5 裏切り
「オズマリオン!」
鉄砲玉のように飛びだし、七々子はユーリスの身体を支えようとする。けれども男ふたり分の体重など到底支えきれずに一緒になって泥濘に沈んだ。
ユーリスは朦朧とした様子だった。
顔色は蒼白で、唇からは水分が失われて罅割れている。七々子はすぐさまユーリスとサルヴァンに止血の処置をほどこした。
だが、ユーリスの息は細い。
出血のせいだけではなかった。ここまでひどい状態ではないが、七々子も同じ症状だから分かる。魔力切れだ。
時を止める魔術など、普通は一介の学生が使おうと思って使えるものではない。古代魔法に限りなく近い魔術なのだ。
魔力切れは時間を置けば回復する。本来は、命に係わるようなものではない。
しかし凶悪な境界生物もうろついている海底樹海で長々とこの状態でいるのは命取りだ。
「ニケ、魔法の鈴を出して」
七々子はニケを振りかえって言う。
ニケはまだ、櫟の木の傍に佇んでいた。
いつもの彼なら手当を手伝ってくれそうなものだが、その場から動こうとしない。外傷はないように見えたが、サルヴァンに殺されかけて精神的なショックを受けたのかもしれなかった。
「……ニケ? 大丈夫?」
七々子の呼び声に、ニケはぼんやりと首をめぐらす。
「んー、それより魔法の鈴使ったら、失格になっちゃうけどいいの?」
「私たちじゃなくて、フレンたちの隊に使うのよ。空間転移水晶は意識のある人しか連れて行ってくれないの。彼をこのままここに置いておくわけにはいかないわ」
ニケはバックパックの中身をひっくり返した。
「どっかに落としてきちゃったみたい。ナックラヴィーに追われたときかな」
ニケは大騒ぎするでもなく、淡々と言った。
七々子は引っかかりを覚えつつも唇を尖らせる。
「もう、それだけは無くしちゃだめって言ったのに」
意識のないサルヴァンに謝ってから、彼のポケットをまさぐる。
しかしこちらもそれらしきものは見当たらなかった。
「ないなら仕方ないわ。私たち三人だけ先に戻って、先生の助けを呼びましょう。いい? ニケ、空間転移水晶に触れて、行きたい場所をはっきり発音するの」
「ニケ、間違えるなよ。骨火の間だ」
ユーリスは七々子の肩にもたれて、口の端を上げて皮肉を言う。ぼろぼろだが、それだけ言えるなら大丈夫だ。
「間違えないって。……おれも、なんのためにここまで来たかくらいは分かってるってば」
ようやく七々子たちの元まで降りてきたニケが、サルヴァンを運ぶのを手伝ってくれる。
サルヴァンを櫟の木の根元に寝かしてやると、ニケは預けていた瓶から水晶を取り出して手のひらに乗せた。七々子とユーリスも水晶に手を触れる。
いつもはユーリスが仕切るところだが、ぼろぼろの彼の代わりに七々子が主導権を握ることにした。
「一、二の三で言いましょう。いい? 一、二の三」
「——第六時の塔、ユルグ北西アジト」
三人の声がぴたりとはもった。
木々のざわめきの音が遠ざかり、浮遊感が身体をつつむ。
今、自分はなんと言った?
骨火の間と言うはずだった。そのはずなのに。
愕然として、七々子は自分の喉を押さえた。
いや七々子だけではない。ユーリスもニケも、同じ場所の名を口にしなかったか。
臓腑の奥から引っぱられるような感覚がして、転移魔術が展開しはじめたのを認識する。
それからすぐに、身体の内側に違和感を感じた。
違和感。
異物感と言い換えたほうがいいかもしれない。
椿木の血を引く魔術師は境を見いだす。生と死の境、聖と俗の境、そして自己と他者の境。だから七々子にはすぐに分かった。
肉体に、自分ではないものの感覚が入り込んでいる。
そして今この瞬間、七々子の隣にはそんな芸当を可能にする才をもつ魔術師がいた。
ユーリスは茫然として微動だにしない。頑ななまでに、みずからの足元を見つめている。
嘘だ、という声は七々子と同じ結論に達したことを物語っていたが、とてもそれを受け入れることはできない様子だった。
だから七々子はゆるゆると琥珀色の眸を仰ぐ。
いつも柔らかい色をたたえてくしゃりと細まるその眸は、今や硝子玉じみて七々子とユーリスを見下ろしていた。
「どうして。ニケ」
ニケは笑んだ。
哀れむように、諦めるように。小さな子どもに面白がって踏みつぶされた蟻の子らを眺める傍観者のように。
「——だから言ったでしょ。憑霊術師なんか信じたら酷い目に遭うってね」
その声を最後に、七々子の身体は彼方へと投げ出された。




