4話 近づく理由
「ごちそうさま」
「はい、ごちそうさま」
お決まりになった夕食の時間。航太と葵は揃って手を合わせた。
食器を下げると、航太はTシャツとハーフパンツに着替える。ランニングの時間だ。
玄関で靴を履いていると、エプロン姿の葵がひょいとこちらを覗いた。
「今日はどこまで行くの?」
「……往復10キロくらい」
「そっか。気をつけてね」
葵の声かけに、航太はただ背を向けて出て行った。
夜七時を過ぎれば、夏とはいえ日も暮れる。あいも変わらず蒸し暑さは残るが、直射日光がなくなっただけ運動するにはありがたい。
マンションから五分ほど歩いたところに川がある。両岸が舗装されたその道は、航太と同じようにランニングやウォーキングをする人がちらほら見える。
息を整え、航太は走り出した。
あの家での暮らしにも随分慣れた。自分でも驚くほどに。
夏休みの間いっぱい入れていたアルバイトの予定が潰れ、多方面に詫びを入れることになったのは想定外だった。
けれどその代わりに、航太は普段の安アパート暮らしよりもだいぶ、正直かなり快適に暮らしている。
自分の部屋からも荷物は持ってきていたが、生活用品のあれこれはあの女(怪我はこうむったが、世話になっているのも事実なので、何と呼べばいいか決めかねている)が一式揃えてくれた。
この酷暑において光熱費の類が浮いたのは、思わぬ収穫でもあった。
いつもならバイト代を切り詰めて生活しているのが、衣食住が保証されていると、こんなにも心安らかになるものかと航太は感心する。
けれど、生活が穏やかに感じるのは、金銭面のためだけではないことも感じている。
朝、誰かの気配で目が覚める。
軽いスリッパの音、冷蔵庫を開け閉めする音、フライパンを熱する音。実家に帰ったような心地でキッチンを覗くと、葵が顔を上げて「おはよう」と笑う。
一人暮らしのときは、白飯の上におかずもみんな乗せたどんぶり飯が多かった。それがあの家ではご飯に汁物、おかずの皿も食卓に並ぶ。
そして葵と向き合い、揃って食事に手を合わせる。
食事中は大した会話はしない。航太から話を振ることはないし、航太が自分のことを話さないと分かってからは、話を振られることもなくなった。
その代わり、食事中はテレビがついている。ニュースが流れていることもあるが、街で流行りのスイーツなどが特集されているときは、葵の反応も良い。
仕事柄料理は好きなのだろうが、甘いものも好きらしい。テレビに食いつく様子は、実家の弟妹を思い出す。
そんなことを考えながら、航太は道を折り返し、帰りのルートに入っていた。
すると航太の目に、マンション近くのコンビニが目に入った。スイーツも充実していると定評のある大手チェーン店だ。
普段なら物価の高いコンビニには目もくれず、スーパーで買い物をする航太。だが、今日はなんとなくランニングの道から外れ、店に入る。
店員の声と冷房を浴びながら店内を見回すと、スイーツの並ぶ棚に行き当たった。
最近のコンビニスイーツは、そうとは思えないくらい作りも凝っている。
航太がしげしげと棚を眺めていると、生クリームとスポンジ生地にベリーの乗ったケーキが目についた。時間も遅いせいか、割引のシールが貼られている。
普段の自分なら手に取らないシロモノだが、しばらく考えて、航太はケーキのカップを手に取った。ついでに同じく割引になっていた、カスタードシューも一緒にレジまで持って行く。
精算を終え、袋を提げて店を出る。
ケーキを崩すわけにもいかないので、ここからは歩きになる。
生活費が浮いたから。たまたま店に入ったから。ちょうど割引になっていたから。それらしい理由を口の中で転がすが、どれも言い訳めいている。
いつもの食事の礼に、という理由が一瞬浮かんだが、そもそも迷惑を被っているのはこっちなのだ、と航太は頭を振ってそれをかき消した。
「面倒くせーことしたかも……」
そんなことを考えているうちに、マンションのエントランスについていた。
ちょうど住人らしきスーツ姿の男性が出てくるところで、それと入れ違いに、インターホンの部屋番号を押す。
<はい>
耳慣れ始めた声に、まだ言い慣れない言葉を返す。
「……ただいま」
<大丈夫? いつもより遅いから、何かあったのかと思った>
「いや、別に」
帰りが歩きだったせいだが、その場での説明は濁す。
ドアが開くと、インターホンの通話を切って、エレベーターに乗る。階数ボタンを押しながら、航太はまだ言い訳を考えていた。
スイーツの入った袋を差し出す場面を想像する。葵はきっと驚きつつも喜んで、ケーキにあの眼差しを向けるのだろう。
──まあ、いいか。
理由なんかなくても、多分ケーキの方しか見ないだろうし。
エレベーターが目的階に止まって、ドアが開く。
部屋の前についてインターホンを押すと、パタパタとスリッパの音が近づいてくる。
葵の姿を思って、航太は小さく笑みを浮かべていた。