帰ってきた猫
我が家の座敷の床の間には一幅の掛け軸が掛かっているのだが、これが夜になると、たまに白いモヤを発生させることがある。
その掛け軸は先祖代々伝わる家宝の山水画で、それには霧がかかった川岸に浮かぶ一艘の小舟が描かれていて、その小舟に乗った蓑傘姿の漁師が川面に竹の棹を立てている。
私が幼少の頃。
子供は夜、床の間の掛け軸には近づいてはいけないと、父から幾度となく強く戒められた。
掛け軸が発する白いモヤに包まれると、身体の小さなものは描かれた絵の中に迷い込んでしまう。そうなると自力では帰り道を探せない。助け出してやれるのは、次にモヤが発生する夜まで待たねばならないのだという。
そして最近。
座敷に用があって入った際、私のあとについてきた飼猫が、その夜たまたま床の間に発生していた白いモヤの中に入ってしまった。
私の不注意である。
そのあとのことは父から聞いていたとおりだった。
飼猫はモヤに包まれて消えてしまった。
翌朝。
飼猫は掛け軸の中の漁師の膝で丸くなっていた。
その後。
毎朝、飼猫のことが心配で掛け軸を見るのだが、飼猫はずっと漁師の膝の上にいた。
もうこちらへ帰る気はないようだ。
一カ月ほどが経った。
その日。
座敷から飼猫の鳴き声が聞こえた。
襖を開けてやると、飼猫がひとつ背伸びをしてから出てきた。夜の間に掛け軸からモヤが発生し、飼猫はどうやら運よくそれに乗じ、帰り道を見つけて帰ってきたらしい。
帰ってきた飼猫はずいぶん肥えていた。
掛け軸の中では毎日、釣れたばかりの魚をいただいていたようである。
オレは飼猫に言ってやった。
「こっちじゃ毎日、魚ばかり食わせられんからな」
ニャアー。
飼猫がオレを見上げて甘えた声で鳴き、それから足にすり寄ってきた。
こいつ、オレのそばがやはり一番いいらしい。