカ正直に受け入れるべきではなかったね。申し訳ないことをした。すまない」

「い、いえ、そんな――それに関しては自分で考えて出した決断なので、社長が謝るようなことではありません。ご心配かけてしまって、こちらこそ申し訳ないです……」


 梶は静かにうなずくと、そのまま下の方に視線を落として押し黙った。

 しばらくして、梶もまた、さきほどの天原同様慎重に語り出した。

「ところで、君は飛び降りた女性の名前は憶えているかな? 巻き込まれた方じゃなくて」

「はい。えっと、確か―――周防(すおう)瀬海(せかい)。令明大に通ってた二十歳の学生でしたよね。動機まではちょっと……詳しくは把握してませんけど」

「そうそう。そこまで憶えてたらいいんだ。うん……」

「……先ほどトラウマの理由がわからないと言いましたが、本当はわかっているのかもしれません。つまり、彼女についてなにもわかっていないことが――彼女の姿が監視カメラにも映らず、もちろんカメラには何の故障もなかったことが、理由なのかもしれません。こんなことあまりにも荒唐無稽で、それでいてあまりにも不気味です……」

「うん、そうだよね……」


 またも気まずい沈黙が流れる。

 結局梶は何が言いたかったのだろう。天原には先ほどから彼からの質問の意図が読み取れない。天原を責めるわけでもなく、何か今後の仕事に関わる新事実が発見されたという風でもない。

 天原の疑念は緊張と不安を食べて成長を続けていた。


 突然パーテーションの裏の隙間からわざとらしい咳払いが「コホン!」と発せられると、梶はチラッと声のした方を横目で見て、大きく息を吸った。

 そしてついに意を決したように眉を上げて両目を見開き、本題に入った。

「天原君、単刀直入に聞こう―――」

 腹から発せられる声音が狭い部屋に響く。


「―――天原君って、万博興味ある?」



「……はぁ?」


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