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ノンフィクション  作者: sui
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野良猫と彼

去年の冬、彼女は死んだ。彼女はただの田舎者。都会に憧れを抱いているただの大学生。そんな普通の日常を送れなくなるなんて、一体いつから彼女の歯車は狂ってしまったのだろう。

 

今から一年ほど前のこと、私は都会に憧れを抱き上京した。父が医者であることから、幼い頃から医療従事者になりたいという思いは強かった。だが、高校受験に挫折し一時は諦めようとしていた。まあ色々あって、結局私は諦めきれず薬学部へと進学した。引っ越しも済み、友達も出来てかなり良いスタートラインに立っていた。そんな前のめりで勉強に挑んでいた頃、友達の友達ということで何度かご飯に誘われた。友達が終わる日に、私たちは駅で夜通し話し込んだ。彼は優しくて、どこか寂しい顔を私に向けて見せた。「寒いね」とはにかんでは、気づいたら手が触れていた。ふと横を見ると、彼は頰をピンクに染めていた。それは私たちを包む冷たい風のさいか、それとも触れている唇のせいか。そのまま終電を逃し、朝まで寄り添っていた。

次の日から彼は、私を講義室まで迎えに来るようになった。校内ではラブラブだと冷やかしの声や羨ましいとも言われた。誇らしかった。彼はイケメンだったし、優しくて、私には勿体ないほどだった。いつだったか、彼がスマホのパスワードを全部知りたがったから、私は勿論と言わんばかりに全て曝け出した。帰ってから友達にメッセージを送ろうとしたら、男性の連絡先が消えていた。弟と父を除く男性がいなかった。私は必要なかった。いらない、と思ってしまった。それから彼は更に踏み込んできた。夏でも露出はしてほしくない、青い髪にしてほしい、男と話してほしくない、Twitterを辞めてほしい、電車に乗らないでほしい。これはほんの一部だが、いつのまにか彼はお願いではなく命令に変わっていた。服を勝手に買うな、スマホ見せろ、お釣りはトレーで貰え。そして次第に命令を守らないと、私は謝りながら泣きながら、彼の手に耐えるしかなかった。そして彼は、浮気は当然という顔になっていった。事あるごとに彼は浮気をして、私を傷つけた。いつの間にか涙も出なくなった。私がまるで私ではなく、何がしたいのかも分からなくなっていた。それでも私は彼を追いかけた。起きて彼がいることが、私が私で居られる唯一の瞬間だった。暴力、浮気、嘘、私なら何でも乗り越えられると信じていた。それは何処かで前のただの恋人に戻りたいという願いでもあった。そう、ただ、ただ只管に、月の形を観察することだけは忘れなかった。いや、忘れてはいけなかった。

初めは必要な物ばかりだった。何故だろうか。いつからか私は風変わりした。心も言葉も身体もプライドも。私に植え付けると同時に私を掻き乱す人がいた。時が経って、どうでも良くなる日が来ると思っていた。信じていた。暗闇でたった一つの月明かりを頼りにするように。それは暗中模索の日々だった。そして今、私の目の前には紛れもない事実が転がっている。これは夢なのか、幻なのか不思議な感覚に苛まれ、迷子になった。茜色の夕日が事実を照らしてきた。そもそも、『浮気』は初めてではないのに、私はなぜか初めての感触に吐き気がしていた。

 

 「実はずっと嘘をついていた。」ある晩に彼がそう言った。正直軽蔑した。これまでの想い温もり優しさ、どれも偽りだったなんて言わせない。思わせない。思いたくない。私はこれまでの思い出をかき集め、縋り付いた。音楽を爆音で流した。彼をデートに誘ってみた。性欲を増した。思う存分に寝た。思い出さないように、自分を必死で取り繕った。必死に喜怒哀楽を作ってみせた。そして愛することを止めなかった。だが、たった一つの想いが邪魔をする。逢いたい、あの頃の彼に。青息吐息をする日々に終止符が打たれた。嘘を知ったときの彼は曇り無き眼、それは悲しいくらいに美しかった。私は僅かに感じられる温もりの手で、彼を撫でた。私の知らない彼を無情で撫でることしか出来なかった。彼は意気揚々としていた。その雰囲気を壊さないように、涙が溢れないように笑っていたのか。正気の沙汰じゃない。私は何故かいつも以上に彼を抱きしめて眠りについた。

 何度か朝日を見逃したある日、私は彼の予定に付き合った。何本も電車を乗り換え、いつもと変わらず手を繋いで雑談をして、オトコから私を守ってくれていた。だがその時の私が何を思っていたのか、実を言うとあまり覚えていない。脳裏を埋めていたのは、「ワンナイト」「マッチングアプリ」「セフレ」「経験人数」「3p」「エロい」「太股」「可愛い」「ナンパ」私は彼を待っている間に購入した本をファミレスで堪能していた。瞬く間に時間が過ぎた。人が増えてきたのでその場を離れた。夕方だと憶えているが、街灯も見当たらないせいか、夜に捉えた。私の気持ちを呑み込んで、錯覚の世界を魅せてくれたのだろうか。さて、私は急ぎ足で彼の元へ向かった。その道中で違和感を憶えた。普段なら光もない真っ暗闇であれば不安が募る。よくドラマで見かける殺人現場のワンシーンが蘇るはず。今の私は妙だ。全く怖くないのだ。寧ろ通り魔と言う文字が過るほどに死を望んでいた。私がどれ程に暗雲低迷かを証明する。私は月に選ばれた。月へ伝う梯がおりた気がした。また、また錯覚の世界へ迷い込んだ。幻覚を見るほどに追い込まれている、自我を保たなければ―。

ある日、彼がワンナイトをして帰ってきた。「おかえり。」とメッセージを返す私。その日はなぜか、彼に逢いたくなった。だから私は、今日の予定なんてすっぽかすように彼の家に向かった。ドアの前につき、扉を開けようとして、辞めた。怒鳴られるかもしれない、叩かれるかもしれない、そう過ると私は佇むしかなかった。どれぐらい居ただろう。ついに欲が越えた。私はドアノブを回し「ねえ」と靴も脱がずに扉の向こうに話しかけた。肩を下ろし靴を脱ぐ。「ねえ」と再び呼びながら第二の扉を開くと、そこに知らない人が居た。たった六畳間のワンルームに敷いてあるシングルベッドにいた。私が居るはずの、私という存在を感じられる瞬間の場所に、知らない人が、居た。本当に居た。あれは現実だった。私は彼女から目が離せなかった。呼吸が浅くなった。バックが手からすり抜ける。私が崩れ落ちる。ドン、バタン、そんな音が鳴っても彼らの耳に届くことはなく、二人は抱き合って夢を見ていた。不思議だけど、涙なんて出なかった。ははっ、と笑うしかなかった。私は部屋を出てトイレに逃げた。「帰ろう。」私は最後に彼の頰に手を添えた。「さようなら。ありがとう。」

彼の顔は熱かった。

 真っ昼間の太陽が私を照らす。裏路地を歩き大通りに出ると、私はしゃがみ込んでいた。真っ昼間だというのに、私は泣いていた。私は強くなかった。今までの何かが込み上げてきた。苦しかった、辛かった、でも好きだった、出逢った頃の彼にまた会えるんじゃないかと、最後まで向き合えなかった、彼との日々、彼との部屋、彼との思い出、彼との帰り道、明日からは独り。彼は彼女と。結局は本気で好きになってしまった方が終わる。そう思うと、まだ帰れる彼の家に戻ろうかと足が向きそうになった。居ても経っても居られなくなり、私はその場に蹲るしか他になかった。肩に冷たさを感じた。せめてもの味方のつもりか、雨が降った。雨に任せて私は泣き続けることが出来た。だがそれは割と直ぐに止んだ。目の前に人がいた。彼は出逢ったことのない人だった。でも彼が私に傘を差し、包んでくれた、私は躊躇いもせず、彼に応えた。彼は腕の中で泣く私の頭を撫で続けた。

 目が覚めると私は大きな背中に揺られていた。生憎の豪雨に見舞われた為か、人の影は見当たらなかった。「あの」と一言。深く低い声が「起きた?」と応えた。雨音が強くなる。私は見当も付かないゴールへ運ばれる間、彼の背中を頼った。なぜか安心できる、この背中に。雨音が響く中、「着いたよ」と言われ二重ロックの玄関を通り越し、彼の部屋と思われる場所についた。初めて会った人の家なんかに上がり込むのはどうかと思ったが、彼が中々下ろしてくれないので選択の余地もなく入るしかなかった。私はどこか、「どうなってもいいや」と思っていたのかもしれない。ふかふかのソファーで下ろされた私は辺りを見渡す。あいつとは全く対照的な部屋だった。白で統一され、広くてとても整理されていた。「ちょっと待ってて」という声で我に返った。私帰らなきゃ、何してるんだろう。立ち上がろうとすると目眩がした。その衝動で私はまたソファーに戻った。彼が扉から帰ってきて、タオルと着替えをくれた。拭いて、と差し出されたけれど、そんな気力もなくて俯いていた。ため息を一つついた彼は、横にそっと座り、顔を覆うようにして拭いてくれた。よく分からなくて、私はまた涙に溢れた。彼はタオル越しに頭を撫でた。暫くして、「これに着替えて。」といって部屋を出て行った。私は大きなパーカーとジャージに着替えた。彼が帰ってきて、体温計を渡された。私は高熱だった。やっぱり、と薬と水を渡してきた。そしておでこに冷えピタを貼られ、寝かされ、毛布を掛けられた。すんなりと看病され、私は思わず「お医者さんなの?」と聞いた。いいから、とはぐらかされ、寝るように指示された。寝れるか!と思っていたけど、熱のせいもあり私はいとも簡単に寝てしまった。

 目が覚めたのはベッドだった。大きなベッドに独りで寝ていたらしい。横の机を見ると、スマホが充電されていて、持ってきていた荷物が置いてあった。時間はお昼を指していた。どれだけ寝ていたのか分からない、すっかり軽くなった体を起こして、リビングへ向かった。だがそこには誰も居なかった。その代わりに、テーブルの上に手紙があった。

―おはようございます。外に居るので、連絡をください。090-xxxx-xxxx 何でも好きに使ってもらって構いません。―

洗面所に行って髪の毛を整え、トイレを借りてから私は連絡した。

「もしもし、あ、えっと、色々とありがとうございます。ご迷惑をおかけして済みません」

「おはようございます。体調はどうでしょう」

「おかげさまで良くなりました…。あ、今どちらに?」

「外です。すぐ行くので待っててもらえますか?」

「あ、もちろんです。えっと、それじゃあ、待ってますね。」

「あ、冷蔵庫の中にゼリーがあるかと思います。お好きなの食べてください。」

「ありがとうございます。頂きます」

「それじゃ」

私、目腫れてたな。あの日のことが蘇ってくると、まだ苦しい。私は冷蔵庫に向かって、ゼリーを見つけた。5種類ぐらいある、見たこともないブドウゼリーを開けて広すぎるリビングで食べていた。その間私は、彼のことを考えていた。まだちゃんと顔を見ては居ないけれど、声に安心感を憶える。背が高くて、声が低くて、ただただ優しい人だ。すると玄関の扉が開く音がした。思わず駆け寄ったが、なんて言うのが正解だったのだろう。おかえりなさい、とその時は言ってしまった。初めて見る彼は、185センチ並の背の高さで、凜々しく清々しい顔立ちだったが、どこか疲れているように見えた。彼はただいま、と笑ってみせた。

 二人でテーブルにつき、私は食べかけのゼリーを急いで頬張った。彼は立ち上がってどこかへ消えると、私の横につき冷たい手をおでこに沿わせてきた。完全に熱が引いたのかを確かめたらしい。すると彼は、お風呂に入るよう勧めてきた。そう言われれば入りたいと思ってきた。

 私はお風呂場に移動して鍵をかけた。また、大きい彼の洋服を受け取った。部屋とは対照的に、お風呂場は黒で染められ、シックだった。いつの間にか張られた温かい水に包まれ、洗い流すと、鏡に映った自分と目が合った。それはそれは傷だらけで、汚らわしく感じた。早くなる鼓動を察し、私は急いでお風呂場から出た。恐かった。醜かった。肩を抱くように私はしゃがみ込み、震えが止まらなかった。

「誰、だれなの?」

「私は、わたしはどこ?」

「私の体を返して!」

独り言が叫びに変わった。溢れる涙。吸えない息継ぎ。止まらない震え。私は私を必死に探していた。

「どこなの!」

「なんで私がこうなるの!」

そう放つとドアが開いた。彼が丸み込んでいる私を抱いた。何も言わずに、ただ頭を撫でた。私は声を荒げて泣いていた。彼は濡れていた。それに気づいたのは随分と後だった。また彼に助けられてしまった。彼は必ず来てくれる。必要とする前に。

 私の呼吸が落ち着くと、とりあえず着替えて。と言い残して出て行った。言葉通り、洗濯機の上に置いてある服に着替えて、電気を消してドアを閉めた。すると彼がソファーに誘導してきた。私は彼が座る足下に座った。優しい風と大きな手が私を撫でる。私はただ前を向いて、彼に身を任せていた。しばらくして、彼もお風呂場へ向かった。私は彼が作ってくれたシチューを食べながら待った。机の上に薬と「食後2錠ずつ」と書かれたメモがあった。それを服用し、私はソファーに戻った。彼が上がってきたので、ここに来るように言った。彼は案外従順だった。そして次は、私が彼の頭を風と撫でた。同じ匂いで溢れたことが、少し私を明るくさせた。

「これじゃまるで恋人ですね笑」と笑うと、彼は

「やっと笑いましたね。」

とこちらを向いた。私は何だか照れくさくて、そっぽ向いた。お茶入れますね、と彼はせっかく移動したソファーから、台所へと移動した。

 私たちはお茶を飲みながら、沈黙を過ごした。それから私はあることを思いついた。

「そういえば、まだお礼を一つも言ってなかったです。色々本当にありがとうございました。助かりました。ほんとに。」

「いえいえ、仕事柄放っておけないのもあるんです。体調が治って本当良かったです。」

「そうなんですね、あ、お洋服、洗ってお返しします。それと、今日中に出て行きますので。」

「わざわざ洗って頂かなくてもいいですよ。それと…あ、いえ。」

「あ、何でも言ってください。お世話になっているので、出来ることならなんでも。」

「何でも、ですか。」

「私に出来ることなら。」

「では…今日、夜ご飯を一緒にどうですか?」

「もちろんです。喜んで。」

私たちは夜ご飯を食べることになった。

「じゃあ、いったん帰って準備でも…」

「待ってください。あなたを一人にはさせたくありません。何があったのかは分かりませんが、その、傷跡が見えてしまったので、危険です。帰りたいというのなら、僕も一緒に行きます。」

「私なら大丈夫ですよ。あ、でも、ここまでして頂いたのにごめんなさい。まだ家を教えられるような中ではないので…。なのにあなたの家で好きかってしているのは、ほんとごめんなさい。あ、そういうことなので…」

「だったら、夜ご飯はここで食べませんか?」

「ここで?」

「ええ、僕なりに腕を振るいますよ。」

「そんなに長居してしまってお邪魔じゃ在りませんか?」

「いいえ、寧ろずっと独り身でしたので、家の中が明るくて嬉しいです。」

私は彼の言葉に甘えて、夜ご飯をご馳走して貰うことになった。夜ご飯まで、まだまだ時間があるので、私たちは雑談を交わした。彼は気を遣うように、私に何があったのかは聞いてこなかった。

「あの、私に何があったのか聞かないんですか?」

「ああ…聞けないですよ。聞きたいですけど、僕が想像する以上に辛いことに出くわしたのだと思ってるので。でも、もし話す勇気が出てきたら、聞きたいです。」

彼はソファーに腰掛け直し、私の方を向いていった。私は唇を噛みしめ、一つ深呼吸をして、こう言ってみた。

「手を、握ってくれませんか?」

彼は無言で私の差し出した手をぎゅっと握った。そして、私が話し出すのをゆっくり待っていてくれた。私は事の経緯を説明した。暴力を受けていたこと、浮気をされたこと、最初は抽象的に話していたが、彼が話を遮らずに頷いてくれていたので、私は具体的に話すようになっていた。私が落ち着いて話せたのは、ずっと大きな手が、私を支えてくれていたからだ。そして私は気づいた。

「そういえば、私、まだあなたのお名前も何も知らないです。」

彼のことについて、分かることと言えば容姿だけ。私よりずっと高くて、がっしりしていて、服越しでも筋肉が付いていることが容易に分かる。顔立ちはイケメンと言われ慣れているような雰囲気で、だからといって欲深い感じはない。真っ黒に染まった髪は短く、歳がかなり離れているように思う。

「僕は。綾瀬智亮といいます。」

「ちあきさん。あ、私は古戸森すいです。歳は二十歳です。」

「二十歳だったんですか。大人びて見えますね。僕は25になります。」

「25.あ、お仕事とか、何されてるんですか?」

「消防士です。すいさんは学生ですか?」

「あ、そうです。大学生です。へえ、ちあきさんって消防士さんだったんですね。あ、だからさっき、職業柄って。」

「ああ、はい。あ、そうだ、そろそろ敬語やめませんか?」

「あ、そうですね。お互いのこと分かってきたし。ちあきさんのお話も聞かせてください。」

ようやく打ち解けられたような気がして、少しだけ嬉しかった。智亮さんはその後、仕事の話や家族の話、将来の夢なんかを話してくれて、私たちはあっという間に夜ご飯の時間を迎えた。私はあまり料理が得意な方ではなかったけれど、待っているのも億劫なので、彼の横で一人前に立って見せた。クールな彼が微笑んだのを見て、私は変な感情を抱いた。二人で、とは言っても大体彼が手掛けたハンバーグを美味しく頬張った。初対面なのに、ここまで話が途切れないのは、私は初めてだったので不思議な感じだった。食事が終わり、食器を片付けていると、彼の携帯が鳴った。出てください、と合図するように私は軽く頷いた。すみません、と彼は携帯を取った。台所から彼を見ていると、何やら急用らしい。

「すみません、出動命令がでたので行ってきます。あ、あの、もし良ければ泊まってって下さい。ここなら彼に居場所がばれることもないし。片付けは後でやりますんで、映画でも観ててください。一人にしてごめんなさい。」

彼は出る準備をしながら私に話しかけた。私は手を止めて、

「こっちなら大丈夫です。行ってください!」

と、彼の背中を押した。そして再び、いってきます、いってらっしゃい、と言って彼は出て行った。私は泊まるか正直悩んでしまった。迷惑かもしれない、でも建前かもしれない、色々と考えついた結果、とりあえず残りの片付けに取りかかることにした。一息ついたところで、私はソファーに着いた。久々にスマホを手に取ると、何件もメッセージが来ていた。見るとそれは彼からだった。

【すい?】【どこ?】【ねえ】【浮気?】【何してるの?】【今どこ?】【おい】【返事しろよ】

メッセージや電話で100件を超えていた。そうだ、私が出て行っただけで、ひょっとしてまだ別れてないのか?私は怖くなって、スマホの電源を切った。彼に私の家の場所は知られている。もしかすると、いや、確実に私の家に行っているに違いない。殺される。私はそう思った。気を紛らわすために、言われた通り映画を観ることにした。没頭していたのか、いつの間にか机に顔を伏せていた。

 「すいさん!」

慌ただしい声で私は起きた。

「あ、おかえりなさ…」

「良かった。」

彼は私を抱きしめた。

「え、智亮さん?」

「電話をかけても出ないので、一人で帰ってしまったのかと…。」

あ・・・そういえばさっき、携帯の電源切ったっけ。

「ごめんなさい、あの、彼から連絡が来ていて、恐くなってしまって、電源を切ったんです。」

彼はもう一度私を強く抱きしめた。心配した、といわれ、私はさっきの恐怖感から解放されたように安心して、涙が溢れた。いつも通り、彼が撫でる。そして彼と電話させてくれ、と言ってきた。でも、と返すも、嫌だったら断ってくれ、と返されるので、私はお願いしますと委ねた。彼がなんて言うつもりなのかは想像が付かなかったわけじゃない。でも、あいつと離れられるなら、何でもいいと思った。

 彼はリビングを出て行った。私に聞かせる気はないらしい。だが、私は気になって扉越しに会話を聞いていた。扉越しでも聞こえるあいつの怒鳴り声。思わず怯えてしまう。それでも彼は屈せずに話していた。私はてっきり彼氏です、と智亮が名乗る物だと思っていた。でも彼は、彼氏ではない、とはっきり答えていた。途中途中聞こえなかったけれど、私はもう聞くのを辞めた。心が痛かったから。ソファーに移動しようとすると、扉が開いた。変わって欲しいと言われ、首を横に振ったが、自分の口から言わないと終わらないと促され、私は電話を受け取った。

「もしもし。」

「お前今、どこにいんの?浮気だろこれ、俺がしてるから復讐か?」

たった数日しか逢っていないけれど、彼の声は久々に感じた。そして変わらず、私を罵倒する。謝罪とか、自分が折れるとか、一切そんな姿勢は見せなかった。これまでの思い出とか、出逢った頃のこととか、思い出すと泣きそうだった。まだ帰れるかもしれない。まだ、まだ戻れるかもしれない。私が悪かったのかな、私が弱かったのかな。そんなことを考えていると、彼が手を握った。私は何も間違えてないと、味方だと、私にはそう聞こえた。泣くのを堪えている間も、あいつは文句しか言わなかった。

「別れてください。」

彼の話を遮り一言放ち、私は電話を切った。その勢いで連絡先も消し、私はまた電源を切った。

「さて、寝よっか。」

そういうと、抱き寄せられた。泣きたいときは泣いてください、と言われる頃には泣いていた。

「わあし、すっごい泣き虫じゃん」

鼻水を啜りながらそう笑うと、彼は何も言わず、ゆっくり頭を撫でた。

「ココア。入れましょうか」

私はソファーに腰掛け、涙をぬぐんだ。彼が温かいココアを入れてくれて、二人で静かに飲んだ。明日、正確には今日の予定を聞かれ、明日は祝日なので講義はありません、と返すと、彼もお仕事はお休みらしい。というわけで、朝はゆっくりすることにした。補足だが、ここ数日の出欠は大学生あるある、と言うわけで割愛させて頂く。

 一段落過ぎ、日が昇る前に寝ようと飲み終わったコップを片すと、彼が、ソファーで寝るから、と言い出した。まあ確かに、恋人でもない同士が一つのベッドで寝るのは如何な物かと思うが、彼はここ数日ずっとソファーで寝ている。だから場所を交換しよう、と提案するも駄目だと言われてしまった。それでも私は彼にベッドでゆっくり寝て欲しい。やはり・・・

「お互いに背中合わせで寝ましょう」

二人ともベッドで寝られるということなのか、すんなり承諾されたが、どこか余所余所しかった。そして私たちはベッドに移動し、約束通り背中合わせで眠った。私は全く眠れなかった。緊張と言うより、あいつのことを思い出していた。こうやって、女の子と眠って、ヤって、私のこと何だと思っていたんだろう。どんな気持ちだったんだろう。気持ちが沈んでいた。でも、もう泣かない。あいつのことなんて忘れてしまおう。そう強く目を瞑るが、やはり簡単には眠れなかった。終わったんだな、と深く呼吸をすると、

「眠れますか?」

と小さな声で話しかけてきた。

「・・・眠れません。」

「それは、僕がいて眠れませんか?それとも、彼ですか?」

「あいつです。 私、わたし、知らなきゃ良かったなって、あいつを、心の底から憎めなくて悔しいです。」

だめだ、もう、いくら泣いても私止められないよ。うざがられるかな、こんなんだと智亮さんにも飽きられちゃうよ。

「・・・そっちを向いてもいいですか?」

鼻を啜る音が止まずにいると、彼が後ろから包んだ。しばらくそうしていると泣き疲れ、私は彼と向き合った。

「ありがとう」

そう言って無様な笑顔を作ることが精一杯だった。すると彼は鼓動に合わせて私の背中をトントンと叩いた。おやすみ、と低い声で呟き、眠れなかったことが嘘のように私は眠っていた。

 目が覚めると、私は彼の腕の中で寝ていた。彼はまだ眠っている。普段眼鏡をかけているので、初めて見る顔だった。じっと見つめていると、タイミング良く彼が起きた。

「あ、ごめん、起こしちゃった? おはよう。手、大丈夫?重かったでしょ」

「おはよう。おなかすいてる?」

「大丈夫。まだ眠ってて」

相当疲れていたのか、彼は抵抗するようにまた眠った。私はそのまま起き上がって、キッチンへと向かった。


 ずっと居候しているのも性に合わないし、そもそも恋人や夫婦と表せるような関係値ではない。私は智亮が寝ている間に事を済ませることにした。スマホのマップを見て、自分の居場所を確かめる。自宅は思っていたよりも直ぐ側にあった。電車を乗り換え、自宅へ着くと、私は驚愕した。智亮が言っていた光景が広がっていた。あいつが自宅に来ていた。逸早く捉えることが出来たので、私はそっと身を引いた。陰から彼をみていると、何やら携帯を耳に当てている。誰に電話しているのか。舌打ちを続けながら、携帯を何度も耳にかざしていたので、私宛かと容易に推測できた。警察に連絡すべきなのか、だが恋人であると言うことを証明できたり、或いは痴話げんかだと思われては、事を大事にするだけだ。どうにもこうにも、私が家に入ることは不可能だろう。私は智亮に電話をかけた。起きるかな、と不安だったけれど、仕事柄コール音には敏感らしい。


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