7 夜と熱
「なんできみたちがそうして苦労を背負いこみたがるのか、分かんなーい」
ニケは茶化した調子で言ったが、その声にはいつもへにゃへにゃ笑っている彼らしくもない苛立ちが滲んでいる。
「んな面倒、きみらの父上とママにまるっと投げときゃいいのにさあ」
ニケは理解できないといった様子で両手を上げて肩を竦める。
彼は解放派にも規制派にも関わっていない一匹狼だ。校内の対立は彼には馬鹿馬鹿しくすら見えるのかもしれない。
ニケはうるさく目にかかった髪を掻き上げると、生真面目な顔をしてユーリスと七々子を見つめた。
「きみたちは、そんなものを背負う必要はないんだよ」
ユーリスはいまいち理解が追いつかない様子で瞬きをした。七々子もニケに曖昧に笑みを返す。
「まだきみら、十七歳だ。まっとうに青春して、友だちつくって、時々羽目を外して、恋をして。それでいいんだよ」
魔法界と非魔法界のこと。校内の対立のこと。七々子やユーリスを頼ってくれた友だちのこと。そういうややこしいことすべてをどこかに置いてきた、無責任で、だけどただただ七々子とユーリスのことを思ってくれる言葉だった。
「選ばされたわけじゃない。僕が僕の意志で、そうしたいと願ったんだ」
「私もよ」
「……はあ、これだからくそまじめは。まあきみらがおれの言葉を聞いてくれないのは分かってたよ。でも、この際本音を言わせてね」
溜め息まじりに言って、ニケは目線を上げる。
その眼差しの鋭さに、七々子は息を呑む。
「逃げちゃえば?」
常に浮かべた笑みを掻き消して、ニケは続ける。
「逃げちゃいなよ。きみたちがなんでもかんでも引き受ける謂れはないでしょ。きみたちがそうやって人より沢山のものを背負わされて、そのせいで傷つけられてんの、おれはすごくいや」
このローグハインから逃げる。そんな選択肢を考えたことはなかった。
でももしかすると、そういう道もあったのかもしれない。七々子が百鬼のことなど綺麗さっぱり忘れて、瞳子の指令も突っぱねて、エルリーたちの願いにも耳を塞いで。そうしたら、七々子はユーリスとただの友だちになれただろうか。それとも、そもそも出逢うことすらなかっただろうか。
ただひとつ分かっているのは、ニケの言うとおり七々子もユーリスもそれを選ばないということだ。
「あっ、つ」
唐突に呻き声が聞こえて、七々子ははっと顔を上げる。
ニケが顔を顰めて蟀谷のあたりを揉んでいた。椅子がぐらりと傾ぎかけたのを、ぐっと足で踏ん張って耐えている。なにかの発作でも起こしたみたいに呼吸がひどく乱れていた。
「この間の襲撃のときの傷か?」
七々子とユーリスは駆け寄ったが、ニケは蟀谷を押さえたままへらりと笑った。
「ちがうちがう。ちょっと昨日、新しい事務のお姉さんといい感じになっちゃってぇ。それでまあちょっと、朝まで盛り上がっちゃって寝れなかったんだよねえ。続き、聞きたい?」
すでにニケはいつもどおりの様子で、ユーリスは夏場の腐った生ごみでも見るような顔をした。七々子もちょっと頬を赤らめてからなんだ、と息をつく。
「誰が聞くか。早く巣に帰れ。不純と不潔がうつる」
しっしと手を振って、ユーリスがニケを追い出しにかかる。
「ええ~。おれのご高説を拝聴したいんじゃなかったの?」
「きみの論点はだいたい理解できた。帰ってよし」
「つめたーい」
ぶーぶー文句を言うニケに七々子は少し笑ってみせる。
「この人、照れてるのよ。ニケが、あんまり私たちにやさしいから」
七々子の指摘に、ユーリスはかっと頬に朱を走らせる。
ニケは一瞬口の端を上げたように見えたが、俯いた顔に珊瑚色の髪が掛かって、その表情は分からなかった。
「ごめん、ほんと寝不足みたい。先、寝るね。あ、そうだ」
ニケは向けた背をちょっと返して、いつもの情けない顔で眉を顰めた。
「きみたちまた会うたびガミガミ喧嘩するわけ? それちょっとおれの繊細なハートがもたないんだけど」
「べつに必要もないのに、争うつもりはない」
「それって必要があったらするってことでしょ」
「今の情勢では、仕方がないわ。時にはガス抜きも必要でしょうし」
ニケはげんなりした顔をした。
「んじゃ、同じ隊のメンバーとしてひとつ要求したいんだけど、おれたちだけのときは、今みたいにして。それがおれの譲れない条件ってことでひとつよろしくよろしく」
ひらりと手を振って、ニケは七々子たちの答えも聞かずに身を翻す。
あとには、七々子とユーリスだけが残された。
見送りのために肩も触れそうな距離で立ち尽くしていたことに気づいて、七々子は慌てて距離をとる。
「それじゃあ、私も失礼するわ。消灯時間も過ぎているし」
言い訳がましく言って、七々子はそそくさと研究棟を出て行こうとする。
「七々子、待って」
やにわにその腕を引かれて、七々子は後ろに踏鞴を踏む。バランスを崩して、背中から床に倒れそうになった。
「っと、ごめん」
腰にユーリスの腕が回る。同年代の男子と比べると薄い身体をしていると思っていたのに、彼の身体はびくともせずに七々子を受けとめた。傍から見れば、後ろから抱きすくめられているような恰好だ。
剥き出しの耳朶にユーリスの息が触れる。熱い。身体の芯を痺れさせるようなふるえがきて、ぎゅっと目を瞑る。
心臓が早鐘を打って、思考回路がちいさな子どもの落書きみたいにぐしゃぐしゃに散らばる。
たまらなくなって身を捩れば、密着していた身体が離れた。彼はいつだってそうする。七々子の意に反する真似はしない。
けれど、このときばかりはどこか名残惜しげにユーリスの手が七々子の手を持ちあげた。
「この爪、ニケが?」
背中越しに、頭の上から声が降ってくる。身体全部がくっついた状態ではなくなったが、それでも距離は近い。
なんだか気恥ずかしかったが、なぜ呼び止められたのか合点がいく。
大方、ニケがほどこしてくれたこのちいさな魔法をじっくり見たかったのだろう。
「……ええ」
「きみによく似合ってる。綺麗だ」
ユーリスはさらりと言う。
七々子は頬に熱が集まるのを感じたが、爪がね、と心のなかで必死に言いつくろった。
このままの体勢でいるとますます訳の分からないことになりそうで、身体をひねってユーリスに向きなおる。けれど、思っていたより間近で目が合って、さっきよりももっとずっと訳の分からないことになった。
骨火に照らされたユーリスのエメラルドグリーンの眸は、なんだか知らない男のひとのものみたいに大人びた熱を灯していた。
胸の辺りを押さえて俯く。そうでないと、心臓の音がユーリスに聴こえてしまいそうだと思った。
ユーリスは一度は離した手を、もう一度七々子に絡める。もう用は済んだというのに、指先やその付け根を撫でたり摘まんだりして、なかなか離す気配がない。
「……オズマリオン?」
「ユーリス」
「え?」
「僕の名前、ユーリスというんだけど」
「知ってるわ」
真顔に返って、七々子は目を瞬く。
ユーリスは苦笑してから、焦れたように言葉を続けた。
「きみは、名前で呼んでくれないのか?」
七々子は耳まで赤くなった。
「だって……今さらだわ」
「僕にとっては、今さらじゃない。呼んでほしい」
ユーリスの名を呼ぶ。
今まで一度も考えなかったわけではない。
彼は今まで何度も七々子の名を呼び変えてきた。帀目語が堪能なくせに、呼びなれない響きだとでも言うようにイントネーションを間違えたファミリーネームを呼んでいた頃が、懐かしく思い返される。きっと最初の頃のあれは、わざとだろう。七々子やその母国に興味などないという当て擦りのつもりだったにちがいない。
でも今は、七々子を呼ぶ一音一音に深い信頼と敬意が込められているのを感じる。ただの個体識別のための名称としか思っていなかった自分の名前が、なにかとくべつなものであると錯覚してしまいそうになるくらいには。
「で、でも、私たちが友だちみたいになってたら、それはそれでおかしいわ」
「べつに名前を呼ぶくらい、ふつうだろ。同じ隊なんだし、不自然じゃない。気になるなら、それこそニケの言うとおり、三人のときとか、ふたりのときだけでもいい」
「そ――」
それはそれで、とくべつ感があっておかしい気がする。
秘密の恋人かなにかみたいだ。七々子とユーリスはぜんぜん、そういう関係じゃないのに。
「情けない話だけど、きみに見限られていないという証がほしい」
思いもよらぬ言葉に、七々子は訝しんで顔を上げる。
「意味が、分からないわ」
「ザネハイト先生の言葉の意味を考えたんだ。交流祭で僕は二度、古代魔法に手を出そうとした。魔法使いには程遠い。どころかきっと、この世界でいちばん百鬼に近い場所にいる」
七々子は目を見ひらいた。
交流祭からこっち、ユーリスは憂いを帯びた目をすることが増えた。だが、そこまで思いつめていたとは思わなかった。
「そんなことない。ぜったいにないわ。ユ——」
「ユ?」
「————ごめんなさい、やっぱり無理よ」
七々子は口元を押さえてユーリスの磨き上げられた革靴に視線を落とす。
「他の子の名前は呼ぶのに? ……バンノンやエルリーまで」
拗ねたような声に、胸を引っ掻かれる。
でも、他のみんなの名を呼ぶのと、ユーリスの名を呼ぶのとでは、全然意味がちがうのだ。
だって、きっと漏れてしまう。
信頼だけでも、敬意だけでも足りない、心の奥底に押し込めた想いが。その名を口にした分だけ、きっともっとずっと大きくなってしまうにちがいない。
そうしたら、ユーリスを困らせる。
ユーリスは七々子に途方もない信頼をくれた。彼が手を伸ばすことのできないものを、彼の向かいで守ることを、託してくれた。
魔術の腕も人としての器も遠く及ばない七々子にできることは、がむしゃらにその信頼にこたえることだ。余計なことを考えている暇はない。
それにやっぱり、これ以上この想いを育ててしまうのが怖かった。七々子にとって、恋というものは百鬼に深く結びついている。最悪な結末を迎えた、呪いのような記憶に。
黙りこくっていると、ユーリスはなおもなにか言いたげに七々子を一瞥する。
けれど結局なにも言わずに自分の外套を手にとると、七々子に手渡した。
「女子寮まで送っていく。それ頭からかぶって。一緒にいるのを見られたら面倒なことになる」
「別々に帰れば問題ないわ」
「遅くまで引き留めたのは僕だ。それくらいはさせてくれ。それに今夜は、少しでも長くきみと一緒にいたい」
七々子は目を丸くして、ユーリスを見つめた。
今日のユーリスは、なんだかおかしい。変な勘ちがいをしそうになってしまう。
はじめは彼がやさしいからだと思っていた。泣いたり喚いたりする隊の仲間を放っておけなかったのだと。彼の情の深さはもう身に沁みて分かっている。
けれど、なんだかこれはどうもちょっと勝手がちがう気がする。
それを突きつめて考えると、一歩も動けなくなってしまう気がした。
「……七々子を困らせたいわけじゃないんだ。行こう。夜は冷える」
ユーリスは差しだしかけた手を引っ込めて、深海へと歩みを進める。
七々子はしばらくその場に立ち尽くしていたが、頭を振ってユーリスの後に続いた。




