プロローグ
俺は二十五歳実家暮らしの無職。
人生に絶望真っ最中のどこにでもいる童貞弱者男性だ。
実家といっても寄生先は両親ではなく年金暮らしの祖父母。
父は俺が小三の時に脳梗塞で倒れ、母は俺が中学に上がる直前に何も言わずに失踪した。
以来母方の祖父母の家に引き取られ、現在まで住みついている。
こんな不幸でクズな俺でも、つい三十分前までは無職ではない、ただの冴えない非正規労働者だった。
いつも通りネカフェでのバイトのシフトが終わって意気揚々と帰りの準備につこうとしたところ、いきなり店長に呼び出されてクビを宣告された。
いままでも気に入らなかった職場は最速二日でばっくれた経験のある俺だが、
クビにされたのはこれではじめてだった。
なんだかんだ今までは、非社会的な数々の行動にも嘘と誤魔化しを駆使して言い逃れ続けてきたが、どうやらそれも限界が来たようだ。
無事無職となって夜の街を歩きながら、今俺は、自分でも意外なほどショックを受けていた。
いや、まあ、考えてみれば当然だ。
ここ数年で見事にダメ人間としての成長を果たしていた俺に、社会は情状酌量の余地なんか与えてくれるわけもなかったのだ。
大幅な遅刻や同じようなミスを繰り返して幾星霜、面接の時にはあんなに優しかった店長の両目から発せられる視線は、気味が悪くなるくらいに冷たかった。
一応軽く抗議のつもりで理由を尋ねてみたが、歯牙にもかけられず、すぐさま名札の返還を求められた。
言わなくてもわかるだろって感じの目だったな……。
そして俺は、そのまま追い出されるようにして帰路に着いた。
呆然としたまま、冷たい風に震えることもできず、トボトボ歩く。
事務室を後にする時、ほかの従業員たちと店長が何事もなかったかのように始めた普通の会話がずっと頭から離れない。
何でもない仕事上の話だったのに。
被害妄想だと頭ではわかっていても、厄介払いが済んでほっとしてるみたいに感じた。
一体俺が何をやったっていうんだ。
今日も何も言わずに一時間遅刻して、いつも通り面倒な仕事全部テキトーにこなしてただけじゃないか!
……さすがに逆ギレは無理があるか。
みんなストレス溜まってたのかなあ。だとしたら無責任に今更謝りたくなってきたけど……。
まあ、もう関係なくなっちゃったから、どうでもいいんだよな、こんな後悔。
あんなことを繰り返して、誰かと働き続けるなんてできるわけがない。
むしろ今まで一年以上よく見逃されたほうだ。
うん。そうだ。よく耐えた方だよ。俺でなきゃもっと早く見捨てられちゃうね。
何の自慢にもならない心の声に、我ながら嫌気がさし始めていたその時、無慈悲にも雪が降りが始めた。
今日の予報に雪なんて出てなかったのに……はあ、運悪。傘持ってきてないし。
忌々しいクソみたいなお天道様のせいで降雪は数分もしないうちにかなりの量と勢いに達し、俺の視界と体温は刻一刻と削られていくのがわかった。
罰かね、これも。犯した罪に対する。
いつも監視してるらしいしね、お天道様は。
俺の他に歩いてる人はみんな傘を差し出したり、走り出したり、目元に雪が当たらないように頭を少し下げながら各々対応してる。
半ば放心状態で歩いていたせいで反応が遅れた俺は、速足で駆けだそうとしたその時、フードをかっぶったまま目の前を小走りで進んでくる人と道を譲り合うのがうまくいかず、バランスを崩して何もないところで転んでしまった。
両手の平をすりむいて、膝頭が思ったよりも衝撃を受けていたことも最悪だったが、転ばせたフード野郎はおろか、すれ違う奴等全員がちょっと珍しそうに奇異な視線を送るだけなこの状況は、もっと最悪だった。
「クソが」
なんだって俺だけこんな惨めな目に遭わにゃならんのじゃ。
片膝を立ててお年寄りみたいな動作でゆっくり起き上がりながら、悪態をつく。
ああもう、この状況、完全に終わってる……。
……否、本当は終わってなどいないことは知っている。
ここで改心して、新しい仕事を真面目に始めて、さっさと年金暮らしの祖父母の元から独立するべきなのだ。
家事なんてほとんどやってこなかったゆとりZ世代の俺が、いきなり一人暮らしを始められる自信なんてまっぴらないが。
それでも始めてみれば案外なんとかなるものなのだろうか。まだ二十五だしこれからの再生のチャンスが途絶えているというわけではないのでは?
助けを求められるような友達なんてもういないし、祖父母には就職のための資格の勉強をし続けているという嘘を通してなんとかなっている状態がもう五年以上にもなる。
この状況を打破するのには……頑張るしかないんじゃないのか?
甘い考えはもうこの辺にして、底辺でもいいからクズから脱するべきなのではなかろうか――
めんどくさい。
ダメ人間としてかなりの年数を積んできている身としては、そもそもこれから新しい仕事を見つける気も湧かない。
今回のバイトが長く続いたのも、比較的楽して小遣いが稼げたからだ。
要領は悪いけどいい奴としていつまでも演じていれば、楽して居続けられるチョロい職場だと舐め腐っていたのだ。
きっとどこかでそんな姿勢も見透かされていたのだろう。
今思えば、いい奴にもなり切れてなかったから、こんなことになってしまったに違いない。
もうそんなこと、今となってはどうでもいいはずなのだが……。
これから同じような条件の職場をどうにか探し出して、クビにされない程度に真面目に仕事して、年金暮らしの祖父母の家から独立する――
うん、今の俺には無理だ。面倒くさいが勝っちゃう。
「……あ」
人生の反省会もいつも通り怠惰が優勢になり始めたところで、とりあえず今日は家に帰り、これもまたいつも通り、くだらないショート動画でも見漁って現実逃避に勤しもうと思ったところで、あることに気づく。
「チャリ忘れてた……」
店の裏口近くにある従業員用の駐輪場に停めた自転車の存在を完全に忘れていた。
乗ってきたのに。
演じてるうちにほんとにバカになってんのかもしんないな、俺。
またあそこに引き返すのは憂鬱だが、これ以上不運が起こらない限り誰とも鉢合わせにならずに回収できるだろう。
さっさと行こう。
そうして来た道を引き返そうと踵を返しかけて、明るく輝く満月が浴びせかける淡黄色の光に、俺はふと、無性に胸が搔きむしられるような感覚に陥る。
「……どこで間違ったんだろう」
思い付きで大学を半年で中退しまった時だろうか。
真面目に卒業していれば、今よりマシな状況だったんだろうか。
いや、一浪した末入ったあのFラン大に今入りなおしたとしても、コミュ障で無駄にプライドの高い今の俺が、有意義な四年間を過ごせるとはとても思えない。
それじゃあ受験のときだろうか。
もともと大して勉強ができたわけでもない癖に、身の丈に合わない志望校に固執し続けた結果が、現在に繋がっているのだろうか。
二年間で受けた中で一番良かった模試の結果はC判定。その他ほとんどがDかE程度の学力。
そのくせ第一志望以外は見向きもしなかった。
結果俺は何をしても受かることで有名な地元のFラン大学に行くことになったわけだ。
受験生のころに戻れたとして、もっと自分に見合った志望校で人並みに勉強を頑張ってそこに入学していれば、中退なんてせずにいまごろ普通に社会人でもやっていたのだろうか。
思えば高校受験も第一志望校は受からなかったし、もっといえば小学生の時から学力テストの結果は良くなかったと思う。
頭は初めから良くなかった。
いや、勉強に限った話だけではない。
思春期から謎に膨れ上がった俺の自意識は、徐々に大人になっていく周りの人間との距離を乖離させていった気がする。
軽く過去を振り返ってみても、数少ない友人を大切に扱えていたかと言われると、とても首を縦に振れそうにはない。
高校生になる頃には、過剰な自意識を守るために無根拠な偏見をもって周りと接し始めていたし、大学ではその傾向もより強まって、これまた無根拠に周りの人間を見下すようになっていた。
友達なんてできるはずもなく、そのころから孤立が当たり前になっていた。
そのくせ、これといった才能もないままに、生来の面倒くさがりも相まって特に何も行動を起こさなかった。
どれもこれも大して成果を残さないまま、中途半端で終らせてきた。
因果応報・自業自得。
いつまでたっても将来を真面目に考えてこなかった当然の帰結だ。
……結局俺がずっと大事にしてきたのは自信なんかじゃなく、たんなる虚栄心だったというわけだ。
俺にはそれしかなかったんだ。
そう思うと悲しくなると同時に、言い知れぬ脱力感に襲われる。
死にたい気分だ。
さっさといなくなって全部終わらせてしまいたくなる。
とはいっても、今までの経験上、俺は自殺さえ成し遂げられる自信がない。
ひとしきり自己嫌悪が済んだら面倒くさくなって、そんな気持ちから逃げるようにスマホをいじり出すのがいつものパターンだ。
それがどうしようもなくわかってしまうことにもまた、なけなしの自尊心をいたぶられる。
もうやめよう。
いつまでたってもキリがない。
どう頑張ったって、俺は結局同じような道を辿って今と大差ない人生を送っていたに違いないさ。
後悔するだけ時間の無駄。余計なことは考えるな。
現在の心境にそぐわない神秘的な満月を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えて彷徨を続けた。
自転車置き場に着いた。
そそくさとハンドルを握って、スタンドを後ろに蹴り上げ、自分のママチャリを出口へ押し進めていく。
容赦なく降り積もる雪に、だんだん震えが止まらなくなっているのがわかる。
この頃は春も断続的に顔をのぞかせ始めていたし、住んでる地域的にもう雪にお目にかかれることもないと思っていたのだが……こんな年もあるんだな。
自転車にまたがりかけたその時に、ガチャっと前方から店の裏口の扉が開いた。
「あっ菜野川君――ってすごい寒そうな格好してるね……。降り出してからここにずっといたの?」
振り向くと、暖かそうなトレンチコートに身を包み、傘を開きながら白い息に眼鏡を曇らせた砂田さんがいた。
反対の手には白い包装紙で包まれた手のひらサイズの立方体の箱を持っていたが、すぐにコートのポケットに隠すようにしまった。
「あっ、いえっとその、自転車乗って帰るの忘れてて、それで取りに来たってかんじ、ですね」
神様はずいぶんと私のことを嫌っているらしい。今日は例年まれに見る凶日というわけですね。
元バイトの先輩の砂田さんは、驚きの表情に徐々に困惑の色を見せ始めている。
自転車なんて普通忘れる? って顔になってきてる。マスク越しでもはっきりわかんだね。
ああもう最悪。
「はあ。なるほど……まあ、じゃあ帰りお気をつけて。おつかれさま」
「あっ、はい。じゃあ失礼します」
そそくさと自転車に乗って退散。砂田さんは反対方向の駐車場に向かっていった。
休憩時間に外の様子でも見に来たのだろうか。
あの箱って……ああ、そういえば今日は三月十四日だった。
おそらく職場の誰かから一ヶ月前のお礼をもらったのだろう。
誰にどんなつもりでどんなチョコを渡してたとかはもちろん知らないが。
俺の二月十四日と三月十四日は何も特別な意味を持たない通常の月日だ。
何か特別なことをしたりされたりなんてイベントはもちろん存在しない。
……ていうか別に隠さなくってもよくないか? 隠すものでもないはずなのに。
砂田さんは、俺がクビになったこと知ってるんだろうか。
何も知らないふりして余計な会話が生まれないように振舞っていた気がする……。
いや、そうだとしても軽く別れの挨拶くらいはしたほうが良かったのでは……。
うん。まあどうでもいいか。もう会わないしな。
必死にそう自分に言い聞かせながら俺は再度自転車に跨る。
全くなんて日だ……。
今ならどんな不運も現実になりそうだ。いきなりトラック君に轢かれて死ぬとか。
君がいないといつも物語が始まらないもんな。
それも今なら逆に幸運なのかも……苦しむ暇も考える暇もなく死ねそうだし。
寒さに耐えながら、来た道を折り返す。
家までは自転車で十分弱かかる。確実に風邪をひいて明日以降色々と厄介なことになるだろうが、今はさっさと帰ることに専念しよう。
雪からの避難が完了したのか、通行人はかなり少なくなっていたし、この時間帯にしては自動車も少なかった。
つまり幸い人身事故の心配はなさそうだった。いや残念ながらと言うべきなのか。
まあ死ねなかった場合あとあと面倒くさそうだし、幸いでいいのかな。
そうして全身凍えてペダルをえっほえっほと漕ぎながら、何気なく俺は首をゆっくり上げて、無気力に宙を仰ぐ。
その時だった。
「……ぁえ?」
少し先にある建物の屋上階のフェンスに、緩慢に動く人影があった。
よく目を凝らすと暗い色のパーカーを着た女性らしき人物が、通りの先に建つ立体駐車場の屋上フェンスをよじ登っているところだった。
何をしてらっしゃるのかしらと、一瞬アホみたいにその光景をただ見つめていたが、頭部がフェンスの上に出始めたところで、俺はほぼ反射的に叫び出した。
「――なっ何してんだ! 今すぐ降りろぉ!」
一心不乱に叫びながら少女の真下に向かって自転車を駆る。
その女性の動きは一切止まることなく、こちらの声が聞こえた様子もない。
どうしたらいいんだこれ。だれか止めるやついなかったのか?
俺が止めるの⁉ 警備員は何してんだよ!
「か、考え直してみよー!」
少し冷静さを取り戻したところで、逆に緊張が走り始めた。
自殺を止める呼びかけとして提案形はかなりおかしな気もするが、それも彼女には何も響いていないようで、ゆっくり這い登る動きに変わりはなかった。
今年一番の濃い息を吐きながら、寒さも忘れてペダルを高速で回転させる。
ついにフェンスから半身以上身を乗り上げたところで、俺は彼女の真下に到着した。
月明かりの逆光とフードを被っていたせいで見えずらかったその顔は、しかし真下からでもよく見えない。
「やめっ――ちょっと待てー!」
俺の続けざまの呼びかけもむなしく、生気の感じられない雰囲気の女性は無反応を返していた。
逆光がなくてもこの高さからじゃ顔は視認できないだろうか。
顔が見えなくてもわかる彼女の放心状態は、俺が先ほどまで感じていたそれとは比較にならないくらい深刻なのは間違いなさそうだった。
立駐の高さはだいたい八階建てのビルくらい。
女性は子供というほどでもないが、比較的若そうに見える。
俺と同じか、少し年下くらい。
そんな年頃の女の人が、今まさに屋上から飛び降りようとしている。
真夜中と呼べるほど深い時間帯でもないのに、彼女の行動を止めようとする声は俺以外になかった。
っていうか誰か来ないのかよ、こんな大声だしてんのに!
そしてついにフェンスを登り終え、足を跨いで外側に回った女性はそのまま何の躊躇もないかのように背中側から飛び降りた。
物体は物理法則に従った無慈悲な速度で俺の頭上まですぐさま落下してくる。
その刹那を遅く感じることはなかった。飛び降りる側でもないんだから当たり前か。
あまりにシームレスなその動きに、俺は声を上げることもできずに、ただ見つめることしかできなかった。
――俺はどうして避けなかったのだろう。
あれだけ必死になって止めようとしておいて、どこかでやはり俺も死を望んでいたのだろうか。
自殺が怖かっただけで、事故なら案外巻き込まれたかったのかもしれない。
迫りくる落下物の、怪我じゃ済まなそうな質量を脳で感じながら、その奥から少しずつ姿を見せる満月の光と、降り始めたばかりの雪が織りなす幻想的な光景に、俺は思わず感動を覚えてしまった。
そして俺はそのままつぶれた。
少女と地面に押しつぶされて。
間に自転車を挟んで。
しなびたサンドイッチのパンみたいにぐっちゃりと。