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盾の魔女と魔導の杖  作者: 雨谷結子
第九章 約束
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3 魔法契約

「——百鬼宵」


 ユーリスが唸る。彼は七々子を庇おうと前に出ようとしたが、その思惑はニケによって阻まれた。

 百鬼は上体を起こして七々子たちの元までやってくると、ニケを見やった。


「待ちくたびれたぞ。いくら無能でも、予言とこれだけ材料が揃っていて失敗することはないとは踏んでいたが。上にせっつかれてな」


 百鬼は仲間に向けるものとは到底思えない言葉で、ニケを断じる。

 ニケは怒ったふうでも傷ついたふうでもなく、いつもの調子で「ごめーん」と手を合わせた。


「それでどうなんだ、ニケ。同じ隊のよしみだ。本当のところをこいつらに教えてやったらどうだ?」


 百鬼は心底愉しげにニケを促す。

 ユーリスが詰問するようにニケを見やった。ニケは皮肉っぽく口の端を上げる。


「おれの意志だよ。金が欲しかった。きみらには、浅ましすぎて理解できないでしょ」

「……それでも、奴らを何年も間近で見ていれば、どれほど非道な連中か分かったはずだ。ニケ、おまえはその男とは全然ちがう。途中でそんな仕事は投げ出して、ローグハインの先生に庇護を求めることだって——」


 なにを言っても今さらだ。そんなことは分かっていても、ユーリスはそう言わずにはいられなかったのだろう。

 ニケは酷い冗談を聞いたとでも言いたげに失笑する。


「八歳の頃だったかな。ビステで盗みやごみ漁りをして暮らしてた頃にね、第六時の塔の前身の組織の偉いおじさんが、おれのとこにやってきたんだ。おいしいご飯を食べさせてくれて、新しい服を買って、住む場所もお金も、おれの欲しかったものをなんでもぽんぽん出してくれてさあ。おれにはその人が、世界一の魔法使いに思えた」


 ニケは子どもの頃に帰ったような夢見るような表情で呟いたが、耳にかかっていた珊瑚色の髪がこぼれ落ち、頬に暗い翳を落とす。


「その人が最後に出したのが一枚の紙だった。びっしり黒い模様が書かれてるの。後で知ったけど、文字だった。これはなにかって聞いたら、紙にサインをしたらわりのいい仕事をあげるって言われてさ。おじさんが手本を書いてくれて、それでその紙に人生ではじめて書いたのが、自分の名前だった」

「……魔法契約か」


 ユーリスは呻くように言った。

 魔法契約。

 七々子たち梣隊を結ぶ鹿角の隊分けと同じだ。魔術を介して結ばれた契約は反故にすることはできない。その契約を破棄するか、契約者が契約不履行状態に陥らないかぎり。

 おそらくニケは、第六時の塔を裏切ることができないたぐいの魔法契約を結ばされている。

 七々子は弾かれたように百鬼を睨みつけた。


「そんなの、自分の意志だなんて言わないわ」

「今日は随分と勇ましいな、七々子。翅虫同士、気が合ったか?」


 首を傾げて眸を覗き込まれ、情けなくも意気が挫けかける。手指が震える。


「よく考えてもみろ。その契約がなければ、そいつは野垂れ死んでいた。むしろ、ありがたい慈悲だと思わないか?」


 ほとんど騙し討ちで結ばされたであろう魔法契約にもかかわらず、ニケは百鬼の言葉に反論しない。百鬼の言葉に理があると考えているのだろう。それが悔しい。

 七々子は組み合わせた手の甲に爪を立てて、顔を上げた。

 もう一度、百鬼をきつく睨み据える。


「詭弁よ。なにも知らない子どもを騙して、その人生を踏み躙っておいて、慈悲なんて言葉を使わないで」

「契約が気に入らなかったなら、それを反故にするだけの力を身につければよかった。術者を殺すだけの力をな。十年以上も時はあった。にも拘らず、時を浪費して奴隷として生きる選択をしたのはそいつだ」


 百鬼は嘲るように乾いた嗤い声を上げる。


「もっとも術者は少し前に死んで、今はその契約も俺に承継されている。もはやその翅虫に破棄できるとも思えんがな」


 百鬼は懐から取り出した一枚の紙をひらりと振った。

 あの契約書を破るか、百鬼が死人にならなければニケの契約は解除されない。


「そいつが弱くて愚かで、その現状を変えようともしない屑だったのが悪い。本当に嫌なら、選択肢は他にもあった」


 百鬼の言葉に、ニケがぴくりと肩を震わせる。

 他の選択肢。問うまでもない。契約を反故にするためにみずから死を選ぶということだ。そんなものを選択肢と呼んで憚らない百鬼に吐き気がする。


 七々子はニケに視線を向けた。


「ちがう。ニケ、あなたは選ばされたの。あなたがどれだけやさしい人か、私は知っている」


 ニケは彼らしくない嗤いかたをした。


「それはそうやってナナコちゃんたちを信用させるためだよ。それがおれの役目。ぜんぶ、嘘だったんだよ。現実を見なよ。今きみに銃口を向けているのは誰?」


 その問いに反駁するように、ユーリスが口をひらいた。


「じゃあ交流祭のあと、僕らに逃げろと言ったのは? あのときおまえは魔法契約に抗うような真似をした。その罰を受けたから、倒れかけたんだろう。僕らをここに連れてきたくなかったから。交流祭前にリリ先生を焚きつけたのも、先生に襲撃を止めてほしかったからじゃないのか。いいや。先生に正体を暴いてほしかった?」


 畳みかけるような言葉に、ニケは苛立たしげに撃鉄を起こしてユーリスに突きつける。


「だからぜんぶ嘘だったって——」

「これは傑作だな。ニケ、お前には魔術の代わりにとんだ芝居の才能があったらしい」


 百鬼の言葉に安堵したように、ニケは表情をやわらげて息をつく。百鬼の元までたらたらとした足取りで歩いていくと、彼の腕に自分のそれを絡めてしな垂れかかり、七々子たちを見やった。


「さっきショウちゃんが言ってたとおりだよ。おれはねえ、おれの人生こんなもんだなって納得してるし、きみたちみたいに高潔に生きらんないの。そんな人間と組まされて災難だったね。なんだって鹿角はきみたちとおれを同じ隊なんかに選んだんだか」


 ニケはへらへらと笑いながら言う。

 その様に、深い絶望感が押し寄せてくる。

 本当に、ぜんぶ嘘だったのだろうか。

 今だから思う。ニケは七々子たち梣隊の精神的な支柱だった。

 ニケだけが、七々子とユーリスを本当の意味で守ろうとしてくれた。ニケがいなかったら、七々子はきっとユーリスに惹かれるどころか彼という人間を信頼することひとつできなかったにちがいない。

 ひと月ほど前に校内がふたつに割れたとき。心も身体もぼろぼろだったあのときに、骨火の間で不器用に七々子の背を撫でてくれた彼の手の温かみを、昨日のことのように思い出せる。

 そうして偽りの信頼関係を築きあげて、海底樹海の試験を突破することがニケの仕事だったのだと理性は告げているのに、どうしても納得ができない。

 ぎゅっと拳を握りこむと、昨晩ニケにねだって塗ってもらった爪の赤が見え隠れした。除光液を使ったところで、この胸にこびりついた感傷はなかなか消えてくれやしないだろう。


 百鬼はニケの腕をほどくと、七々子の目の前まで歩いてくる。


「このろくでなしの方がよくよくわきまえているぞ。お前ももう少し賢い女だと思っていたがな。翅虫には翅虫の振る舞い方があったのを思い出せ。昔のお前は、ちいさな身体で俺のあとを一所懸命についてきて、それは愛らしかったのになあ」


 百鬼の眸が、血塗られた赫に染まる。七々子の口から、噛み殺し損ねた悲鳴が漏れ出た。

 骸になった光理と連れ去られた日鞠と、磔にされて四肢から血を流すユーリスの姿がフラッシュバックする。


 七々子は二歩、三歩と後退したが、すぐにその距離は詰まる。

 恐怖に引き攣った七々子の顔を百鬼は眺めやる。頬から顎を、彼の冷たい指先が滑った。


「せっかくくたばらずにここまで来たんだ。あいつの妹が供物になるのを見届けてやるといい」


 日鞠の死を示唆する百鬼に目の前が真っ暗になる。身体の力が抜けて、膝から床に頽れそうになる。

 交流祭で日鞠が奪われるのをへたり込んで見ていたときも、四年前に光理が殺されるのを見ていたときもこうだった。

 百鬼を前にすると、おのれがどれほど無力かを嫌というほど思い知らされる。覚悟も意志も露と消える。

 その方が楽だった。決して敵わない相手に抗い続けるよりも。

 けれど。


 ——ななちゃんがななちゃんであることを捨てないで。


 日鞠の言葉が、そしてユーリスの存在が七々子の顔を上げさせる。


「——!」


 百鬼の肩越しに、ユーリスが必死になにかを怒鳴っている。けれども、それは音にはならない。おそらくニケの憑霊術が作用している。

 自惚れでなければきっと、七々子のための怒りだ。それに勇気づけられるように、七々子は百鬼の手を振り払う。

 百鬼は七々子の思わぬ反抗に、不愉快そうに眉根を寄せた。


「本当に愚かになったな。……まあいい。すぐに思い知る」


 そう言って、百鬼は七々子を解放すると通路の奥へと歩みを進めた。

 ニケの憑霊術によって、七々子の足も勝手に動き出す。

 ユーリスを追い抜きざま、指先と指先が触れ合った。ほんの刹那、彼の体温が絡まる。理知的な碧の眸がまっすぐに七々子を見ていた。

 薄い唇が、声にはならない言葉を形づくる。大丈夫だ、と言われた気がした。

 なんの根拠もない言葉なのに、それはからからに乾いた砂漠のような心を潤していく。

 七々子はちいさく頷いて、百鬼の背を追いかけた。

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